冷瑞葵

Open App

遠い足音

 ある日突然"頭"と"体"が分かれた経験がある人って、世の中にどれくらいいるんだろう。朝起きて、起き上がったら"体"が軽くて、目の前には"頭"のない"体"が凍りついたように固まっていた。自分の"体"をまじまじと見たことがなかったから、それが自分の首から下だと気づくのには少し時間がかかった。
 あれから世界は不気味なくらい問題なく回っている。首のある人間たちが、首のない僕を当然という顔で受け入れ、社会の一員として認めてくれる。まるでこの状況に違和感を覚えているのは当人ただ一人だと言わんばかりだ。
 変な感覚なんだ。脳は"頭"にあって、"体"の動きは"頭"が制御する。目も耳も"頭"の方にあるから、"体"の見ている世界はまったくわからない。
 ただ唯一、触覚だけは違う。"体"が受けた振動が"頭"に伝わってくる。どんなに離れていても心臓の鼓動や歩く振動、周囲の気温や触れたものの感触が"頭"に入り込んでくる。気味の悪い感覚だ。
 例えば"頭"をどっかに放っておいて"体"を歩かせると、これまで無意識に処理していた視線の動きや足音がまったく無い状態で、歩く振動と進んでいるという実感だけが脳内にインプットされていく。「人がどこかで歩いている」という遠い足音が音もなく直に伝わってくる。
 そんな実験をしていたら車酔いのような症状が出てしまった。これじゃダメだ。周囲にどれだけ受け入れられようが、こんな身体じゃ普通の生活が送れるはずもない。
 部屋中からありったけの服や布を引っ張り出す。パーカー、マフラー、包帯に至るまであらゆる道具を駆使して頭と体を接続する。暑苦しいのが難点だが、これで酔いは防げるだろう。激しい動きをしなければ一つの身体として生活できそうだ。
 翌日、人々に言われた「あぁ、やっぱその方が便利なんだ」という優しさすら滲む笑顔の意味は――、なんだか恐ろしくて考えないことにした。

10/2/2025, 2:49:05 PM