遠い記憶。カレンダーの日付をなぞりながら、先程までの夢を思い出した。俺の初恋は十年前の今日だったか。毎年というわけではないが、何度か同じ初恋の夢を見ている気がする。これは後悔なのか贖罪なのか、彼女への執着なのか、はたまた彼女の亡霊なのだろうか。
長い睫毛に囲まれた明るい目は美しく、艶のある髪が月の光を反射する様は見惚れるほどだった。白い手足は柔らかく、俺が掴んでしまえば容易く動きを封じられる。長い指に手の甲をなぞられれば背骨が震えた。
愛らしく俺の初恋を奪った彼女。俺は小さな体を後ろから腕の中に閉じ込めて、そのまま細い首を切り裂いた。はくはくと赤い唇を動かす仕草すら刺激的だったことを色濃く覚えている。あの日から忍ばせたナイフは今も宝物だ。何度、魅力的な女に恋を突き立てたことか。
十年前の今日、心から愛していたよ。俺の初恋。
『初恋の日』
明日世界がなくなるとしたら。使い潰された陳腐な問いだと思いながら唇をなぞる。以前彼女に指摘された、俺が思考を巡らせているときの癖らしい。また無意識にしていたことに気がついて指を止めると、寝支度を整えながらこちらの様子を伺っていた彼女の口角が上がっている。多少の気恥しさを感じながら再び彼女の問いに答えるべく考えた。
明日、世界がなくなる。眠っているうちに終わるとすれば、苦しまずに終われるとするならば、これ以上の死に方はないだろう。その先は死後の世界なのだろうが、死後の幸福のために今を犠牲にすることなど甚だしいと思う俺は信心深いとは言えない。不確定なことではなく、この生への願い。
誰もが、苦しまず幸せに終わりを迎えられること。
呟くように答えた俺の額に、彼女が無言でキスを落とした。柔らかく髪を撫でる手が心地好い。俺を見下ろす彼女の頭を引き寄せ、白い額に口づける。
良い夢を、と互いにひとこと交わして目を閉じた。このまま朝を迎えなければいいのに。
『明日世界がなくなるとしたら、何を願おう』
青い空から降り注ぐ暖かい日差し、群れを成して飛び回る小さな鳥、優しく頬を撫でる風と揺れる木々の音、悠々と流れる雲。草の生い茂った地面は柔らかく、温まった土の感触も心地が好い。
私は幸せだ。輝かしく地を照らす太陽の恩恵を受けることができた。いわゆる日向ぼっこというものがこんなにも良いものだったとは知らなかったが、肌でその幸福を感じることができた。なんと、暖かく柔らかいのだろう。
体が少しずつ重くなっていくのを感じる。瞼を今にも閉じてしまいたいが、この素晴らしい青空を最後まで見ていたい。間もなく私の体は完全に死に、塵となって散らばってしまうだろうから。
吸血鬼として生まれて長い時間、永遠にも近い時間を生きた。日陰を、夜を、冷たい空気の中を生きてきた。ならば最後くらい、生と引き換えにしてでも温もりを感じたい。暖かく明るいあの光の中で死にたい。最後だけでいいから、光に照らされて死にたい。
私の悲願はかくして叶った。ようやく祝福を授けられたのだと満たされた心で、私はスポットライトに捉えられたまま舞台の幕を下ろした。
『大地に寝転び雲が流れる』
拝啓、君へ。
お元気ですか。こちらは春が過ぎ、初夏の風が吹いています。君は暑さが苦手だからそろそろ体調を崩してしまうかとも思ったけれど、そちらは涼しいだろうから大丈夫なのかな。
僕は最近、すっかり葉桜になってしまった景色を眺めながらサンドイッチを食べることを週末の楽しみにしています。日差しは少し強いけれど、風が吹けば涼しくて快適です。君は卵サンドが好きだったよね。今度美味しいお店のを買って来てあげる。
手紙だから面と向かって言えないことも言っちゃうけれど、君へは感謝しています。僕に安らぎを与えてくれて、孤独からも救ってくれて、ずっと傍にいてくれて、ありがとう。だから君も、元気に楽しく毎日を過ごしていてくれると嬉しいな。
僕より。
僕は書き上げた手紙をそっと、桜の木の下に埋めた。骨すらも見分けがつかなくなるまでは傍にいるよ。
『ありがとう』
ほとんどの人を見下している高身長、険しい顔は整っているだけに威圧感があり、現実主義者で論理的。彼を知る人からの総評は、人間っていうよりロボットっぽいよね。そんな男性が、私の先輩だ。
趣味とか好きなこと、ないんですか?
ひょんなことから知り合ってわかったのは、雑談に誘うと意外と乗ってくれるということ。しかも真面目に考えてくれるので、今日も私は自販機前で偶然出くわした彼に会話をもちかけている。アーモンド型の目が虚空を少しの間見つめた後、私に向き直った。
喫茶店で本を読んだりはする、と答えた彼に愛読書を伺うと、私もかなり読み返した小説のタイトルが挙げられる。すっかりテンションが上がってしまいオススメの本を連ねて今度貸すことを約束していると、自販機から飲み物が吐き出される音がした。ハッと我に返った私に差し出されているのは、私がお財布事情を考慮して諦めた少しお高めのココア。
飲みたかったんじゃないのか。
僅かに困惑したような彼にお礼を言いながら、恐る恐るそれを受け取る。だって、買おうか迷っていたことを見ていて、奢ってくれるなんて想像もしていなかった。
すらりとスタイルの良い高身長、端正な顔立ち、理知的で芯があって、ミステリアスな彼。
優しくされては、もっと、近づきたくなってしまうじゃないか。
『優しくしないで』