冷端葵

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5/26/2024, 11:57:21 PM

月に願いを

「流れ星は願いを叶えてくれるけど、月は願いを叶えてくれないのかな? あんなに空の中央で煌々と輝いているというのに」
 そう言った君の横顔は、満月なんかよりもずっと輝いて見えた。暗い夜空の下で浮かび上がる君の輪郭が美しい。
「さぁ。流れ星は一瞬でなくなるからさ、その短い時間の中に何か意味を見出したいんだよ、人間っていうのは。ほら、月はいつだってあそこにあるだろう」
「そうかなぁ。うん、そうなんだけれども」
 君は首を傾げる。サラリと落ちたその黒髪すら美しい。宇宙のずっと遠くを見つめるような、黒く透明な瞳が美しい。僕は月ではなく君ばかりを見つめてしまう。
 僕の視線に気づいたのか、君はこちらに目を向けてフッと笑った。「私の顔に何かついてる?」なんて言って。
「ねぇ、儚いものに価値があるというのなら、私に願いを言ってよ。叶えてあげるかも」
 僕は思わず聞き返した。君は二度は言ってくれなかった。いたずらをした子供のようにフフッと笑って僕の返事を待っている。
「……僕は君とずっと一緒にいられるのなら、それでいいよ。ずっと隣にいてほしい」
 君は目を丸くした。君のそんな表情は初めて見た。どこか悲しげで、伏せた瞳に長い睫毛がかかって、そんな所作でさえすべて美しいのだ。
「それって……告白?」
「うん」
「ふふっ。嬉しい」
 君は笑う。でもその顔が、本当は笑っていないように僕には見えた。美しさに見とれるより先に、君を抱きしめたい衝動に駆られた。
「ごめんね。その願いは叶えられないかな」
 君はそう言って視線をそらしてしまった。ずっと空の向こう側を見つめて、僕のほうを二度とは見てくれなかった。
 君に会ったのはこれが最後だった。今君がどこにいるのか僕には分からない。ただ、月を見上げると君のことを思い出す。君に願いを捧げたあの日を。

4/29/2024, 12:45:32 PM

風に乗って

 風に乗って世界を旅したい。
 そう思ったことがある。何に生まれ変わりたいかと聞かれたときに浮かんだことだ。小さな分子にでもなって世界中を巡りたいと思った。
 さて、仮にそれが実現してしまったとしたらどうしよう。私は台風のような突風はもちろん、指一本動かして発生するような微風にも流されて、宙を漂ってだだっ広い世界を旅することになる。
 それは果たして旅と呼べるだろうか? 世界遺産をゆっくり見る時間も、各国のグルメを味わうことも、文化の違いを楽しむ余裕もない。偏西風にでも巻き込まれてしまったら、そこから抜け出す術はないかもしれない。
 しかし、何もせずただ風に乗って様々な場所を巡れるというのは魅力的な発想だ。そうだな、小さな分子ではなくて、もう少し大きなものならどうだろう。
 以前水族館でマンタを見たとき、空を飛んでいるようだと思った。空を飛ぶマンタに生まれ変わるのはどうだ? 羽衣のように空を舞い、風に乗って世界を巡る。人に見つかっては面倒だから、透明だとなお良いな。なかなか優雅で美しいじゃないか。小さな分子でいるよりは少しゆっくりと観光する余裕もできるかもしれない。
 悪くない。何に生まれ変わりたいかと聞かれたら、今後は空飛ぶマンタと答えようか。

4/29/2024, 9:20:49 AM

刹那

 箱庭の中は慌ただしい。瞬きする暇さえありゃしない。一つ瞬きをするだけで先程生まれた赤ん坊の腰が曲がっているのだから。このパノラマを見守るようにと仕事を与えられたはいいが、千変万化する箱庭のどこを見ればよいのか分かったものではない。浮世は刹那さ、一喜一憂するものではないよ、全ては過ぎ去るのだ。草臥れた先輩が数刻前にそう呟いていた。全くその通りである。指を鳴らして六十刹那が過ぎる頃にはいくつもが死に、いくつもが生まれる。自分が目をかけた子供も、二度瞬きをすれば土に還る。あぁ、諸行無常、生々流転、絶えず移ろう浮世はやはり刹那である。

