暗闇から生まれたソレは、人間のカタチをしていたし、人間らしく行動できる意思も持っていた。
暗闇から出て、人間らしくいようとしたソレは見様見真似で食事をはじめた。
本来、必要のない食事は口に入れる毎に吐き出されたが、何度も何度も繰り返すうちに受け入れられるようになった。食事を摂る事で排泄を覚えたソレはまさしく人間のようであった。
人間であるために、食事と言われればなんでも食べた。
そんなソレの姿を気に入った男がいた。
なんでも美味しそうに食べる姿に好感を抱いたという。
ソレもまた、男に好感を抱いた。自分に向けられたはじめての感情に、応えたいと思えたのだ。
期待に応えたくて、ソレはなんでも食べた。そうしているうちに、本当の人間になれたような気がしたのだ。
けれどその食事は、卑しいほどになっていた。
およそ、好感を抱くようなものではない。
男はソレを大事にしていたつもりだったが、ソレのその卑しさは感情と直結し男の行動を制限させるほどになった。
やり過ぎだと男はキツく押し退けてソレを遠ざけた。
ソレは悲しんだ。
辛くて苦しくて、涙のようなものを流して、食事を止めた。
食事をしなくなれば排泄もしなくなり、感情の起伏もおきない。あとは暗闇に戻れれば苦しいのもなくなるだろうとソレは思考していた。
食べなくなったソレを男は不思議に思った。
男の関心を引こうとしているのか。それとも男がソレを遠ざけた事をただ悲しんでいるのか。
毎日のように見ていた食事風景を見なくなった。
他の人間を通して聞けば、ソレは「食べている」と言う。確かに体つきが変わったようではない。
ただ、食べているのなら、また一緒に食事をしたい。
決して嫌悪を抱いたのではない。今でもずっと大事なのだ。あの時はただ反省を促したかっただけなのだから。
ソレの感情の起伏の大きさは、他者を傷つけるほどであったから。
反省してくれたのなら、同じ過ちを繰り返さないなら、また側に居たい。居て欲しい。
男は準備した。
ソレは何でも食べるから、何を用意してもいつも嬉しそうに食べてくれていた。
なのにソレは、男の準備したものを目の前にして、ほんの少し齧ることすらしなかった。
暗闇のような無感動な瞳をわざとらしく細めて「自分は大丈夫だから、何もいらないだけなの、気にしないで」と口が動く。
ソレに食事を断られたのははじめてだった。
久しぶりの会話でもあったのに。
気に病んでいるのだろうか。
何がダメだったのだろうか。
好き嫌いなどしたことはなかったが、嫌なものでもあっただろうか。
それから男は、しばしばソレの姿を見ないことが増えた。
毎日、どこかで見ていたのに。
気まずくて連絡もできていないから、余計に様子が分からない。
心配であったし、不安でもあった。
けれど、食事を介さないとソレとどういう付き合いをしていたのかあやふやで分からなくなっていた。
大事にしていたのに。大事にしていたつもりだったのに。
それでも男は、どうしてもソレの笑顔が見たかった。
ソレは相変わらず現れたり消えたりしていたが、ある日、再び男はソレに声をかけた。
準備したお菓子がある。これは前によくソレが笑顔で食べていたものだ。きっと喜んでくれる。きっと。きっと。
ソレの瞳が、無感動そうな暗闇が、感情の色を灯したように歪んだ。
まるで、嫌悪するように。
男は驚いた。
ソレの嫌悪の瞳が、男に向けられたわけではない。
男の準備したお菓子に向けられたのだが、食べる物を目の前にして、ソレが嫌悪を向けたのははじめてだ。
と、直ぐにソレから笑い声が漏れた。
しばらく楽しそうに、可笑しそうにソレは笑う。
男は不思議に思うが、安堵もした。
ソレがようやく笑ってくれたのだ。
