ガルシア

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5/12/2023, 1:50:13 PM

 子供だという自覚はある。すくすくと育った体は四十に近いというのに、心は十に満たない。笑顔が子供みたいで可愛いとか、子供のように自由な感性を失っておらず素晴らしいだとか言われたが、当たり前だ。本当に子供なのだから。
 しかし、子供だろうと生きていれば物事を覚えるもの。仕事を始め、情欲を知り、世界が広がった分欲するものは増えていく。大人であれば諦めがつくことも諦められず、駄々を捏ねて無理やり叶えたアンバランスな幸福が積み重なっていた。
 安心や平穏を求めて妻と結婚した。燃え上がるような性愛を満たしたくて愛人をつくった。愛人への愛はあったが、恋をしたのは妻だけというのは真実であり免罪符でもある。世間には通じない、夫婦の間だけでもしかしたら効果があるかもしれないという程度の頼りない免罪符だ。
 欲求を制御できない、子供という生き物はただ純粋に欲しいものに手を伸ばす。過ちを片付ける大人は存在せず、僕は今にも崩れそうな砂の城を抱き締めているような心地で今が続くことを願っていた。
 いつか、普通の大人になれる日は来るのだろうか。


『子供のままで』

5/11/2023, 2:38:58 PM

 最近この辺りに引っ越してきたという彼女は、僕によく話しかける。図書館の利用者にとって司書という存在はNPCに等しいだろうに、愛想が良いわけでも面白い話ができるわけでもない僕にわざわざ。
 最初は軽い雑談から始まり、次第に会話の時間が伸び、本の趣味を聞かれるようになった。貸出予約された本を取りに本棚の隙間を進むとき、返却された本を棚に戻しているとき、彼女は僕の姿を見つけると小走りで近づいてくる。その様が家で飼ってるコリーに似ていると思ったときから惹かれ始めたのかもしれない。十五も下の女性に抱く感情としては相応しくない気もして後ろめたく思ってはいるが。
 オススメの本、ありますか?
 やけに楽しそうに聞く彼女に、何冊本を渡しただろうか。確か最初に渡したのはツルゲーネフの初恋だ。それからも夢のような恋の話から捻れた狂愛の話など、愛を題材にしたものを多く勧めて、たまにはただ単に好みな本を勧めたりもした。彼女が好きそうな話だと思った本のタイトルはメモに控えて、棚に並んでいるか確認するようになった。
 声にする度胸すらない、とんだ意気地無しだと自分でも呆れて笑ってしまう。


『愛を叫ぶ。』

5/10/2023, 10:51:58 AM

 モンシロチョウの幼虫って、半数以上が寄生バチに食べられてるんだって。知ってました?
 にこりと私へ顔を向けた彼は、その明るい顔に似つかわしくない話を口にした。ひらひら優雅に空中を舞っている蝶々を見ながら話すのはどうかと思うが、そもそも彼とは思考回路が違うのだから仕方がない。
 しかもけっこうエグいの、なんて返答を待たずに向けられた液晶画面に表示されている文字を追うと、確かに少々残酷な過程が記されている。まさか清々しいほどに晴れた空の下、のどかな公園のベンチで自然の無情さを感じることになろうとは思ってもいなかった。
 ため息を吐く私に、大きな体が横からのしかかってくる。じゃれつくところだけ見れば大型犬のようだが、人懐っこい見た目とは裏腹になかなかのサイコパス野郎だ。皆、甘い顔に騙されているだけで。
 先輩の中身は俺に食べさせてくださいね。
 こんなことを言っているのだから。私はもう幼虫ではないと言い返すが、俺だって蜂じゃないですよ、と。じゃあ今までの話は何だったのだと言いかけて呑み込む。言うだけ無駄だ。例え話がしたいわけではなくて、直喩的に食べて良しと許可が欲しいだけなのだろう。
 君、蜂じゃなくて蜘蛛とかカマキリだと思うよ。
 許可の代わりに届けた一言に彼は納得のいかない唸りを漏らす。意味がよくわかっていないようだ。無自覚なんだろうが、君は幼虫の中身を啜るより、十分育った成虫を自分の手で捕まえる方が好きなんだろうよ。


『モンシロチョウ』

5/9/2023, 3:47:57 PM

 忘れて、と顔を背けた彼の耳は淡く色づいていた。小さな顔を隠す手は筋張っていて節が目立つ。十五歳も上の男性が少し弱ったような様を見るのはなかなかに心が揺れるもので、無言で背中をつつくと肩が大きく跳ねた。
 近くに引っ越してきてから足繁く通うようになった歴史ある荘厳な図書館。司書である彼に話しかけたのはいつだったか。目当ての本がどうしても見つからず、貸出中か聞いてみると長めの前髪の下で瞳をするりと動かし、手招きして私を見事に導いてくれたのを覚えている。長身な彼の広い背中や、案外逞しい腕がやけに魅力的だった。
 口数の少ない彼に根気強く、しかし控えめに話しかけ続けてみると、だんだん会話に乗り気になってきてくれた。もっぱら内容は本に関する話だったが、たまにお互いのことも話した。少し上くらいだと思っていた彼がずっと歳上だと知ったときは驚いたものだ。
 そして今日、たまたま図書館を訪れた友人に恋人のようだと茶化されたことを話してみると、彼は答えを返した数秒後に顔を逸らしてしまったというわけだ。
 僕はいいけど、と一言だけ呟かれた声を聞き漏らしはしなかった。ただでさえ静かな図書館という空間に、今日は他の来館客もほぼいない。私に届いたことを知っているから、忘れてくれと頼んでいる。
 大きなリアクションで驚いたのが恥ずかしいのか、その前の言葉が恥ずかしいのか手と前髪の間から困ったような目が覗いている。彼には申し訳ないが、すらりと零れた本音のような言葉も、耳を赤らめる様子も、記憶に焼きついてそう簡単に忘れられそうにはない。


『忘れられない、いつまでも』

5/8/2023, 2:26:56 PM

 深くソファに腰掛け、ぼんやりと外を見ている。光に透かされた瞳はやや明るく柔らかいブラウンで、少し伸びてきた髪を耳にかけた横顔は相も変わらず美しいラインをしていた。
 彼は私の恋人、だった人だ。別れたわけではない。ただ凄く奇妙な状況で、恋人と言い切ってしまうのははばかられる。彼には私と交際していた記憶が無いのだ。もっと言えば交際前の記憶も無いし、簡単にまとめてしまえば記憶喪失というもの。同棲していた家から追い出すのも、と思い未だ一緒に住んではいるが、彼にとって私は他人に近い。
 彼は変わった。太陽のように眩しく笑っていた顔はほとんど動かないし、テンションが上がるとワントーン上がる声は静かに低く、喋る頻度も最低限といった風に。確かに他人に愛想を振りまく必要は無いが、別人のような彼には驚いてばっかりだ。
 彼が彼ではないような一面を見つけるたび、いつ記憶を取り戻して元の彼に戻るのだろうと思う。一年経っても戻らなければ、私はもう限界かもしれない。
 彼に愛しい人の面影を感じるたび、胸が締めつけられる。知らない顔を向けられるたび、電撃のような衝動が体を駆け巡る。彼のようで彼では無いあの人に、日に日に惹かれているのが自分でもわかるのだ。それなのに、一年の間に彼が帰ってきて私を正気に戻してくれなければ、一年後の私は、一体どうすれば。


『一年後』

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