むかしむかし、とある王国で、お妃様が魔法の鏡を手にしました。
その新しい鏡を自室に持ち込んだお妃様は、そこに映った自分自身を熱心に見つめながら、うっとりと呟きます。
「鏡よ鏡、この世で一番美しいのは私ね」
すると、それを受けて鏡が答えました。
[いいえ、貴女ではございません]
その鏡の言葉に、お妃様はとてもとても衝撃を受けました。
よろよろと数歩後退り、見開いた目で数秒鏡を凝視した後、ひとこと。
「…………え、今誰か喋った?」
思わず漏れた彼女の言葉に、今度は鏡が沈黙する番でした。
実はお妃様に、目の前の鏡が魔法の鏡であることは、一切知らされておりません。単に今朝がた愛用していた鏡を割ってしまい、その代わりにと用意された鏡がとってもお妃様好みの装飾だったため、上機嫌だっただけなのです。お妃様にしてみれば、おニューの鏡にいつも通り呟いたお決まりの独り言が、全く知らない人の声に突如として遮られただけ。とんでもないホラー展開でした。
不審者でも居るの……? とびくびくしながらお妃様は室内を見渡します。けれど人の気配はありません。鏡に向かって自画自賛するのがすっかり日課になっているお妃様は、恥ずかしがって普段から部屋には誰も入れませんから、当然と言えば当然です。
そうこうしているうちに、ふとお妃様は、鏡の異変に気が付きました。そこにはいつの間にか、お妃様ではなく不気味な仮面が映っていたのです。
ばっと後ろを振り向いても、当然のごとくそこには何もありません。鏡の中にだけ現れる仮面に、なにこれ怖、と思っていたお妃様は、ふと思い至りました。
「もしかして、呪いの鏡……?」
そんな話を聞いたことがあります。まるで現実味のないおとぎ話の類いでしたが、お妃様には目の前の鏡がそれに見えてどうしようもありません。
しばらく考え込んでいたお妃様はやがてふうとため息をつきました。
「やむを得ないわね、割ってしまいましょう」
[お待ちください!]
しかし、そんなことをされてはたまったものではないのが魔法の鏡。かねてより『聞かれたことに真実を返す』『聞かれていないことには答えない』を信条としていた鏡ですが、そんなものを律儀に守って壊されてはたまりません。今までの沈黙もなんのその。鏡はそれはそれは饒舌に自身のことを語りだしました。
自分が魔法の鏡であること。真実を語るものであること。先程はお妃様が自分に語りかけたがために返事をしたこと。
初めは驚きながらも、素直に鏡の言い分に耳を傾けていたお妃様でしたが。
[ですから、一番美しいのは貴女ではございません! 白雪姫です!]
突如として飛び出したデリカシーの欠けらも無い発言に、お妃様はノータイムでぶちギレてしまいました。
「あなたはいったい何様なのかしら」
鏡はいきなり声が低くなったお妃様に動揺しますが、そんなもので止まるお妃様ではありません。
「おあいにくだけれど。私は私の思い描く、最高の美をこの身に体現するだけなのよ。外野の評価など知ったことではないのだわ」
[し、しかし、客観的な意見を申しますと──]
「分かっていないようね。美醜の評価など、最終的には受け取り手の好みで変わる。なぜこの私が有象無象の好みなどに合わせなければならないの。身の程を知りなさい」
実はこの時、お妃様は鏡のことだけに怒っていたのではありません。鏡の無礼発言に、過去他人に言われた数々の失礼発言を重ね、長年溜まりに溜まった鬱憤を八つ当たりの如く打ち出していたのです。鏡にとっては実に不運な事でした。
もっとも、鏡は鏡で失礼なことを言ったことに変わりはないのですが。
「私は私の最高を追求するだけ。……余計な茶々を入れて要らない価値観を押し付けてくるのなら、ぶっ壊すわよ、あなた」
低音で放たれた最高にドスの効いた発言に、鏡はすっかり怯え切ってしまいました。
だんだん小さくなっていく鏡の中の仮面に、お妃様はフンと鼻を鳴らします。ですが微妙に怒りの収まらないお妃様は、腰に手を当てて鏡を指さし、眉根を寄せながら言いました。
「せっかくだわ。最後にその白雪姫とやらを見せてご覧なさい」
そうして鏡に映し出されたのは、白雪のように白い肌に、黒檀のように黒い髪、血のように赤い唇をもった、美しい少女の姿。
お妃様は今までの怒りを引っ込ませ、急に真顔になると、鏡の中の少女を穴のあくほど見つめます。鏡がハラハラと行く末を見守る中、無言で少女を凝視し続け、長い沈黙の末にぽつりとひとこと。
「かっわいー」
かくしてお妃様は白雪姫の隠れファンとなり、無礼を働いた魔法の鏡は無罪放免。お妃様は時折鏡に白雪姫の様子を映させては、それをにこにこと眺める日々を送るようになったのでした。
めでたしめでたし。
/『鏡の中の自分』
「空が見たいな」と、君が言った。
何の話? と首を傾げたら、君はとても儚げに笑った。そんな顔はこれまで見たことがなかったから、今まで霞んでいた目の前の景色が、急に現実味を帯びてきてしまった。
ああ、そっか。本当に終わりなんだ。もうすぐ全部が終わるんだ。
「理想郷って、あると思う?」