よく食べていたのだから、やはり選んで良かった。
先程の嫌悪の表情は見間違いだろうか。いいや、何でもいい。今はまた、以前のように一緒に食事がしたい。
ソレはさも面白いと言わんばかりに、男を見た。
「ああ、私はコレが嫌いだったんだ」
(ああ、私は人間にはなれなかった)
“何もいらない”
もしも未来を見れるなら、そう強く思って金毛の羊は宝瓶宮にその四つ脚を踏み締めてやってきたのだ。
みずがめ座の聡明さ、冷静な分析力は予言と言っても過言ではない。それだけではなく、通説から外れた発想力は他の追随を許さない。
通訳のいて座を引き連れて、いざ、みずがめ座に対峙したおひつじ座だったが、2分後には撃沈してめえめえ鳴いていた。その次の瞬間には回復しているのでその立ちなおりの速さはさすがだなと通訳のいて座はいつものように笑んでおひつじ座を見守っていた。助けを求められないかぎり手も口も出さないからこそ、おひつじ座も通訳にいて座を選んでいるのだ。
おひつじ座が改めてめえめえと鳴くのにはわけがある。
そろそろ開催される流星群のレースに向けて、一攫千金を狙っているのだ。
そういう俗っぽさも嫌いではない、といて座は思うからこそおひつじ座に付き合っているが、みずがめ座は流石の難攻不落とでも言うべきか、興味がないわけではなさそうだがおひつじ座がかわいそうなくらいにレース予想のお願いを一蹴したのだ。
特に隠さず肩を震わせ、口元に空気をパンパンに入れて耐えるいて座のことすら、みずがめ座は面白くなさそうに一瞥しただけだ。
機嫌が悪いのではなく、興が乗らないのだ。ましてやあのみずがめ座のことだ、白を黒と言うのが当たり前な相手に真っ向勝負で賭けの必勝法を聞いたところで素直な答えが返ってくるわけがない。
それでもおひつじ座がめえめえ鳴くので、いて座は本日の業務と思って通訳をこなす。
「レースで勝ったら、白羊宮に美味しい草を植えて羊たちにいい羊毛を作ってもらうんだと。それで、それを冬がくる前に星たちにどうしても贈りたいらしい」
無表情なみずがめ座の表情が、本当にわずかに変化した。
見る人がみなければ分からないほどほんの少しの変化だったが、なんだかんだで情にあついみずがめ座のことを思えば、その表情の変化をいて座は見て見ぬフリをする。
しかしみずがめ座に必勝法を教えてもらったとして、おひつじ座が理解できるのだろうかと、いて座は口には出さずに通訳にただ徹していた。
もしも未来を見れるなら、今冬は星たちが暖かいウールに包まれているだろうと分かっていたからだ。
“もしも未来を見れるなら”
黄道十二宮のうち11番目、宝瓶宮の主人は美しく、聡明で、誰からも愛されていた。
その美しさにあらゆる星の瞬きが跪くが、その全てを鼻で笑い、あるいは笑うこともなくあしらう。
その聡明さは予言とすらいわれるほどであるが、それを誰かに分け与えることはない。
常に携える水瓶から流れる水でも酒でもあるそれは全ての生命の源であり、美しく聡明な主人はそれを絶えず星の瞬きの中に流す。
周囲に関心を寄せず、反骨的で、けれど星々を愛する自己のみで完結する世界はまさしく水瓶から流れる色と同じ、何物にも染まることのない美しく聡明な主人の無色の世界である。
“無色の世界”
黄道十二宮のうち12番目、双魚宮の主人は人魚と魚、またはツバメである。
魚は、揺れる星の海をその水中で眺めていた。
その巨体を包んであまりある包容力を持つ星の海は、あまりの広さと深さに海と言われているが、実際は女神の落ちた湖を模しているものである。双魚宮には大きく流れる河が2つに、その端々に水が流れ着く湖が点在している。それ以外の箇所は陸地になっており、その陸地には処女宮から貰った桜の木が植えてある箇所もあった。
