石畳に革靴の音が響く。待ち侘びた帰路だというのに胸が沈むのは、同居している女が昨夜くだらない提案をしたせいだ。
明日から貴方が帰ってきたらハグで出迎えるから。
提案より宣言に近かったかと思い直す。人はハグをするとストレスが軽減されるらしい噂を聞いたの、と彼女が少し照れくさそうに笑いながら言っていた。俺には似つかわしくないほど甘ったるいその会話が脳裏を掠めただけで足が重くなる。
拒絶するのは簡単だ。しかし、あの細い体を突き放すことを考えると気が引ける。そう簡単に人間の骨が折れたりはしないと頭でわかってはいるが、それでも彼女を見るとあっさり壊れてしまいそうで心臓が縮み上がるのだ。
受け入れるのだって簡単だが、そこには恥と一言で言い切れない感情が居座っている。男としてのプライド、となんとも胡散臭い単語を当てはめても合点が行かない。
こうしてぐずぐず考えながらも、寄り道をする気にもなれずに家へ向かって靴音は続く。自分が思っているより俺は彼女に手綱を握られているのかもしれないと自嘲しながら、限りなく瑣末で俺には眩しくて堪らない幸福を目指した。
『この道の先に』
あぁ、眩しい。目の奥が鈍く痛む。真っ直ぐ前を向くことすら苦痛だというのに、視線を落とせばコンクリートから反射する光に目を焼かれる。どうして夏というものはこうも私に厳しいのだろう。肌をじりじり焦がすかのような感覚は耐え難いし、覆ってしまえばこもった熱で逆上せる。
やっとのことで自宅の戸を開け、上手く色彩を捉えられない視界を瞬かせて汗を拭った。空気が心地好く冷えている、ということは。思考を巡らせたところへ、奥から慌ただしい足音と明るい声が耳に届く。
勢い良く姿を現した彼女は満面の笑顔で私を迎えた。その眩しさに面食らった私から鞄を奪い取り、麦茶が冷えていると伝えて彼女は去っていく。こうも甲斐甲斐しく世話を焼かれては、一日の苦労も報われるというものだ。
麦茶で熱を収める私をどこか満足気に眺める彼女は、相変わらず夏が似合う。日差しを受けても、弱るどころか輝いて見えるし、もはや彼女の視線が日差しに等しいような気すらしてくる。真っ直ぐ見つめると眩しく、しかし本物よりずっと柔らかく優しい。だから私は、彼女に似たこの季節を嫌いになれない。
『日差し』
まるで落ちているかのような感覚で目が覚める、というのは多くの人が経験することだと聞く。実際私も経験したことがあるし、確かに落ちているとしか言いようのない感覚だったことを覚えている。
しかし数ヶ月前から始まったこの現象は、それとは似ているようで全く違っていた。落ちている。確かに落ちているのだ。夢の中、あらゆる状況で私は落下し続けている。あの感覚で目が覚めるわけでもなく、寝ている間だけずっと落下感を味わうだけ。明確な風景まで思い出せるほど緻密な夢は、学生時代に経験したあれとは異なっているように思う。
一度調べてはみたが、運気の降下や精神的な不安定といった何の解決にもならないものだった。自分でどうしろというのだろう。地面と衝突する直前に目覚めるこの日々こそが精神を揺らす原因ではないか。
それに、もう一つ懸念がある。毎回毎回、私が落ちる先には誰かがいるのだ。最初こそ何かわからなかったが、何度も見るうちにそれが人だとわかった。私を見上げ、長い腕を広げて、まるで待っていたかのようにそこに佇んでいる。面識のない男性だったが、ついこの間転勤してきた男性が夢の中の男性と瓜二つで、いよいよ訳が分からない。なぜ出会う前から彼が夢に出てきたのか、なぜ毎回いるのか、なぜ私を待っているのか。
なぜ、夢の中の彼には腕が四本あるのか。
『落下』
彼女の部屋はワンルームだ。備え付けのベッドが部屋の半分を占めているし、キッチンのコンロは一つで、洗い場の隣はまな板すら満足に置けやしない。おまけに、換気扇の隣に設置された扉付きの棚はやけに高く彼女では到底届かないため、貴重な収納スペースだというのに完全に忘れ去られていた。
そんな部屋は俺には窮屈で仕方がないが、小柄な彼女にとってはそこまで不自由というわけでもないらしい。むしろあちらこちらへ物が散っていなくて助かるとまで言っていた。そんな風だから無理に連れ出すわけにもいかず、俺の方から時たまこの部屋に出向いているわけだ。
何度も訪れているうちに換気扇へ頭をぶつけることもなくなったし、ただ歩くだけでゴミ箱を蹴飛ばしてしまうこともなくなった。とはいえ、狭い浴室で壁に肘をぶつける頻度はなかなか減らない。縦も狭けりゃ横も狭く、こればかりは彼女も少し気に食わないとは思うらしい。掃除は楽なんだけどね、とのオマケ付きで。
またぶつけてたでしょうと微笑む彼女に甲斐甲斐しく髪を乾かされた後、ベッドになだれ込む。部屋の半分を占めているというのに、実際に乗ってみるとこれまた小さい。足がはみ出す。ふたり並ぶと寝返りも打てない始末だ。しかしまぁ、それを口実に彼女を抱きながら眠れるのは悪くない。
『狭い部屋』
今日だけ、全て本音で話してみないかと彼女はなんでもないことのように言った。なぜそんなに馬鹿げたことを急に言い出すのか考えて、ふと思い当たる。そういえば彼女は昨夜寝る前にカレンダーを捲っていて、そんな時期かとぼんやり眠りについたのだった。
四月一日。真実ではなくて嘘を吐く日だろう。視線を彼女に戻すと、相変わらず緩やかに弧を描いた唇が目に入った。これは説明を求めても望む返答を寄越す気がない顔だ。どうせ何を話しても真実かどうか見破る術は無いのだから、適当に相手をしてやれば良い。
ため息とともに了承を呟くと、彼女は横から細い腕を俺の体にまわす。移動した重心によりベッドのスプリングが軋んだ。柔らかいルームウェアに包まれた小さな体は温かく、まだ寝惚けているのかと疑う。
そこから彼女は、いつもより何倍もよく喋った。俺を心から愛していること、俺が吸うのは止めないが煙草の匂いは苦手なこと、最近読んだ本に出てきたパンが魅力的だったこと、数え切れないほどに。しかし、俺に何かを聞いてくることは無かった。
ひと通り話し終えたのか彼女は静かになる。俺はといえば、腹が重くなるほどに愛を詰め込まれてすっかり参ってしまった。居心地の悪さに似た感覚で、耐えきれずにある言葉を口にする。そのひとことをきっかけに堰を切ったように溢れ出し、確かな本心でありながら表に出すべきではないと封じていた醜い想いが押し寄せた。
クソにも等しい俺の言葉を聴きながら、彼女はただ俺の肩に額を擦りつける。
『正直』