冷瑞葵

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生きる意味

「あーあー、テストを始めます、聞こえますか」
 脳に直接声が響く。歯車が軋むような音がかろうじて言語の形になっている。しかし返事をしようにも声が出ない。仕方なく重い体を揺らすと、それが返事の代わりとなったようだ。
「あー、あー! 聞こえてますね。今の自分の状況は分かりますか」
 否定したいが、否定の意を伝える術がない。しばらく固まっていると向こうから「分からない?」と確認されたのでここぞとばかりに体を揺らした。
 眼の前は深い靄に覆われて何も見えない。その中はまるで何億本ものレーザービームが照射しているように眩しくて目を逸らしたいのに、目を逸らすことはおろか、目を閉じることさえできないのだった。
 体はほとんど動かない。感覚もない。実体のない映像を見ている感覚だった。
「ところでお聞きしますが、あなたが生きるのは何のためでしょうか?」
 返答の術もないのに質問を投げかけられる。あれやこれやと考えていると、また確認するように「楽しいことがあるから? あなたを愛する人がいるから?」とクローズドな質問が行われる。体を揺らす。
「あなたは今、脳だけを培養されている状態です」
 突然断定的な真実が告げられる。聞き間違いかと耳を澄まそうにもどこに耳があるのか分からない。
「楽しいことは起こりません。愛する人もいません。それでも生きますか?」
 少し固まった後、小さく体を揺らした。こうして体を揺らしたつもりでいるのも実際は脳が試験管の中で振動しているのか、あるいは他の何かか、自分では分からなかった。
「なるほど、それは、生を終わらせる手段がないからでしょうか。今すぐに終わらせる手段があると言っても、あなたは生きますか?」
 体を揺らす。「なるほど」と機械音が聞こえた。
「テストは以上です」
 その言葉を最後に辺りは無音になって、いつも通り靄ごしのミラーボールのような景色だけになった。

「テストは以上です」
 その言葉とともに通信を切る。周囲の人々は混乱と期待の混ざった表情で顔を見合わせた。
「ご覧のとおり、一般に言われている2つの『生きる意味』は、生きるために十分ではあれど、必要ではありませんでした」
 その言葉に周囲の人間たちはうなずき、誰かが手を叩いたのを皮切りにパラパラと拍手を送った。テストを行った人間はすっと手を上げてそれを制する。
「まだ研究は始まったばかりです。人間の生きる意味、その根源を探るべく、これから長い時間をかけて調べていくことになります。どうぞ皆様改めてよろしく。そして、研究に協力してもらう彼に敬意を」
 そう言って指し示されたガラスの先には、仰々しい機会に繋がれた試験管があった。両手に収まるほどのそれの中には人間の脳が浮かんでいる。人々は胸に手を当て、『彼』に深く頭を下げた。

4/28/2024, 9:47:09 AM