ガルシア

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5/18/2023, 4:11:06 PM

 今でも覚えている、初めて出会った日のこと。
 石畳を踏む革靴の音に高揚した口笛。近づいてくるそれが細い路地から出てきた瞬間に対面した私は、ぶつかりそうになった長身の男を見上げてピタリと固まってしまった。帽子の下から覗く白い頬が、血に塗れている。今思えば、黒いジャケットには目立たなかっただけで、真っ先に目に入った彼の胸元や腹にも紅は染み込んでいたのだろう。
 ふと頭をよぎる正体不明の連続殺人鬼のニュースに背筋が震えたが、どこかで赤が似合う男だと思ったのも覚えている。全く動いてくれない足で後ずさりかけた瞬間、彼は恍惚とした笑みを浮かべた。
 今夜は良い夜ですね、お嬢さん。
 低く艶やかに響くやけに魅力的な声でそう言うと、私の横をすり抜けて霧の中に消えていった。すれ違い際に香った血の匂いと甘い香水のような匂いが記憶に強く焼きついた。
 そのときからずっと、彼を想うたびに胸が高鳴るようになってしまった。あの記憶を反芻し、あの目が、あの声が、あの匂いが体の隅々まで痺れさせる。
 それは確かに恋だった。
 

『恋物語』

5/17/2023, 3:42:21 PM

 冴えた目とは裏腹に、重い体はベッドにすっかり沈みこんで起き上がれそうにない。不可能というわけではないが酷く億劫だ。時計を見ればすっかり夜も更け、本来ならば寝息を立てているべき時間。
 転がるようにして体制を変え、もうひとつの空のベッドを目にとめた。本来ならば彼がいるはずのベッドだが、この時間まで埋まらないとなれば何となく事情はわかる。神経質で人間嫌いの厭世家は職場で寝ることをしない。他人がいる空間では常に気が張って休めやしないと零したこともあったし、そもそも家までそこまでの距離があるわけでもない。どこかに泊まっている可能性は低いだろう。仕事が山積みという話も聞いていないはずだ。
 放浪か、と結論を出す。
 たまにふらりと帰らなくなるのだ。外泊も野宿もしないので大幅に日を跨いで行方をくらますことはないが、どこにいるのか皆目検討がつかなくなる。こうなっては私も楽しくはない。夜という時間はやけに嫌なことばかりが頭をよぎるもので、不安で目が冴えて眠れなくなってしまう。革靴の下は石畳だろうか、街灯は見えるだろうか、怪我はしていないだろうか、ちゃんと、帰って来てくれるだろうか。
 ひとりで過ごすには夜は長すぎる。早く帰ってきて沈んだ真夜中から連れ出して欲しいと願うが、きっとそれは叶わず、彼は朝日とともにあの戸を開け、孤独の健闘を終えた私を不慣れな手つきで撫でるのだろう。


『真夜中』

5/16/2023, 12:21:48 PM

 先程まで泣きじゃくっていた彼女の小さい背中は、一定のリズムで緩やかに上下している。どうやら眠ってしまったらしい。起こさないようにそっと毛布をかけて、僕はベッドから降りた。
 酷いことを言ってるのはわかってる。でも、私が好きなら、今すぐ抱いて。
 涙で頬を濡らし震えた声で迫ってきた彼女は失恋してしまったらしい。以前彼女に告白したときは好きな人がいるからと断られたが、おそらくその人なのだろう。わざわざ家まで押しかけて、僕の好意を利用して吹っ切れようとしたみたいだ。押し切られて家に上げてしまった僕も悪いのだけれど。
 行為を頑なに拒否すると、大粒の涙が溢れて止まらないものだから困り果ててしまった。何か温かいものを用意しようと部屋から出ることを試みたが腕を掴んで離してはくれないし、好きって言ってくれたのに、と喚かれては罪悪感で押し潰されそうだった。
 君のことは今でも好きだし、愛してる。でも、愛しているからできないこともある。今僕が君のためにできるのは、君が目覚めたときに温かいココアを提供することくらいかな。


『愛があれば何でもできる?』

5/15/2023, 11:31:39 AM

 後悔先に立たず、とはよく言ったものだ。取り返しのつかないことは、どう取り返そうとしても手の内に戻ってくることは無い。人生を歩めば自然とわかってくる事実でああるが、それでも尚取り返したいと願ってしまうのは人間の愚かさだろうか。
 白い手をとる。酷く冷たい。しなやかな体を抱き寄せる。あんなに滑らかに激しく動いていたはずなのに、俺の体になだれかかってくることすらない。それが、俺に体重を預けてくれさえしないことが、心臓が嫌に早まるほど悔しかった。
 化粧で飾られた顔は相変わらず美しい。整えられた艶やかな口紅を乱すように唇で触れるが、彼女は俺を抱き締めることも突き飛ばすこともしなかった。この唇に触れたかったはずなのに、なぜこんなにも心に虚空が広がるような心地がするのだろう。
 彼女が欲しかった。笑いかけて欲しかった。あの視線を向けて欲しかった。柔らかく抱擁して欲しかった。なのに何だ、このザマは。笑うことも輝く瞳を向けることも腕を動かすことすらしてくれないじゃないか。どこで道を間違えたのだ、俺は。
 ただ愛が、欲しかっただけなのに。


『後悔』

5/14/2023, 5:24:16 PM

 生暖かい風がむき出しの首を撫でる。成人からも時が経つ男の体を揺らすことすらできない、その微弱な力に押されるようにして重い足を進めた。まだ冷たさの残る空気はやけに肺を圧迫し、聞き取れるようで聞き取れない言葉の群れは不快でしかない。耳を塞いでしまいたいが、両手で耳を抑えながらのそのそ歩く男など不審でしかないだろう。
 おそらく一ヶ月ぶりくらいか。いつの間にか習慣化したこの放浪は、短くて二週間ほど、長くて二ヶ月ほどのスパンで行われている。行き先もなく衝動的にただ気が向いた方へ歩き、現実逃避するだけのくだらない行動だ。自分に酔いしれた思春期のガキとなんら変わらない。
 いっそこのまま消えてしまおうか。何度考えたことか。しかし灰になるには些か未練があるようで、どうにもならない現状をどうにかする望みを捨てきれていない。せいぜいできるのは寿命を縮めることくらいだ。鬱々とした気分で煙草に火をつけた。
 我ながら愚かしい。こんなことをしていてもどうせ、明日の朝日に目を潰されながら自宅へ帰るだろう。俺はどこまでも地に足をつけているしかないのだから。


『風に身をまかせ』

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