流石は豊穣の女神の性質も混同されているおとめ座から譲られたものであるからか、嫋やかな色合いの花は盛大に咲き誇ってその存在感を見せつけている。
それを水中から魚は眺めていた。星の瞬きの中で輝く光がゆらゆらと揺れてなんとも幻想的ではあるが、水上に存在するその桜の木は遠く高く離れたところにある。
魚と紐で結ばれている半身が魚の少女は、魚の巨体にその白くか細い身体を預けて同じく水中から桜を眺めていた。うっとりと頬を桜の色に染めて水面を見上げる少女の姿は、その美しさに魅入られているのがありありと分かった。
魚はゆっくりとその巨体を動かすと少しずつ少女から離れていく。最初は突然に動いたその巨体に驚いたように瞬きした少女は、自分から離れていく巨体に対して物哀しげに手を伸ばしてその鱗を指先で撫でる。その指先のくすぐったさに僅かに身を捩りながら魚は少女から離れて水面へと近づいていく。魚の巨体と少女の鰭とで繋がっている紐が上へ上へと伸びていった。
そのまま勢いよく水面に飛び出した魚は、その上半身をツバメの姿に変えると羽根を広げて宙を舞う。
巨体だった魚の身体が小さなツバメのそれに変わっても、その身体には紐が結ばれており水中の少女としっかりと繋がっていた。
小さな羽根を最小限の動きで風に乗ると、桜の枝にツバメの身体を滑り込ませて桜の花を一つ小さな嘴に咥え込んだ。そのまま身を翻して、流れるように水面に飛び込んだ。
勢いよく飛び込んだ水中はある程度の深さまでは進んだが、ツバメの上半身が水を弾いて浮こうとする。下半身の魚の尾鰭を動かそうとしたところで、少女の両手がツバメの身体を優しく包み込んだ。魚の巨体とは違い、可憐な少女の両手で覆うほどしかないツバメの身体が安心したように力を抜いて少女に身を預けた。
そのツバメに頬を寄せて、水面近くまで追ってきていた少女はまた水中の奥へと沈んでいく。ぷつぷつとツバメの嘴から小さな泡が漏れて水面へと上がっていく。
ある程度まで沈んだ少女が両手を広げると、ツバメの小さな身体が再び魚の巨体に戻った。巨体をゆったりと動かして少女の周りを一周した後に、その目の前で口を大きく開けた。
大きな空洞の中に、桜の花が一つ、瞬いていた。
しかしそれも魚が口を開けた瞬間に入り込んだ水に流れて花びらが歪んで、ほんの少しの力でくっついていたのだろう水中でバラバラに崩れて散った。
小さなツバメの身体では桜の花をただ一つしか持っては来れなかった。しかも少女の手に触れる前に桜は散ってしまった。
あんぐりと口を開けたままであった魚だったが、視線はぷかぷかと水中に浮かんで流れていこうとする花びらを追っていた。目の前の少女の表情を伺えなかったのだ。
だから、死角から少女に飛びつかれて魚はそのバランスを崩した。尾鰭を盛大に揺らして、口元から幾つもの泡を出しながら少女は魚の巨体を両手いっぱいに広げて礼を伝える。
少女の動きが水中の中で大きく動いて、長い髪がゆらゆらと揺れる。魚にはきらきらと瞬く光の中で、水面の桜色が映り込んで少女の髪も桜色に染まって見えた。
“桜散る”
最初はお母さんだった。
それがいつの間にかお花屋さんになった。
その次の日にはピアノを弾く人になっていたけれど。
それからも色々あった。
幼稚園の先生であったり、スポーツする人であったり、宇宙飛行士なんてのもあった。
テレビに出る人から、動画でゲームする人にもなった。
一時は、何にもない、なんて時もあった。
そうして君は、今はせっせと苦手な早起きをして沢山の花に囲まれている。手はたくさん傷ついているのに、とても素敵な笑顔で働いている。
君の夢見る心の側にいさせてくれて、本当にありがとう。
“夢見る心”