明日は朱治郎さんの日だ…
シフトを見て思わず頬が緩んでしまう。
朱治郎さんの自宅は元書店、1階が店舗で2階が自宅になっている。
長年書店を経営し続け70歳間近に要支援になり閉業した。大半は返本したが何割かの本は残されている。
自分の老後の楽しみに、と残しておいたのだそうだ。
書店を辞めた後、やりたいことも読書だったらしい。
本好きの果南にはこの元書店への訪問は週に一度の楽しみでしかなかった。
調理しながら朱治郎の語る推薦の荒筋を聞き掃除しながら本棚に並ぶ背表紙を眺めうっとりした。
何度か
「持って帰っていいよ」
と本を押し付けられそうになったが、それだけは決して許されないので丁重にお断りした。
一番はミステリー、次に時代小説が好き、という本の趣味まで一致している朱治郎推薦の本はどれも面白くミステリーは思わず何度も読み返したし、時代小説は台詞が現代にない格好良さでこれも何度も読み返した。
ある支援の日
「僕が死んだらこの部屋にある本を全部あげるよ」
と朱治郎が言った。
「いやいや、なにを突然…戴けませんよ」
と笑ってみせたが
「大丈夫、出来るようにしておくから」
と朱次郎は重ねた。
その瞳はどこか沈んだ陰が見えた。
翌週、朱治郎が体調不良でキャンセルの電話があり翌々週には退院日未定の入院となった。
果南がその日の訪問を終えて事業所へ寄った日、サ責から話があると別室に呼ばれた。
果南は何かミスったかと焦ったが思い当たる節がないので戸惑った。
「時宗朱治郎さんの件なんだけど、貴方に本の遺贈をする気でいる、と御家族から連絡があったのよ」
とサ責は切り出した。
まさか…。
あの日の光景が果南の頭を掠めた。
本気だったんだ…果南も嬉しかったように朱治郎もまた本の趣味が一致する果南に会えて嬉しかったのかも知れない。
「御家族も本の処分には困るから、貰ってくれるとありがたい…っていう意向なんだけれど」
「でも…」
「そう、ヘルパーは物を受け取ったりは絶対に出来ないからね。疑うわけじゃないけど、これまで時宗さんから何か貰ったりした?」
「ないです!」
思いっきり頭を振った。
果南は本を眺めたいから朱治郎の家に行きたいのではなかった。本の話題や自分の上を行く読書家の朱治郎の話を聞くのが楽しかった。
「時宗さんと本の話をするのが私も楽しかったんです『退院したらまた支援出来れば嬉しいです』と伝えて下さい」
「あ、それから…」
訪問介護事業所を出ると果南はその足で図書館に向かった。
今後、回復して本が読めるようなら…と朱治郎にも果南推薦の1冊の伝言を頼んだ。
また朱治郎と会えたら互いに本の感想を語り合おう。
星に願うよりもこっちの方が効きそうだ。
頬を緩めながら書架から朱治郎推薦の1冊を手に取った。
お題「やりたいこと」
23時、もう寝るかな、と考えていたところにLineの通知が来た。
蓮火からだ。
『いまなにしてんの?』
『寝るとこ』
『そっか、外とか出れないよね?』
『行けるよ』
スタンプを返す。
家を出て自転車を漕いでる合間もスマホに通知音が鳴り続けてたけど、どうせ蓮火からだから未読にしておく。
無人駅に着くと
「え?場所伝えてないよね…?よく分かったね!ちょっと家出?みたいなさぁ…飛び出て来ちゃった」
「そんなことだろうと思った」
『家出すると、しょっちゅう無人駅に来るんだよね冬はストーブ付いてて暖かいし人来ないからベンチで幾らでも寝れるし』
『こんな田舎で不便だけど無人駅があることだけには感謝してんだ』
と蓮火が教室で言っていたのを、忘れていなかった。
二人で好きなだけ色々喋って朝日が見え始めた頃
「もう落ち着いたし、やっぱ帰ろっかな、行くとこもないし…ごめんね、こんなテキトーな奴に付き合わせちゃって」
「いーよ」
「親、心配するんじゃない?」
「窓から出てきたから知らないよ、また窓から帰る」
「まじで?!2階から?すげーな、やっぱ面白い奴!!」
私を面白いと言ってくれるのが嬉しかった。
