緑のアイコンに赤の丸、その中に「1」の表示。すっかり見慣れた画面だ。
いくつものトークを遡って、ようやく辿り着いた彼の名前の右側に「1」。日付は数ヶ月前。スタンプが送信されているというだけの通知。そのスタンプひとつを見る勇気すら私にはなかった。
彼が最後に送ったメッセージはそのただひとつのスタンプだった。それを送った直後に崖から飛び降りたらしく、数日後に変わり果てた姿で発見されたと告げられたのが私。見ない方がいいと言われ、彼の姿は見ていない。遺書すらなかったが、綺麗に揃えられた靴や傍にそっと置かれた鞄から自殺だろうと判断された。最後まで几帳面だったのが彼らしい。
何のスタンプが送られているかも知らない。たまたま、メッセージでやり取りするのが億劫な時期に入っていたせいだ。一度もアプリを開くこともないうちに彼が身を投げたことを知ったのだ。それからずっと、既読もつけていない。心のどこかで、数ヶ月も既読をつけない私を心配するメッセージが送られてくるのを待っている。
『開けないLINE』
音を立てないように寝室の戸を開ける。二つあるうちの一つ、盛り上がったベッドは既に眠っているようで、耳をすますとほんの微かに寝息が聞こえた。二つを遮るかのように置かれたサイドテーブルの上で未だに光を放つランタンを見るに、また俺が帰ってくるのを限界まで待っていたらしい。
覗き込むと淡く照らされた顔の眉間にシワが寄っている。さっさと寝れば良かったのに、と呆れかけて罪悪感に襲われた。俺が放浪なんかしていなければ、真っ直ぐ帰ってきていればもっと早くぐっすりと眠れたはずなのだ。
起こしたくはなかったが、ぎこちなく柔らかい髪に指を通して小さな頭を撫でた。俺がこういうことをするのが苦手だと知りながら、彼女はよく子どものようにこれをねだる。感触を楽しみ終えて手を退けると、どういうわけか表情は和らいでいた。
額に口づけようとしてやめる。ランタンに息を吹き込んで火を消し、冷たいベッドに潜り込んだ。きっと今日も夢見は良くない。
くだらないプライドも執着も捨てて俺から解放してやれれば、彼女はもっと幸せになれるはずなのに。鉛のような体にのしかかる自己嫌悪に潰されながら目を閉じた。
『いつまでも捨てられないもの』
ぱしゃり、と音を立てて水面が揺れる。少し季節の外れた海は冷たく、少しずつ体温を奪っていたがそれすらも心地好く思えた。耳に届くのは波の音。一定に繰り返す落ち着いたそれは脈拍に似ている。
髪が風を孕んで広がった。前までは潮風で痛むのを酷く嫌がっていたはずなのに、今となっては気になりもしない。こんなに海という場所は居心地が良い場所だっただろうか。それとも、貴方がいるからか。
一週間前、小さく小さく骨の形もなくして海に眠った貴方。もし自分が死んだらそうしてくれと言われたときは日焼けも水着も嫌がる私へのあてつけかと拗ねて見せたが、眉を下げて頭を撫でてくれる彼に断ることはできなかった。今となってはとても後悔している。
骨になっても同じ家に居てくれたら良かったのに。子どものように水を蹴り上げて鼻をすすった。皮肉なほどに綺麗な星空にすら腹が立つのも全部、貴方のせいだ。海なんかになってしまった貴方のせい。私を残していった貴方のせい。
貴方には夜にしか逢いに来てあげないから。毎晩毎夜、病めるときも健やかなるときも喜びのときも悲しみのときも富めるときも貧しいときも。夜だけを、海に全部捧げてあげる。
『夜の海』
貴方が私を好きになること、知ってたよ。
私の言葉に長い前髪の下で目を逸らした彼の手を握ると、白い耳が面白いほど鮮やかに色づいていく。こういう可愛いところが好きなのだ。心を閉ざして外界から自分を切り離しているかのように見えて、その実柔らかくて脆い心を守っているだけ。一度受け入れさせてしまえば、純粋な感情を簡単に晒してくれるようになった。
初めて彼を見つけたのは、旅行中に急な雨に降られてこの図書館に避難したとき。彼は覚えていないだろうけれど、無言でタオルを差し出したときのあの目。絶対に本を濡らしてくれるなと言うかのような瞳に見下ろされた瞬間、この人が欲しいと思った。
この街に引っ越して通いつめて、他の人が話しかけないのをこれ幸いと彼に話しかけ続けた。押しに弱そうだという読みは当たっていて、いつの日からか私が話しかけると動揺で睫毛が震えるのが好きだった。そうなればもうこっちのものだ。
神様になんか任せてられない。最初から最後までプロデュースして、手のひらの上で転がしてあげなきゃ。
『最初から決まってた』
思い出すのは幼い頃に聴いた教会の鐘の音。母はそこそこ熱心な信者で、日曜には必ず俺を連れて教会へと祈りに行っていた。今思えば神を信じているというより、地獄を這いずるような生活が少しでも良い方へ向かうことを信じていたのだろう。
悪いことはするな。神が見ている。罰を下される。欲を抱くな。常に慎め。良く働き励め。
数十年経った今でも、母の言葉とあの鐘の音が呪いのように俺を苛む。煙草に火を灯すとき、白く柔らかい女の肌に触れるとき、酒に溺れるとき、鉛のようにベッドへ沈みこんで身動きもしないとき。本来あるべき歳に迎えられなかった反抗期を今迎えている。わざわざ鐘の音が聞こえる場所に宿泊し、神聖な響きを聞きながら恋人を抱き潰したことすらあるくらいだ。
聖書は変色し、ロザリオは埃を被っている。初めて家へ来た彼女がそれを見ても言及しなかったのが救いだった。おかげで呪いは薄れ、近年ようやく母の声を忘れることができてきた。
神聖な時を告げる鐘。そのくせ俺の呪いを解いてはくれないのだから、神というのも考えものだ。
『鐘の音』