父が連れてきた奴隷は、今までに出会ったこともないほど眩い男性だった。
人とは思えないその端正な顔立ちに引き締まった身体、指先の所作一つとっても品がある。しかしそれに驕ることはなく常に紳士的で、いつも穏やかで爽やかに微笑むのだ。
その瞳の明るさに、与えられた仕事がどんなに過酷でも曇らないその瞳を自然と目で追ってしまっていた。
なんて素敵な殿方なのでしょう。
父は関わるなと言う。父の大事な蛇を殺めてしまった方なのだそう。
母は私が恋をしているという。彼は自分の部下を守るために父の蛇を殺めたのだそう。
8年という月日が、蛇を殺めた咎として過ごす期間として長いのか短いのか分からない。
殺めたのは酷いことだと思う。けれどそれが自分の部下を守るためであるなら、情状酌量の余地はあるように思う。とても優しくて、勇ましい方なのでしょう。
彼が自由になれる日が早くくればいいのにと思うのに、彼がずっと近くにいてくれればいいのにとも思ってしまう。
だから驚いた。
彼が奴隷から解放されるその日に、私を彼の妻にしてくれるのだという。
父と彼の和解の証として。
テュロスの王アゲーノールの息子、カドモス。
軍神アレスの娘、ハルモニア。
彼と私の結婚式はそれはそれは盛大に行われた。
女神がはじめて人間のもとに嫁ぐのだ。それはとても意味のあることであったのだそうだが、そんなことは私にはどうでも良いとすら思えた。彼の妻になれたのだ!
それだけではなく、彼も私を愛していると言ってくれた。誓ってくれた。こんなに幸せなことがあるだろうか。
神々からいただいたどんな贈り物よりも、彼からの愛が嬉しかった。
私たちは、幸せになれると思っていた。
彼が私を幸せにしてくれるように、私が彼を幸せにするのだと思っていた。
子どもが死んだ。
私が産んだかわいい子どもたちは次々とその生命を散らしていった。
孫も、子孫たちも、誰かが神の怒りに触れる。
ただ殺されるならまだいい方だろうか。騙され、狂わされ、巻き込まれて死んでいく。
彼は私を抱き締めてくれていた。子を失うたび、血筋を失うたび。辛いのは彼も同じはずなのに、私を抱き締めて「自分のせいだ」と謝る。そんなことはないと言いたいのに、涙が溢れて声にならない。
「アレス神は蛇を殺してしまったことを、きっとまだ許してくれてはいないのだ」
違うわ。お父様は貴方を許したの。その証として私が貴方に嫁いだのだから。
「君が産み育ててくれた子どもたちに顔向けできない。君に降りかかる不幸は全て僕のせいだ」
貴方のせいではないの。貴方のせいではないのよ。
「アレス神よ、貴方がそんなにも蛇の生命一つを大事にするのならば、僕もまた蛇になってしまえたらいいのに……!」
────なんて事を!
ああ、お父様!やめて!夫を、カドモスを蛇に変えてしまわないで!
ああ、あなた!手が、足がなくなっていくわ!斑の模様が、鱗が浮かび上がっている!頭が、愛しいあなたの顔が……!
直ぐに抱き締めたはずの彼の身体が、よく知っている彼の身体が、歳を老いてなお愛おしい彼の身体が蛇に変わってしまった。
大きな蛇が、今度は愛おしそうに私の身体に巻きついている。愛しい方、たとえどんな姿でも私の夫にかわりはないのだから。
「……お父様、どうか私の姿も彼と同じものにして下さい。私は彼と同じ姿でいたいのです」
私の身体もまた変わっていく。彼と同じ順序で、彼と同じ姿に。
だんだんと低くなる視界のなか、父の姿を見た気がした。
何故か少しだけ悲しそうな顔をしているように思えて、ああ、やっぱり父は彼を許していたのだと分かる。
これはきっと、父からの祝福だったのだろう。
老いていく人間である彼は、いつかきっと女神である私を遺して逝ってしまう。
老いていく彼も愛おしかったのは本当。けれど、寂しかったのも本当。
これで、ようやく彼と同じ姿になれた。
するすると身体が動く。なんて身軽な身体なのかしら。
直ぐ隣に、触れるほど側に彼がいる。二股に分かれた舌がなんて可愛らしいのかしら。
2人でいた時から幸せだったの。2匹でいても幸せよ。
エリュシオンの野で、今度は蛇と蛇の結婚式をしましょう。
“楽園”
見上げた空を飛んでいるのは、紙飛行機だった。
ふらふらと、ふわふわと、真っ直ぐとはいかず目的地も定かではなさそうな紙飛行機が風だけを頼りに飛んでいる。
動画を見ながら折ったのだが、簡単かと思ったのにどうやら全てがうまくいくわけではないようだ。
それでも、晴れ渡った空ではないが雨が降っていなくて良かった。
爽やかで朗らかな風ではないが、風が吹いていて良かった。
動画ではただ真っ直ぐに飛んでいた紙飛行機ではないが、ふらふらふわふわと飛んでいるではないか。
風に乗って、いつか目的地まで行けるようになるのだろう。
“風に乗って”
長い星空での生活は、人間として、英雄と呼ばれた時間より当たり前にはるかに長いはずなのに瞬きの間のような気もするのだから不思議なものだ。
幼少期を過ごし、思うままに冒険し、まあ、自業自得で殺された人生。
星空に浮かび、何者でもなかったはずなのに役割を与えられ、そうして人間のように体を動かして感情を持ち生活をする人生。
地上で人間であった頃も、眠れない夜はあった。星空を眺め、たわいのない話をして、悩みなどどうでもよくなり気が付いたら朝になっている。
傍らにはいつも悩みなど一笑するだけの弟がいたからこそだ。
弟こそ、英雄であった。
