愛とは一種の呪いである。誰がなんと言おうと愛とはそういうもの。少なくとも俺にとってはそういうものだ。だから、呪いに縛られた哀れな女が出来上がる。
一目惚れは暴力に等しいというのもまた正しい。知らぬ間に彼女は最悪な男の不意打ちを受けたわけだ。
出会ったのは確か、別の女を切った後だった。女の甘ったるさと鉄臭さが混ざった香りで興奮しきった俺が機嫌良く帰路につこうとしたときに出くわしたのが彼女だ。小さな体を硬直させて俺を見上げる小動物のような様が妙に愛らしく見えたのを覚えている。
あのとき、俺の声に揺れる瞳で確信した。恐怖心を少し擽ってやれば勝手に落ちてくれるだろうと。そしてそれは狙い通りで、今の彼女はいつでも手の届く範囲にいる。恐怖と恋を取り違えて、罠にかかったことにすら気づいていない。
これほどまでに醜かろうと、これも愛だと言えてしまうのだ。滑稽で仕方がない。
『逃れられない呪縛』
安心しきった顔で眠る女の顔を眺める。月の光に照らされる肌は銀のようだが、指で触れると予想に反した柔らかさがあった。少し沈ませてみれば睫毛が震えるのがなかなか面白い。目が冴えた夜は横で眠る恋人を眺めるに限る。
ふと時計を見れば深夜二時。とうに日付は変わっていたらしく、窓の外も静かなものだ。ともすれば、昨日までの恋人は死んでしまったらしい。昨日の罪を背負い、死によって償ったというわけだ。俺たちは生まれながらに罪を押しつけられ、償いの真っ最中だと聞いたことがある。
明日のお前と、昨日の俺。『今日』が示す日にちは同様でありながら、そこには明日と昨日が交差している。彼女を愛するべきは明日の俺であって、もしかすると昨日の俺がつついて楽しんでいい存在ではなかったのかもしれないが、まぁいいだろう。
くだらないことを考えていると眠気が少しずつ湧いてきた。ようやく苦しまずに死ぬことができそうだ。手を伸ばしてカーテンを閉め、暗闇に沈むベッドを軋ませて脱力する。明日の俺に、昨日の俺の死を捧げてやろう。
『昨日へのさよなら、明日との出会い』
水を張った容器の中に筆を入れる。筆についていた絵の具が解けるように溶けだして漂い始めた。俺が少しでも筆を動かしてしまえば色は一気に広まり、すぐさま透明性は失われるだろう。ぞくりと僅かに背筋を背徳が這った。
清らかなものは穢したい。暴いて組み敷いて、俺の色をぶちまけて染め上げてやりたいと思う。一度染めてしまえば、水のように正式な手続きを踏んだとしても純粋無垢だった頃には戻れないのだ。非常にそそられるものである。
色を失った筆を引き上げ、新たに絵の具をとった。目の前のキャンバスもまた無色だったはずが、すっかり鮮やかな色彩に埋められている。この欲求を満たすために絵を描いていると言っても過言ではない。理想の人物をキャンバスの中で穢すと、この世のものとは思えぬほど幸福を感じる。
我ながら不純で歪んだ、醜い男だと笑いが漏れた。俺を濁らせ歪ませたあれは、今どこで何をしているのだろうか。
『透明な水』
細い指がページを捲っている。伏した目は長い睫毛と鮮やかに色づいた瞼が印象的だ。少し持ち上げられた表紙を見るに、読んでいるのは僕が以前勧めた小説らしい。こうして素直に手に取ってもらえるのはなかなか嬉しいもので、司書冥利に尽きるというものだろうか。
図書館の司書と利用者という立場がある手前館内で盛んに話すことは少ないが、僕と彼女は図書館以外でも会うようになり関係を深めていた。知れば知るほど彼女は魅力的で、彼女の方も僕をそう思ってくれていればいいのにと自惚れてしまう。素直で聡明で、本の感想を尋ねるとなかなか面白いことを言った。
本棚に本を並べながらぼんやり見ていると、視線に気がついたのか彼女が顔を上げた。僕に気がつくと花が開くかのように微笑み、軽く手を振ると小さな手を振り返す。なんと無垢なことだろう。君がそんなに純真に笑うものだから、僕の頭は揺れてしまうのだ。
ずっと待ち侘びた君を、二度と僕から離れられないようにできれば良いのに。と願ってしまうのだ。
『理想のあなた』
家に帰ると彼はいなかった。彼だけではない。彼の痕跡全てが綺麗にまっさらに消えていた。洗面所から歯ブラシは消えキッチンから箸が消え、靴箱には私の靴しか入っておらず、彼の部屋に至ってはまるで引っ越してきたばかりかのように何一つ残っていなかった。家具すら、無かったのだ。
それらを確かめ、すっかり混乱してリビングにへたりこんだ私は、とりあえず連絡しようとして硬直する。彼の連絡先がひとつも残っていない。私は絶対に消していないのに、いくら目を凝らしても名前は見つからず困り果ててしまった。
意味がわからず目を泳がせると、写真立てが目に入る。中の写真はツーショットだったはずなのに、人影がひとつしかない。慌てて膝で歩いて近づくが、やはり私の姿しかないのだ。おかしい。絶対におかしい。
彼の何もかもが、無い。まるで彼自体が夢だったかのように、全て煙のように消えてしまった。存在さえも消えてしまったというのだろうか。もはや彼の存在を主張するのは私の記憶と、テーブルにただ一枚残された紙。彼の筆跡で書かれたただ四文字、『愛してる』という文字だけだった。
『突然の別れ』