約束
思えば私は約束というものをろくにしたことがない。その言葉の持つ効力が怖かった。何らかの約束をする流れができていたとしても、いつも笑って誤魔化した。
とは言え一方的に約束を結ばれることもある。そうして結ばれた約束を、結局守ったことは一度もないように思う。例えば「恋人ができたら一番に教えてね!」というような好奇心の正当化と友情の確認作業は煩わしく感じていたし、「〇〇さんにもよろしくね」みたいな依頼は(これを「約束」と呼んでいいかは疑わしくも思うが)社交辞令と思って一度も実際に伝令したことはなかった。というか、その数時間後にはこれらの口約束など忘れていた。
唯一意識して守ろうとしていた約束があるとするならば、「他の人には話さないでね」という言葉だけだ。だったら私にも話すなよとは思いつつ、一応意識して秘密を守るようにはしていた。でもこの約束でさえ、何年も前のものはすっかり忘れている。何を話して良くて、何は話しては駄目なんだっけ? 逐一記録を取らなくては記憶できる自信がない。みんな本当に真面目に約束なんて守っているのだろうか。
先日のことだ。そんな私が、新たに約束を結んだ。数回会っただけの人と「また会いましょう」と約束をした。無論、これも相手から結んできた約束だ。あの人は真っ直ぐに私の目を見て真剣な声色で話していた。私は苦笑いをして曖昧に首を傾けるだけだった。首肯はしていない。
それでも、あれは私が守る人生で2つ目の約束になるのだろうという気がしている。何となくだ。確証はない。ただ、あの瞬間に私は約束というものの重みと暖かさを思い知ったのだ。
あなたは誰
「あなたは誰」
思わず声が出る。鏡に向かってそれは言ってはいけないと知っているんだけれど――いや、あれは自分の像に対して言ってはいけないという話だっただろうか。ならばこれは問題ないのだろうか。鏡に映った見知らぬ人に声を掛けるのは。
「か、鏡の中に住んでる人……みたいな感じですか?」
我ながら馬鹿げたことを言っている。鏡に映った人は目を見開き、辺りを見渡した。そして恐る恐るというふうに鏡に向き直るのだった。
「京本です。あなたこそ、誰ですか?」
驚いた。声が後ろの方から聞こえてきた。振り返るのは怖い。目の前に相手がいて、でも声は後ろから聞こえていて、一体どうなっているのだこれは。
「私は加々見と言います」
「加々見……?」
「はい」
「昔この部屋で亡くなった方ですか?」
は? 何を言っているのだ。亡くなった? 私が?
そう言われてみると、ここ最近の記憶がない。ふと目が覚めて、ぼんやりとしながら鏡を覗き込んだら見知らぬ人が映っていたのだ。
あぁそうか。この人は鏡の中に住んでいる人ではない。私の真後ろに立っている、こちらの世界を生きる人だ。2人ともこちらの世界にいるのだけれど、ただ、私の姿が鏡に映っていないのだ。
なんということだ。なぜ私は死んだ? なぜ今目を覚ました? 何も思い出せない。加々見という名字の他に一切の記憶を持ち合わせていない。思わず声が出る。
「私は、誰」
輝き
「ねぇおばあちゃん。なんでおばあちゃんのおはなは光ってるの?」
緑豊かな自然の中に、小屋のような一軒家が一つ。ここに住むのは笑いジワが深く刻まれた一人の老婆。夏休み上旬の今日は大姪の子が遊びに来ています。
大姪の言うとおり、大叔母の鼻やおでこは白く輝いていました。
「もしかしてまじょなの? だからここでくらしてるの?」
「あら。ふふ、魔女じゃないけど、魔法はあるのよ」
「まほう?」
舌足らずな声で聞き返す大姪に、大叔母は笑って立ち上がりました。ドレッサーの引き出しから古びたパクトを取り出します。
「不思議なお店で買ったのよ。ハイライトって言うの」
「はいらいと?」
「えぇ、お肌に塗ってツヤを出すものでね」
大叔母はパクトを開いてみせました。雪のように白い粉が敷き詰められたそれはほとんど使った形跡がなく、綺麗な平面をしていました。
「これが魔法みたいな粉なの。それか、呪いかもしれないわね……」
大姪は首を傾げました。大叔母は大姪がパクトに触れないように、すぐ蓋を閉めて引き出しの中に戻してしまいました。
「永遠の輝きをもたらすハイライトだって」
大叔母は自身の鼻の頭を擦って困ったように笑いました。
「困っちゃうわよね。こんな永遠をもらっても仕方ないのに。でもあのときは憧れてしまったのよ……」
