恐ろしいことが起こった。
見知った人間たちが眼を吊り上げてお互いを罵り合い、憎み合う。
近所に住んでいた穏やかな農夫が手には凶器を持ち、躊躇うことなくそれを振り下ろす。
親しんだ人たちが病に倒れ、苦しみ血を吐きながら呪いの言葉を吐き続ける。
愛する妻が、部屋の隅で怯えている。
家の中には決して開けてはならないと言われていた甕が置いてあった。
無造作に、しかし二度と開かれることがないようにと祈るように蓋がしてある。
美しい妻は好奇心が強かった。そういう女になるよう、神々が生命を創り上げた。
こうなることは目に見えていたかもしれないが、自分は兄のように先に考える《プロメテウス》ような男ではない。後から考える、エピメテウスというその名そのもののような男だ。
だから神々から与えられた美しい女を妻に迎えることにただ喜んだ。兄からその女は神々から与えられた罰だと、気を付けろと忠告は受けていたが、それでもそんなことは関係ないと女に対して愛を誓って妻に迎え入れた。
兄と違って先見の明はなく、計画性など皆無で、ただ起こった出来事に対してようやく対処するような甲斐性のない男だったから、妻からは随分と文句や愚痴を言われたがそれでも幸せだった。そんな生活が愛おしかった。これが神々からの罰だと言うのなら、なんて甘く愛おしい罰だろうかと今思えば暢気なものだ。
罰は、兄と共に創り上げた地上の生き物たち全てに災厄が降りかかることだったのか。
慈しむべく大切に大切にしていた生き物たち。
今は皆、病や争い、死に怯えて震えている。
愛する妻の手で、それは行われてしまった。
妻は変わらず怯えている。
自分が、自分の意思で、その手でやってしまったことの大きさを理解しているからこそだ。
神々が与えた妻の役割は災厄を振り撒くことだった。それを本人は知らなかったにせよ、妻の生きる意味であった。そしてそれは果たされた。そう思えば、神々の使命をしっかりと果たした妻は褒められるべきではなかろうか。
「まあまあ、パンドラ。これからどうするか、2人で考えていこう」
部屋の隅で怯える妻の側に座り込む。
がたがたと小刻みに震える小さな肩は、今もなお愛おしい妻のものだ。
「後のことを考えるのは得意なんだ、知ってるだろう?」
家の外からは隣人同士が怒鳴り合う声が聞こえてきている。
その声に負けないように妻に声をかけると、ようやく妻と目が合った。大きな瞳が浮かべた涙でキラキラと輝いているように見える。
怒鳴り声と混じってしまったが、飛び付いて泣き出す妻の声がいつもよりずっと愛おしく感じた。
“生きる意味”
4/28/2024, 6:39:25 AM