双子の兄として、自分のことも英雄とされているが、英雄としての力を持つのは弟であった。父親があの大神なのだからそれもそのはずである。
戦闘センスも純粋な力も、双子どころか人とは思えない容姿も、人を惹きつけるその魅力も全て弟のものだった。
快活で魅力的で、力強い弟。自分はその弟の面倒をみていたにすぎない。
もちろん、自分もやんちゃをしていないのかと言われればそういうわけではないが。
一緒に過ごしすぎた。
そんな風に言えば、今にも泣きそうな顔をされてしまうが、そう感じることは嘘ではない。
苦しいわけではない。一緒に居たくないわけではない。何であれ大事な弟であり、自分は兄だ。今まで築いてきたものはなくならない。
それでもやはり、一緒に過ごしすぎた、と思わずにはいられないのだ。
例えば横で眠っていたはずの妻が、ふと目を覚ましたら弟に代わっていた時など余計に。
寝起きに弟の顔など珍しくもないが、珍しくもないのが腹立たしい。穏やかな寝息が余計に腹立たしい。
どうせなら妻の安息を見守りたいのが本音だ。
人間であった頃は、冒険に出たり争い事で出たりと数えるほどしか優しい寝顔を拝めなかった。星空に浮かんでようやく穏やかな日常を築いていっているというのに、なんたることだ。
この瞬きの刹那がどれほど大事か前に切々と語った覚えがあるのだが、英雄様の弟は何にも聞いていなかったらしい。
自分の妻と弟の妻も姉妹である。
きっと今は弟夫婦の部屋かどこかで姉妹仲良く夜を過ごしているのだろう。
いつの間にそんな事態になったのかは分からないが、妻と弟が入れ替わることに気が付かないくらいに平和ボケしているのだと思えば、この星空の生活もだいぶ馴染んでいるのだろう。
目を閉じれば、槍に射抜かれた自分に駆け寄り泣き叫ぶ弟の声がまだする気がするのに、時間というのは本当に不思議なものだ。
“刹那”
恐ろしいことが起こった。
見知った人間たちが眼を吊り上げてお互いを罵り合い、憎み合う。
近所に住んでいた穏やかな農夫が手には凶器を持ち、躊躇うことなくそれを振り下ろす。
親しんだ人たちが病に倒れ、苦しみ血を吐きながら呪いの言葉を吐き続ける。
愛する妻が、部屋の隅で怯えている。
家の中には決して開けてはならないと言われていた甕が置いてあった。
無造作に、しかし二度と開かれることがないようにと祈るように蓋がしてある。
美しい妻は好奇心が強かった。そういう女になるよう、神々が生命を創り上げた。
こうなることは目に見えていたかもしれないが、自分は兄のように先に考える《プロメテウス》ような男ではない。後から考える、エピメテウスというその名そのもののような男だ。
だから神々から与えられた美しい女を妻に迎えることにただ喜んだ。兄からその女は神々から与えられた罰だと、気を付けろと忠告は受けていたが、それでもそんなことは関係ないと女に対して愛を誓って妻に迎え入れた。
兄と違って先見の明はなく、計画性など皆無で、ただ起こった出来事に対してようやく対処するような甲斐性のない男だったから、妻からは随分と文句や愚痴を言われたがそれでも幸せだった。そんな生活が愛おしかった。これが神々からの罰だと言うのなら、なんて甘く愛おしい罰だろうかと今思えば暢気なものだ。
罰は、兄と共に創り上げた地上の生き物たち全てに災厄が降りかかることだったのか。
慈しむべく大切に大切にしていた生き物たち。
今は皆、病や争い、死に怯えて震えている。
愛する妻の手で、それは行われてしまった。
妻は変わらず怯えている。
自分が、自分の意思で、その手でやってしまったことの大きさを理解しているからこそだ。
神々が与えた妻の役割は災厄を振り撒くことだった。それを本人は知らなかったにせよ、妻の生きる意味であった。そしてそれは果たされた。そう思えば、神々の使命をしっかりと果たした妻は褒められるべきではなかろうか。
「まあまあ、パンドラ。これからどうするか、2人で考えていこう」
部屋の隅で怯える妻の側に座り込む。
がたがたと小刻みに震える小さな肩は、今もなお愛おしい妻のものだ。
「後のことを考えるのは得意なんだ、知ってるだろう?」
家の外からは隣人同士が怒鳴り合う声が聞こえてきている。
その声に負けないように妻に声をかけると、ようやく妻と目が合った。大きな瞳が浮かべた涙でキラキラと輝いているように見える。
怒鳴り声と混じってしまったが、飛び付いて泣き出す妻の声がいつもよりずっと愛おしく感じた。
“生きる意味”
かつて神と人が手と手を取り合い、死すら恐れるものではなく穏やかな眠りであった金の時代。
かつて慈しまれた神と人の関係が崩れ、神を敬う心を失ってしまった銀の時代。
火を与えられ、災厄の甕を開き、全てを押し流すことになった銅の時代。
善悪を測る天秤はその流れを覚えている。
神に愛され、神を愛し、そしてその劣悪さから見捨てられてしまった人間の行く末がどうなるのかは分からない。
昔は女神の指先に掲げられ争いの善悪を測っていたが、今は星空にその姿を掲げられている。
公明正大、是々非々とし、その天秤が私心で傾けられることはない。
誰の味方ではなく、誰の敵でもない。
星空に掲げられた天秤はこれから先、人の歩む先に自分の秤が必要とされるかどうかも分からない。
それでも星空から地上を見守るのは、まだ人に希望を見出しているからだ。
災厄の甕の中に残ったものが何だったのかは、今となっては神ですら分からないだろうが。
“善悪”