大姪にはまだ難しかったようで、キョトンとして首を傾げていました。真っ白に発光している大叔母の顔をじっと見つめます。
「でも、おばあちゃんのおかおきれいだよ」
大姪はそう言って無邪気に笑いました。大叔母は驚いて目を見開き、そっと大姪を抱き寄せました。大姪はギュッと大叔母にハグをして応えます。
「そう。悪いことばかりじゃないのかしら」
「うん! びじんさん!」
「あら、うふふ」
老婆は心の枷が軽くなっていくのを感じました。そして甘えてくる大姪の頭を優しく撫でるのでした。輝く笑顔を浮かべながら。
ありがとう
「バレンタインのお返ししたら『あなたの告白を受け入れます』って意味になるんだって。知ってた?」
「は? 何それ?」
同僚に思わぬことを言われ、僕は固まった。急にそんなこと言われても、明日が問題のお返しの日だというのに。
「聞いたことないけど」
「街の子たちが話してたんだよねー」
「ローカルルールじゃない?」
「トランプじゃないんだからさ」
同僚の言い方はあまり本気っぽく聞こえなかった。多分彼もそんな噂冗談だと思ってるし、明日は噂など無視してたくさんのお菓子をお返しするのだろう。
「普通に『ありがとう』って意味でお返しするもんでしょ」
「色んな意味でな」
同僚は無関心そうに返事して仕事に戻りつつあった。切り替えが早いのは彼の取り柄だ。僕も彼を見習って人間リストの整理に取り掛かることにする。
「ところで最近不審死が騒がれてるから気をつけろよ」
「へいへい」
僕は適当に返事をしてこの話題を切り上げた。説教臭いのはあまり好かない。
僕たちは悪魔、またの名を天使。人の魂を喰らって生きる。
容姿が無駄に良いので多くの異性に言い寄られる。男の形をしている僕らには人間の女が近づいてくる。バレンタインの日なんかは顕著だ。
僕たちはそれを利用させてもらう。近づいてきた人間が次のターゲット。
だからお返しを渡して言うのだ。「ありがとう」と。
食べ物には感謝をしないとね。
星に願って
毎朝毎晩、祈り続けた。勝負の日が近づいている。
イメージトレーニングは完璧。友人も何度もシミュレーションに付き合ってくれた。
もちろん一番重要な準備もバッチリだ。あの甘い香りが鼻の奥にずっとこびりついている。この1ヶ月ほど試作品を弟に食べてもらっていたから心なしか彼の恰幅が良くなった気がする。
それらがあと少しですべて報われる。決戦は14日、バレンタインデーで。
……とまぁ、すべての物事は準備期間中が一番楽しいものだ。
長い間温めた気持ちも、度重なる練習も、何もかも無駄に終わった。呆気なく私は振られた。
気持ちのやり場がなくて、どうしても眠れそうになくて、私はベランダに出て寒風に当たった。空を見上げるとオリオン座が目に入った。リボンみたいな形をして空にでかでかと浮かんでいる。
「ちょっとくらい振り向かせてよ、お星さま」
何言ってるんだろう私。直後に襲ってくる気恥しさと言いようのない罪悪感。
まったくもう、明日の学校が憂鬱だ。
「もう全部忘れさせてください……」
懇願してもどうしようもない。風邪を引く前に私は部屋に戻ることにした。
翌日、学校に行くと何か様子がおかしかった。
友人はやけに同情的で、ほとんど話したことのない人たちからも視線を感じる。学校全体が浮ついた感じがするのは昨日がバレンタインデーだったからだろうか。
まぁ、私には関係ないんだけど。
そして何が一番おかしいって、私が学年一モテるとも噂されるイケメンに声をかけられたことだ。放課後、体育館裏に来てほしいという。
言われた通り行ってみたら「昨日から1日考えて考えが変わった」だの、「あなたの魅力に気づいていなかった」だのとわけのわからないことを言ってくる。
終いには「付き合ってください」と言ってくるんだからビックリしてしまった。人違いか、たちの悪いドッキリとしか思えない。
そりゃ心が揺らがなかったと言えば嘘になるけれど、申し出はお断りした。相手はショックを受けていたし、友達にはひどく驚かれた。でも、彼らには申し訳ないが、ドッキリかもしれないという疑いを拭いきれないのだ。
その晩、何気なく見上げた先にあったオリオン座にため息をつかれた気がした。とりあえず「私にもいつか好きな人ができますように」とお願いしたら、またため息の音が聞こえた気がした。