行かないでと、願ったのに
 神様なんて信じない。行かないでと、願ったのに。彼を向こうの世界に連れて行ってしまった。
 容態が急変したのは明け方で、柔らかな朝日に照らされながら段々と脈が弱まっていった。そのまま為す術なく息を引き取った。穏やかな最期だったと思う。
 それで私が昼夜問わず泣いていたから、神様が情けをかけてくれた。顔を上げるとそこに愛しい彼の姿があった。私は彼に泣きついた。彼は驚きながらも優しく私の頭に手を添えてくれた。
 いつまでも一緒にいたいと願った。行かないでほしいと願った。たったそれだけの願いが叶わないらしい。
 別れは無情に訪れる。翌日に漕手が突然やってきて、有無を言わさず彼の手を引いた。彼はどこか安心したような表情をしていた。
 そうしてその数分後には彼は三途の川に揺られていった。もちろん私は引き留めようとしたけれど、死者はもう乗り込むことができないらしい。舟は私の手をすり抜けてどんどん遠くに離れていく。
 行かないで。私をこの知らない地に、一人にしないで。
 私はあの世にひとりぼっち。行かないでと、願ったのに。彼は一人で現世に戻ってしまった。
tiny love
 ちっぽけな愛。それが英語で表記されていることに何か意味を持たせたい。でもtinyで調べても「ちっぽけな」以上の意味が出てこない。「物理的に小さい」と「取るに足らない」という2つの意味に大別することはできるか。
 例文見ると子供の形容詞としてしばしば使われてそうなので、子供の可愛らしい愛♥みたいな話を考えようかな。いや、もっと小さく、手のひらサイズの妖精にするか。
 こんなのどうだろう。ある日枕元に小さな花が置かれていた。道端に生えてたら一切躊躇せず踏みつけてしまえるような、雑草にしか見えない花だ。それは妖精からしたら最上級の愛情表現だったけど、人間からしてみれば気味の悪い迷惑行動でしか無かった。
 それで、紆余曲折を経て(そこを考えろと言われたらそれはそう)、人間は妖精の居場所を奪うか、あるいは命を奪う行動を取ってしまう。取り返しがつかなくなってから人間は妖精の愛に気づく――某名著の「お前だったのか」ルート。
 ……「小さな存在の取るに足らない愛」という設定から一番に思いついたのが例のキツネのお話だった。そこから着想を得たのだけれど……ダメか。パクリになっちゃうか。
 オリジナルを考えるって難しい。どうすれば胸を張ってオリジナルと言えるのか、ね。
おもてなし
 懐かしいな。それまで数ある言葉の一つに過ぎなかった5文字が、東京オリンピックの招致を機に日本のコアであると印象づけられた。
 改めておもてなしって何?と言われると、私はまだ答えを見つけられていない。仮にこれが本当に日本のコアであるとするならば、当然になりすぎて存在に気づけていないかもしれない。なら国外に行けば分かるのか……というとそうでもない気がしていて、単に文化の違いで終わりそうだ。
 以前海外に行ったときに飲み物をこぼされてしまったことがある。謝罪されたので「大丈夫ですよ」と言ったら何も保障がなかった。あぁ、そういう親切はここにはないのか、と思った。批判というより、反省という意味で。
 じゃあここで替えの飲み物を持ってきたり布巾を持ってきたりするのがおもてなしなのか?と考えると、なんか少しモヤッとする。そんな優しさは他者に利用されて終わりだ。私は「あらゆる善意は悪意に搾取される」という穿った考えの持ち主である。
 おもてなしってそんなに良いものではないんじゃなかろうか。おもてなしをテーマに創作するなら、私はきっとネガティブな側面を掘り下げる。とことん親切にして、それを利用されて、最後には一転して不親切になるか、あるいは親切を突き詰めて洗脳にまで至るか……。うーん、でも、スカッと系に落ち着いてしまうのは何だかな。