4/28/2024, 9:47:09 AM

生きる意味

「あーあー、テストを始めます、聞こえますか」
 脳に直接声が響く。歯車が軋むような音がかろうじて言語の形になっている。しかし返事をしようにも声が出ない。仕方なく重い体を揺らすと、それが返事の代わりとなったようだ。
「あー、あー! 聞こえてますね。今の自分の状況は分かりますか」
 否定したいが、否定の意を伝える術がない。しばらく固まっていると向こうから「分からない?」と確認されたのでここぞとばかりに体を揺らした。
 眼の前は深い靄に覆われて何も見えない。その中はまるで何億本ものレーザービームが照射しているように眩しくて目を逸らしたいのに、目を逸らすことはおろか、目を閉じることさえできないのだった。
 体はほとんど動かない。感覚もない。実体のない映像を見ている感覚だった。
「ところでお聞きしますが、あなたが生きるのは何のためでしょうか?」
 返答の術もないのに質問を投げかけられる。あれやこれやと考えていると、また確認するように「楽しいことがあるから? あなたを愛する人がいるから?」とクローズドな質問が行われる。体を揺らす。
「あなたは今、脳だけを培養されている状態です」
 突然断定的な真実が告げられる。聞き間違いかと耳を澄まそうにもどこに耳があるのか分からない。
「楽しいことは起こりません。愛する人もいません。それでも生きますか?」
 少し固まった後、小さく体を揺らした。こうして体を揺らしたつもりでいるのも実際は脳が試験管の中で振動しているのか、あるいは他の何かか、自分では分からなかった。
「なるほど、それは、生を終わらせる手段がないからでしょうか。今すぐに終わらせる手段があると言っても、あなたは生きますか?」
 体を揺らす。「なるほど」と機械音が聞こえた。
「テストは以上です」
 その言葉を最後に辺りは無音になって、いつも通り靄ごしのミラーボールのような景色だけになった。

「テストは以上です」
 その言葉とともに通信を切る。周囲の人々は混乱と期待の混ざった表情で顔を見合わせた。
「ご覧のとおり、一般に言われている2つの『生きる意味』は、生きるために十分ではあれど、必要ではありませんでした」
 その言葉に周囲の人間たちはうなずき、誰かが手を叩いたのを皮切りにパラパラと拍手を送った。テストを行った人間はすっと手を上げてそれを制する。
「まだ研究は始まったばかりです。人間の生きる意味、その根源を探るべく、これから長い時間をかけて調べていくことになります。どうぞ皆様改めてよろしく。そして、研究に協力してもらう彼に敬意を」
 そう言って指し示されたガラスの先には、仰々しい機会に繋がれた試験管があった。両手に収まるほどのそれの中には人間の脳が浮かんでいる。人々は胸に手を当て、『彼』に深く頭を下げた。

4/23/2024, 10:01:01 AM

たとえ間違いだったとしても

 今からおよそ千年後の世界。
 人生のあらゆる情報はデータバンクに記録される。人生における無数の選択に対して、その後の結果をもとにAIが点数をつけ、人生そのものを評価される。
 人生においてこの情報が最重視されるようになった。データバンクから合法的に情報が引き出され、進学先は点数順に希望が通る。採用活動では点数をもとに採用される。裁判は点数が判決に大きく影響する。税金や社会保障に関しても点数が高い者が有利になった。
 いいことをすれば返ってくると喜ぶ者がいる一方で、頭を悩ませる人も多かった。これまでの人生で何か大きな間違いを犯してやいないかと気を揉んで寝られなくなる人もいた。そんな中、ここに漬け込んでサービスを提供する業者も現れる。業者の誘い文句はこうだった。
「たとえ間違いだったとしても、大丈夫ですよ」
 そう言って密かに、そして得意げに囁いた。
「ミソとなるのは、『その後の結果をもとに点数がつけられる』ということです。ならば、その後の結果を正解とすればいいのです」
 業者は確実に客を取り、目を見張るほどの売上を上げた。中には過激な業者もいて、顧客の要望に答えて世界を曲げていった。
「他人を傷つけてしまったなら、その人を悪者にすればいい。ルールを破ってしまったなら、ルールを過ちにすればいい。大丈夫。たとえ間違いだったとしても、それは正解になります」
 政府は過激な業者の取り締まりを行った。それが困難であると悟ると、政府は事の大小にかかわらずすべての業者の存在を違法とし、業者を利用した人の点数を大幅に下げると発表した。
 それでも業者は笑うのだった。
「たとえ私たちを利用するのが間違いだったとしても、大丈夫。正解にすればいいのです」
 実際当分の間は業者を利用することはデメリットにならなかった。業者によって「正しい人」にされた顧客を、AIは贔屓した。政府に歯向かってでも正しいことをしたと、むしろ高い点数がつけられてしまう例もあった。
 こうして人生の点数化は困難を極め、結局開始から50年足らずで廃止となり、ようやくこの戦いに終止符が打たれたのだった。

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