遠い足音
ある日突然"頭"と"体"が分かれた経験がある人って、世の中にどれくらいいるんだろう。朝起きて、起き上がったら"体"が軽くて、目の前には"頭"のない"体"が凍りついたように固まっていた。自分の"体"をまじまじと見たことがなかったから、それが自分の首から下だと気づくのには少し時間がかかった。
あれから世界は不気味なくらい問題なく回っている。首のある人間たちが、首のない僕を当然という顔で受け入れ、社会の一員として認めてくれる。まるでこの状況に違和感を覚えているのは当人ただ一人だと言わんばかりだ。
変な感覚なんだ。脳は"頭"にあって、"体"の動きは"頭"が制御する。目も耳も"頭"の方にあるから、"体"の見ている世界はまったくわからない。
ただ唯一、触覚だけは違う。"体"が受けた振動が"頭"に伝わってくる。どんなに離れていても心臓の鼓動や歩く振動、周囲の気温や触れたものの感触が"頭"に入り込んでくる。気味の悪い感覚だ。
例えば"頭"をどっかに放っておいて"体"を歩かせると、これまで無意識に処理していた視線の動きや足音がまったく無い状態で、歩く振動と進んでいるという実感だけが脳内にインプットされていく。「人がどこかで歩いている」という遠い足音が音もなく直に伝わってくる。
そんな実験をしていたら車酔いのような症状が出てしまった。これじゃダメだ。周囲にどれだけ受け入れられようが、こんな身体じゃ普通の生活が送れるはずもない。
部屋中からありったけの服や布を引っ張り出す。パーカー、マフラー、包帯に至るまであらゆる道具を駆使して頭と体を接続する。暑苦しいのが難点だが、これで酔いは防げるだろう。激しい動きをしなければ一つの身体として生活できそうだ。
翌日、人々に言われた「あぁ、やっぱその方が便利なんだ」という優しさすら滲む笑顔の意味は――、なんだか恐ろしくて考えないことにした。
秋の訪れ
あいつは、来る。俺は信じている。
約束の時間から1時間、1日、1週間……。そして1ヶ月経ってもあいつは姿を見せなかった。それでもあいつは来る。きっと来る。
思えば昔からよくわからないやつだった。寡黙で目立たず、いつもボーっと空を見上げているようなやつだ。でも俺たちは知っている。あいつは本当はすごいやつなんだ。何をやらせても一流で、あいつがいるだけで場の雰囲気が軽くなる。みんなあいつに苛立っているけど、同時にあいつを信頼している。
毎回涼しい顔で遅れてやってきて「後は任せて」と微笑んでくる。あの不敵な笑みが俺の心を射抜く。伏し目がちな妖艶な眼差しも、薄い唇からこぼれる「おつかれ」の言葉も生きる芸術品のように人々の心を穿ち、治らない痕として残り続ける。認めよう。俺もあいつに魅了されている。
だから耐える。いつまででも。あいつが輝ける場所は俺が守る。好きなだけ遅れてこいよ。俺は大丈夫だから。
――結局あいつが来たのは予定の1ヶ月半後だった。
あいつはやはり伏し目がちに笑って言う。「お待たせ。もういいよ。後はやるから」と。はは、やっぱカッコいいな。
俺は待機場に戻っていく。久しぶりに足を踏み出して、ようやく自分の疲労に気づく。体が重い。予定の2倍近く働いたんだ、当たり前か。
そのとき、目の前から見慣れない顔が近づいてきた。あれは、あいつだ。"冬"だ。
「おつかれ。ついさっき秋と代わったばっかだけど」
「あぁ、うん。でもそろそろ僕のシフトだから……」
首をかしげ、頭をかきながら歩いていく猫背の背中。それが自分の疲労と重なって、もう少し秋に遅刻グセを直してもらうよう進言しようと思った。
コーヒーが冷めないうちに
飲食物は冷めてしまっては美味しさが半減するという前提のもとに成り立っている台詞だ。私は猫舌なので、その言葉を聞くとつい反発したくなってしまう。熱いと味もよくわからないし、おそるおそる飲むから楽しくない。何より口の中を火傷してしまうんです。ぬるくなってからのほうが柔らかい本来の風味を味わえると思うんです。
それでも冷めないうちに飲んでほしい? そう。その言葉の裏は?