 作品にするならもう一つくらいキーワードが欲しいところ。それが降りてくるその日までこれはストックに保存しときます。
遠い足音
 ある日突然"頭"と"体"が分かれた経験がある人って、世の中にどれくらいいるんだろう。朝起きて、起き上がったら"体"が軽くて、目の前には"頭"のない"体"が凍りついたように固まっていた。自分の"体"をまじまじと見たことがなかったから、それが自分の首から下だと気づくのには少し時間がかかった。
 あれから世界は不気味なくらい問題なく回っている。首のある人間たちが、首のない僕を当然という顔で受け入れ、社会の一員として認めてくれる。まるでこの状況に違和感を覚えているのは当人ただ一人だと言わんばかりだ。
 変な感覚なんだ。脳は"頭"にあって、"体"の動きは"頭"が制御する。目も耳も"頭"の方にあるから、"体"の見ている世界はまったくわからない。
 ただ唯一、触覚だけは違う。"体"が受けた振動が"頭"に伝わってくる。どんなに離れていても心臓の鼓動や歩く振動、周囲の気温や触れたものの感触が"頭"に入り込んでくる。気味の悪い感覚だ。
 例えば"頭"をどっかに放っておいて"体"を歩かせると、これまで無意識に処理していた視線の動きや足音がまったく無い状態で、歩く振動と進んでいるという実感だけが脳内にインプットされていく。「人がどこかで歩いている」という遠い足音が音もなく直に伝わってくる。
 そんな実験をしていたら車酔いのような症状が出てしまった。これじゃダメだ。周囲にどれだけ受け入れられようが、こんな身体じゃ普通の生活が送れるはずもない。
 部屋中からありったけの服や布を引っ張り出す。パーカー、マフラー、包帯に至るまであらゆる道具を駆使して頭と体を接続する。暑苦しいのが難点だが、これで酔いは防げるだろう。激しい動きをしなければ一つの身体として生活できそうだ。
 翌日、人々に言われた「あぁ、やっぱその方が便利なんだ」という優しさすら滲む笑顔の意味は――、なんだか恐ろしくて考えないことにした。
秋の訪れ
 あいつは、来る。俺は信じている。
 約束の時間から1時間、1日、1週間……。そして1ヶ月経ってもあいつは姿を見せなかった。それでもあいつは来る。きっと来る。
 思えば昔からよくわからないやつだった。寡黙で目立たず、いつもボーっと空を見上げているようなやつだ。でも俺たちは知っている。あいつは本当はすごいやつなんだ。何をやらせても一流で、あいつがいるだけで場の雰囲気が軽くなる。みんなあいつに苛立っているけど、同時にあいつを信頼している。
 毎回涼しい顔で遅れてやってきて「後は任せて」と微笑んでくる。あの不敵な笑みが俺の心を射抜く。伏し目がちな妖艶な眼差しも、薄い唇からこぼれる「おつかれ」の言葉も生きる芸術品のように人々の心を穿ち、治らない痕として残り続ける。認めよう。俺もあいつに魅了されている。
 だから耐える。いつまででも。あいつが輝ける場所は俺が守る。好きなだけ遅れてこいよ。俺は大丈夫だから。
 ――結局あいつが来たのは予定の1ヶ月半後だった。
 あいつはやはり伏し目がちに笑って言う。「お待たせ。もういいよ。後はやるから」と。はは、やっぱカッコいいな。
 俺は待機場に戻っていく。久しぶりに足を踏み出して、ようやく自分の疲労に気づく。体が重い。予定の2倍近く働いたんだ、当たり前か。
 そのとき、目の前から見慣れない顔が近づいてきた。あれは、あいつだ。"冬"だ。
「おつかれ。ついさっき秋と代わったばっかだけど」
「あぁ、うん。でもそろそろ僕のシフトだから……」
 首をかしげ、頭をかきながら歩いていく猫背の背中。それが自分の疲労と重なって、もう少し秋に遅刻グセを直してもらうよう進言しようと思った。