話しかけてくれて、それからずっと友達になってくれて嬉しかった。
中学の3年間、ずっとボッチで虐めに遭っていたのを知った癖に何も聞かず友達でいてくれて嬉しかった。
だから、全然こんなこと、なんてことない。
「あっ、朝日登ってきた!朝焼け、めちゃくちゃキレーじゃん!!」
蓮火がはしゃぐ。
朝日の温もりを感じながら2人、肩を並べて歩く。
蓮火は声優を目指し、高校を出たら専門学校へ進む。
私は家業を継ぐ為に地元に留まる。
ずっと2人、同じ夢を見ていけたら良かったのに。
この眩しい隣人は別の道を歩む私と未来でも友達でいてくれるだろうか。
お題 「朝日の温もり」
コンコンとノックして入室した。
「ミノリさん、ナースコール押しました?」
「あ、藤本さ〜ん、ここ、ここ」
とトイレから声がする。
「1人で頑張ってトイレしてみたんだけど、パンツが上げられなくて…手伝って頂戴」
「はい、ただ今〜」
とミノリさんの更衣介助をする。
ミノリさんは、この有料老人ホームに入って12年、104歳になった今でも杖を使って歩き殆の事は自分で出来るご長寿だ。
ただ、夜になると甘えん坊になる。
「ありがとうね、ちょっとベッドまで一緒に来てくれる?」
「いいですよ」
ベッドに落ち着くと
「あぁ、助かった、ありがとう」
「…ここへ来てもう何十年経ったからしら」
「12年ですよ」
「土地の話よ、私、生まれは東京なの」
「そうなんですね、失礼しました」
ミノリさんは疎開でここへ来たのだそうだ、何度か戦時中の話は聞いていた。
「私の家は病院だったから、戦中は外国人が入ってきて色んな物を持って行かれた…一番タチが悪いのはロシア兵。処置に使う綿は勿論、生理帯まで持って行かれた」
「若い看護婦さんも多かったから、看護婦さんまで連れて行かれたの…私の姉も目隠しをされ、腕を縛られて連れて行かれた…私の目の前で。私は怖くてどうすることもできなかった。物陰に隠れて連れて行かれる姉を見ていた…。あれから姉とは会っていない」
「姉が連れて行かれてから何年か経つと父が病院を畳んで疎開する決断をしたの。私は姉がいつか帰って来るんじゃないかと思っていたから嫌だったけれど従うしかなかった。医者の父にしてみれば家族だけじゃない、残った看護婦さん達も守らなければなかなかったし」
「父は大きな決断をした。父だけじゃない、あの時代は誰もが大きな人生の岐路に立たされていたんだと思う。」
「それから疎開先で嫁いでそのままここに残ったんだけれどね。今も姉とは一度も会えていない。姉はどうしてるかと思い出すけれど、私ももうこんな歳だしね、生きてるほうが珍しいわね」
「そうですね」と言い返すわけにも行かず、言葉を濁す。
数年前なら昔話だった。
「こんな悲しい思いをするのは私の世代だけだと思っていた、こんな時代になって今もまた戦争があるなんて…」
「じゃあ、退室しますね、おやすみなさい」
これから0時のオムツ交換の時間になる。
それから3時にまた巡回したら5時前からオムツ交換をして忙しい20人全員の起床介助に取りかかる。
夜勤はワンオペだった。
いつもなら「さあ戦争の夜勤明けだ」と意気込んでいたが今日はそんな気持ちになれなかった。
お題 「岐路」
先生と二人きり、図書室で読書感想文の直しを続ける
「これ、食べる?皆には内緒ね」
と飴を2つくれた。
「ありがとうございます」
先生が飴をくれた事と『皆には内緒』という言葉がちょっとした優越感で嬉しかった。
読書感想文に選んだ本は
『世界の終わりに君と』
夏休みの間中ページが擦れるほど夢中になって繰り返し読んだ。
この読書感想文が地域の新聞の賞を取ったので、今度は先生の勧めでもっと大きな読書感想文コンクールへ応募してみることになったのだ。
「こんな時間まで頑張らせてごめんね」
「実は先生も、あなたと同じ歳の頃にこの本を読んだのよ…」
その言葉で、先生もこの本が好きなんだな、と思った。
けど先生はもう大人だから読書感想文は書かない?書いても出すコンクリールがないのかな?
