護たかこ

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コンコンとノックして入室した。
「ミノリさん、ナースコール押しました?」
「あ、藤本さ〜ん、ここ、ここ」
とトイレから声がする。
「1人で頑張ってトイレしてみたんだけど、パンツが上げられなくて…手伝って頂戴」
「はい、ただ今〜」
とミノリさんの更衣介助をする。

ミノリさんは、この有料老人ホームに入って12年、104歳になった今でも杖を使って歩き殆の事は自分で出来るご長寿だ。
ただ、夜になると甘えん坊になる。

「ありがとうね、ちょっとベッドまで一緒に来てくれる?」
「いいですよ」
ベッドに落ち着くと
「あぁ、助かった、ありがとう」
「…ここへ来てもう何十年経ったからしら」
「12年ですよ」
「土地の話よ、私、生まれは東京なの」
「そうなんですね、失礼しました」
ミノリさんは疎開でここへ来たのだそうだ、何度か戦時中の話は聞いていた。

「私の家は病院だったから、戦中は外国人が入ってきて色んな物を持って行かれた…一番タチが悪いのはロシア兵。処置に使う綿は勿論、生理帯まで持って行かれた」

「若い看護婦さんも多かったから、看護婦さんまで連れて行かれたの…私の姉も目隠しをされ、腕を縛られて連れて行かれた…私の目の前で。私は怖くてどうすることもできなかった。物陰に隠れて連れて行かれる姉を見ていた…。あれから姉とは会っていない」

「姉が連れて行かれてから何年か経つと父が病院を畳んで疎開する決断をしたの。私は姉がいつか帰って来るんじゃないかと思っていたから嫌だったけれど従うしかなかった。医者の父にしてみれば家族だけじゃない、残った看護婦さん達も守らなければなかなかったし」

「父は大きな決断をした。父だけじゃない、あの時代は誰もが大きな人生の岐路に立たされていたんだと思う。」

「それから疎開先で嫁いでそのままここに残ったんだけれどね。今も姉とは一度も会えていない。姉はどうしてるかと思い出すけれど、私ももうこんな歳だしね、生きてるほうが珍しいわね」

「そうですね」と言い返すわけにも行かず、言葉を濁す。
数年前なら昔話だった。
「こんな悲しい思いをするのは私の世代だけだと思っていた、こんな時代になって今もまた戦争があるなんて…」

「じゃあ、退室しますね、おやすみなさい」
これから0時のオムツ交換の時間になる。
それから3時にまた巡回したら5時前からオムツ交換をして忙しい20人全員の起床介助に取りかかる。
夜勤はワンオペだった。
いつもなら「さあ戦争の夜勤明けだ」と意気込んでいたが今日はそんな気持ちになれなかった。


お題 「岐路」

6/8/2024, 11:21:14 PM