最初は親切心から来る言葉だと思った。悪く言うのならばお節介。他のことに気を配らずどうぞ美味しいコーヒーを味わってくださいという、こちらを慮った台詞だと考えるのは自然なことだ。
でもどうやらそうではないらしい。改めて彼を見ると眼光鋭く飢えた獣のようにこちらを見据えている。自分の最上の作品を相手に味わってもらわなければ作者としての自分は息絶えると言わんばかりに。共感はできかねるが悪いことをしたとも思う。
コーヒーカップが唇に当たる。熱い。恐怖と焦りが味覚を覆い隠す。こうまでして熱いものを飲ませる必要がどこにある?
そこでふと恐ろしい仮説が浮かぶ。ただの妄想だ。例えば、高温下で作用する毒物が入っている。例えば、時間経過で作用が低下する薬が入っているからなるべく早く飲んでほしい。そんなはずないとわかっていても一度被害妄想に囚われてしまうと抜け出すのは難しい。静かにカップをテーブルに戻す。
「すみません、失礼します」
代金は支払う。文句は無いだろう。
そう内心毒づいて差し出したお札は拒まれた。制するように差し出された手のひらは、続いて黙って扉を指し示す。そう言うなら、お言葉に甘えて。こちらも黙って外への一歩を踏み出す。
「ただ早く帰ってほしかっただけですよ」
背中から声がかけられる。あらぬ疑いを掛けられたことに対する静かな怒りが感じられる。
「終わりの日を見知らぬ他人と過ごしたくはありませんので」
遠くの地面が輝いている。冷気が頬を撫でる。鏡のように光る地面に季節外れの雪が降り積もる。氷の膜は大きな生き物のように這いつくばい近づいてくる。なんだそれ、だったら最後に熱さというものを味わっておいてもよかった、と後悔する後ろで食器を洗う音がする。
唇を軽く舐める。少しヒリヒリして、軽度の熱傷を受けていたのだと気づいた。
空白
教科書の表紙裏で空白の美しさについて語られていたのを思い出した。中学の国語の教科書だったかな。木々が描かれた水墨画が見開きに載っていた。面積比で言えば7対3くらい、画面の大部分がくすんだ半紙の色をそのまま残していて、クリーム色の見開きの端に空白の意義について書かれた文章が追いやられている。
授業でこれについて多く触れられた記憶はない。先生は空白の美学というものにさほど共感しなかったらしく、ほんの一言程度触れてサラリと飛ばされた気がする。でも私はなぜかこの白黒の作品に魅入られた。多分このときはじめて空白を主役として認識した。何もない空間の空気に思いを馳せると、途端に2次元の世界が遠くへ遠くへと広がっていく。この日から私は「何も無い」という一つのモチーフを獲得したのだと思う。
いつか「何も無い」をテーマに物語を書いてみたいな。もしかしたらあのときのように、チラリと見るだけで流されてしまうかもしれないけれど。
Red, Green, Blue
光の三原色。この3種の光を重ねると白色になるのだそうで。どうやって発見されたのだろうか。
……いや、実験方法や経緯は調べればすぐに出てきそうではあるけれど、実際にそのプロセスに関心があるのではなくて。赤と緑と青を三つ巴にするという発想が私にはないので、この3色が三原色として提示されたとき当時の人はどんな感想を抱いたのかと。
だって、緑と青ってほとんど同じじゃん。というのはあまりにも日本人的な感覚だろうか。
昔から不思議だった。戦隊モノや信号機など、3色選べと言われたら赤、青、黄色の3つが定番だ。でも光の三原色はもちろん、色の三原色もマゼンタ、シアン、イエロー。先述の定番色とは異なる。赤、青、黄の組み合わせはどこから来たんだ。
フラフラとネットの記事を見ていたら、昔の人は色の区別が今ほど明確ではなく、赤紫に近いマゼンタを「赤」、青緑を薄めたようなシアンを「青」と呼んでしまったのではないかと考察している人がいた。数刻前私が緑と青を同系色として見たように。それで色の三原色が赤、青、黄と捉えられた。
なるほどなぁと腑に落ちる部分はあるけど、言語のシフトから始まり最終的に全く違う色を主役に据えるというプロセスには些か暴力性を感じないでもない。というか、赤と青は光の三原色で使われてるんだから、「色」における重要メンバーに援用したらややこしいでしょうよ。そう思ってくれる人は当時いなかったのか。
……あぁ、今日のお題は光の三原色だったか。また脱線をしてしまった。赤、緑、青、ね。
どうせ言葉を言い換えるなら、イエローのことも緑と呼んであげれば良かったのにねと思う。どうしてもこの光の三原色の並びを見ると緑を仲間はずれに感じてしまう。それか、マゼンタやシアンに相当する新たな色の名前をつけるとか。なんて、今さら言っても仕方のないことだけど。