暇だ。
大きく欠伸を一つ。ただ、だらしなく見えないようにできる限り表情筋をフル稼働して。しょぼくれた目を何度か瞬きして眠気を誤魔化そうとしたが、それは全く意味の無いことだと知った。
隣に座っている彼女は熱心に本のページをめくる。よくもまぁ活字をそんなに読み続けられるものだと感心しつつ、何より大切にしている時間に水を差すこともはばかられたので俺も大人しく本を読む、フリをしている。生憎、彼女と違って数行読めば眠気に襲われるほど本とは相性が悪い。
ふと目をやればコーヒーカップが空になっている。熱中しているので気づいていないか、キリの良いところまで読み終わったら淹れ直そうと思っているのだろう。暇な俺は眠気覚ましを兼ねて、カップをふたつ持ち立ち上がった。
砂糖やミルクも甲斐甲斐しく調節して戻ってくると、可愛らしい顔がこちらを向いて礼を言った。ついでに、つまらないでしょ、とも。そういえば、ついこの間活字が苦手なことがバレたのだったか。無駄な努力だったと思いつつ、否定もしなかった。
確かにつまらない。君が隣にいようとつまらないものはつまらないのだが、君が隣にいるからつまらない時間を過ごす価値がある。
『つまらないことでも』
元々、連絡を取ることは好きじゃない。画面に通知のバッジが付いていると気になるから表示を消しているし、通知センターで内容を把握して、緊急でなければ未読のまま返信を後回しすることだってしょっちゅうだ。友人には怒られるのだけれど、ひとつ言葉を返すのに驚くほど体力と精神を持っていかれる。どうして皆はあんな几帳面に連絡を続けられるのだろう。
何気なしに通知を確認していると、新しく表示が増えた。見慣れてきたアイコンと名前、「ねぇ」の二文字。きゅうと縮み上がる心臓のまま少し見つめて待ってみるが、それ以上の通知は無い。
あぁ、どうしよう。返信したら今時間があるのだと思われて頼み事をされるかもしれない。遊びに駆り出されるかもしれない。誘われたら最後、貴重な休日を犠牲にするか善意を断った自分に嫌悪感を抱くことになる。でも、もしかしたら緊急の用事なのかも。頭痛がする。連絡事項はすぐ伝えて欲しい。
ぐるぐると頭が回る。通知の表示が四分前、五分前と返信しない私をちくちく責め立てる。あぁ嫌だ。現代のスピード感に着いていけない自分が悪いのだと辛くなる。辛いのだ。こんなに小さなことが、何よりも。
『1件のLINE』
幼い頃、田舎の野山を駆け回ってた僕には親友がいた。男にしては髪が長めで、肩に少し垂れるほどのそれを手際良く結う姿が胸に焼けついている。色が白くてやけに美人だった。正直惚れていた。都会の学校に進学するというありふれた理由で彼と別れたのだが、関わりを絶ったのはそれよりも前だ。
ある日の雨上がり。シャツが汚れて母に叱られるだろうことを確信しながらも、いつも通り彼と山へ遊びに行った。少し日が傾いて辺りが薄暗くなってそろそろ帰路につこうかと足を踏み出したとき、僕は足を滑らせて斜面を転がり落ちたのだ。助けようと僕の手を掴んだ彼と一緒に。
かなりの時間滑り落ちたはずだし、時折木にぶつかったり飛び出た石で宙に浮いた感覚もあった。しかし彼に守られるようにして抱きしめられていた僕はひとつも怪我なんてなかったし、驚いたことに彼も傷ひとつない。子どもながらにそれが異様だとわかった。
気づかれちゃった、と寂しそうに微笑んだ彼の顔を覚えている。それから家まで送られ、もう会えないと告げられた。理由は聞かなかった。
今でも後悔している。気がつかなければ、親友のままでいられたかもしれない。大人になってから何度もあの山に足を運んだが会えなかった。きっともう僕が彼を見ることは叶わないのだと思う。
十八年前の今日。彼を思い出にしてしまった日。
『友だちの思い出』
満点の星空を眺めながら、横で楽しそうに語る彼女の声に耳を傾ける。星に向かう細い指を視線で辿るがどれを指しているのかはわからない。正直、俺は星座なんてさっぱりわからないのだ。夏の大三角形すらわからないので、なんとなくそのときにしっくりくる星を三つ適当に繋げている。
それにしても偶然って凄いよね。と彼女が笑いかける。広大な自然の姿を前にすると、偶然の重なりが運命のようにすら思えるのだとか。
中学の頃に同じクラスだった彼女と大学で再会し、たまたま授業が全て被っていて、ある日映画を見に行ったらばったり会って、ふたりともキャンプに興味があることも判明した。これが運命ならば、このまま結ばれて幸せになるのが世の常というものだろう。
まぁ、そんな運命なんて存在しないんだけれど。
中学から好きだった彼女と同じ大学に進学して、彼女が取る予定だった授業も観に行こうとしていた映画も、キャンプが気になっていたことも全て調べがついていた。ドラマ化待ったナシのラブストーリーを演出するために偶然を装って意識を惹き付けることは、見事成功したと言えるだろう。
ロマンを抱く彼女は、勝手に俺が打った点すら繋げて名前とイメージを付けてくれる。期待通りだった。星座よりずっといい加減な繋ぎ方をしていても納得してしまうのだ。彼女はなんて愚かで可愛いのだろう。
『星空』
彼女の胸にナイフを突き立てた。念入りに骨の位置を確かめたおかげでその切っ先はするりと柔らかい肉に沈み、程なくして艶やかな唇から漏れる呼吸が絶えるのを感じた。今もあの温かな血液の感触は鮮明に覚えている。一連の犯行を何も知らない世間の連中は痴情のもつれなどと騒ぎ立てた。何か気に食わないことがあり、その弾みで恋人を刺したのだろうと。勘違いも甚だしい。
彼女は言った。何らかの理由で死ぬ前に、殺されてしまう前に、貴方に殺されたいと。
俺は嬉しかった。彼女の最後の贈り物を得る栄誉は俺に与えられたというわけだ。断る理由は無かった。
だから、刺した。彼女は俺が贈った中でも一等お気に入りの服を身につけて、俺は彼女が一等似合っていると言った服で。最後の口づけがやけに甘かったのは、ふたりで食べたケーキのせいだった。この世に生まれてから最高に幸福な時間だ。
きっと俺たちは死後救われる。これは何よりも確かな愛だったと、神はおわかりだろう。だって、最後の瞬間の彼女は何を口にしたと思う。息を絶え絶えに、しかしにっこりと微笑んで。
浮気しちゃ、嫌よ。
『神様だけが知っている』