そして何度も直して完成した読書感想文はコンクールで何かの賞をとった。
賞状と図書カードの賞品をもらったことも嬉しかったけど賞を喜んでくれた先生の笑顔が嬉しかった。
先生あのね、あの感想文に書いたことは本心じゃなかったよ。
こう書いたら大人が好きだろうなと思う言葉を並べただけ。
『世界の終わりに君と』は本当に本当に大好きな本だったから本当の感想は私だけのものにしたかったんだ。
お題 「世界の終わりに君と」
早朝4時、自宅に上がりそっと寝室に入る。
3日前のこの場所で、薄明かりの中、首から下を傷だらけにした夫が座り込んでいた。
「ごめん、うまくやれると思ったのに…出来なかった」
不倫相手を殺してきたのだ─
夫から呼び起こされたばかりでまだ頭がボーっとしていた。が、夢ではない…夢ならまだ良かったのに、これは現実なんだ。身体が震えていたからだ。
「ロープで絞め殺して、ロープを焼いて消したらバレないと思ったんだ、けど、物凄い抵抗されて…こんなになると思わなくて…」
首には無数の抵抗傷が付いていた。
爪が深く入ったのか血の滴っている部分まである。
「ここに来るまでに車でトラックにでも突っ込んで死のうかと思った…でも出来なかった」
手には凶行に使われたのだろう、ロープが握られていた。
「行こう…私も行くから、自首しよう、一緒に自首しよう」
微かに震える手で運転しながら
「待つから…いつまでも待つから」
と俯く夫にそんな話をし続けていたと思う。
警察署で私は事情聴取を受けることになっても2、3時間で帰されるだろうと思っていた。
けれど実際には日が暮れるまで終わらなかったし、帰るときも近くに住む兄が呼ばれ
「絶対に1人にしないで下さい、ハッキリとは言えませんが…少ないケースではないので」
と兄は念を押された。
兄を呼ぶときも
「まだ事件と断定されていないので、理由は決して言わずに迎えに来てもらうように」
と言われた。
けれど兄は事情を察して来たのだろう。
「ごめんなさい、こんなことになってしまって」
と言うと
「きっちり、別れろよ」
とだけ言われた。
それから家にはマスコミが押し寄せる可能性があるので、暫く寄り付かないほうがいいとこれも警察から助言があったので3日程家に戻れなかったのだ。
私達夫婦の間には子供がいない。
だが、望んで出来なかったのではない。
子供を望まない夫の意思で作らなかったのだ。
不倫していたのは知っていた。
あんな甲斐性なし、欲しければくれてやったのに。
不倫相手は絶対に産むとゴネたのだろう、だからって殺さなくても良かった…いや殺さないで欲しかった。
私までこんな目に遭うんだから。
あの時
「一緒に死のう」
と言われていたら、今頃どうなっただろうか。
勿論、死ぬ気なんかないし
「むり」
と断っても手にしていたロープで今度は私が殺されていたかも知れない。
これから裁判が始まれば証人として呼ばれるのか…結局マスコミからは逃げられないかもしれないが、乗り越えて行くしかない。
「相手の方の存在は気づいていました…」
「けど…、お腹に子供が…?」
「彼とは離婚しました。不倫は勿論ショックでしたが…私達がこのまま婚姻関係を続けることは…」
と言葉を詰まらせながら涙ながらに語ろうか。
大丈夫、最悪の局面はもう逃れたのだから。
お題 「最悪」