理想郷、か。そうだなぁ。
きっと、空が青くて、空気が美味しくて、自由にどこまでも行けるんだ。
お腹いっぱい食べられて、暖かくて、誰も傷つかなくて。皆が笑って暮らせる、そんな理想の場所。
けど、きっと現実にはないよ。あったとしても、私たちは行けないよ。
こんな体じゃ、もうどこにも行けないよ。
火の勢いが増してきた。床も壁もオレンジの炎に煽られて、焦げ臭さが鼻につく。
地上に出る階段は、倒壊した瓦礫におおわれて通れなくなってしまった。他にここから出られる道は無い。ここで終わり。全部終わり。
嫌いだったな、この研究所。
連れてこられたその日から、来る日も来る日も実験ばかり。人体実験ばかりされるから、身も心もぼろぼろになって。
でも、いいか。許すよ。どうせもうすぐなくなるものね。
膝から下の感覚がない。さっき降ってきた瓦礫に潰されたから、たぶん、もうぐちゃぐちゃだ。痛みは思った程でもないけれど、見るときっと酷くなるから、見たくない。
最後に空が見たかった。
いつか全部が終わるのだとしても、それはここじゃないどこかが良かった。
「理想郷はさ、天国にあると思うんだ」
隣で君が言う。それに応えたいけれど、声は出ない。だから、心の中で返事をする。
双子だから、伝わるかもしれない。そんな淡い期待を込めて。
君は信じてるの? 天国。
「信じる者は救われるんだって」
なあに、それ。
「一緒に行こうか。天国」
そう言って、手を握られた。繋いだ君の手はとても温かくて、いつの間にか自分の手が、とても冷たくなっていることに気がついた。周りは燃えてて暑いくらいなのに。
私は、死んだら全部そこで終わりなんだと思っていた。天国とか地獄とか、そんな都合のいいものはなくて。しょせんは全部、人がつくり出した想像なんだって。
でも、どうなのかな。あるのかな。
もし死後があるのなら、私たちが行く先は、きっと地獄の方だろうけど。
「大丈夫だよ」
繋いだ手が温かい。声につられて君を見あげると、優しい瞳と目が合った。
「天国でも地獄でも。どっちみち、行き着く場所は一緒でしょ」
独りじゃないなら、寂しくないね。そう言って笑う君に、じわじわと胸が暖かくなるのを感じた。
そうだね。生まれる前から一緒だったもの。生まれてからも、この先もずっと一緒だね。
だんだん目の前が霞んでくる。手を包む温もりを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
どうせ全部が終わるなら、最期くらい、いい夢見ながら終わろうか。
/『理想郷』
懐中時計を見つけた。
くすんだ銅色の、アンティークっぽい感じのやつだ。蓋にはごちゃごちゃした複雑な文様が彫られてる。ボタンを押して開いてみると、文字盤の真ん中がぽっかり空いてて、中の小さな歯車が噛み合ってるのが見えた。スケルトン仕様ってやつ?
とにかく、聞いてた特徴とはバッチリハマってる。これ、当たりか?
「店長ー、これっすか? 探してたやつ」
奥の方に居るはずの店長を呼ぶと、ごそごそと何かを漁っていた音がピタリと止んだ。
この骨董店は、近々閉店する。もともと店長の趣味で始めたようなもんで、普段も客なんて全然来なかったけど。まぁそれでいて、おれというバイトを常時雇ってたのも謎ではあるけど。
でも、楽して稼げて居心地も良かったのにな。なんてしみじみと浸っていると、急に棚の影からぬっと顔が生えてきて肩が跳ねた。
よく見ると店長だった。脅かすなこら。
「ああそう、これこれ! 良かったぁ。無くしたかと思ったよ」
おれの手からひょいと時計を持ってって、店長はオーバーに喜んでる。そんな大事なもんなら、分かるとこに仕舞っときゃいいのに。
「ふつーに売り出し中になってましたよ。いい加減、片付け覚えません?」
おれが居なくなったらどうするつもりなんだろう、この人。
思えば、初めの仕事はゴミ屋敷じみた店内の整理だった。この店が今、ちゃんと店として機能してるのは、おれのおかげだ。店長はいい大人のくせして、片付けがまるでできない。
「この時計、僕の思い出の品なんだ。聞きたい? 語っちゃっていいかな?」
うきうきと目を輝かせて話す店長にうんざりする。何かと喋りたがりの店長は、こと骨董品の話になるとめっぽう長い。いつもなら適当にあしらうところだけど。……まぁいいか、最後くらい。
そんなに長いこと働いてたわけでもないのに、終わるとなるとちょっと寂しい。基本暇だったけど、なんだかそれすら懐かしく思えてくるなぁ。
と、そこまで考えてふと気がついた。
「そういえば店長、この店やめるのっていつっすか? 詳しいことなんも聞いてませんけど」
いい加減教えてくれてもいいんじゃ、と思いながら話を振ると、店長は鳩が豆鉄砲食らったような顔をした。え、何その顔。
「やめないよ? 店」
「は? でも閉店するって」
「これ見つかるまでは店開けらんないなぁって意味だよ。大事なものだからね」
なんだそれ。
「あ、もしかして勘違いしちゃった?」
「……うるっさ」
恥だ。大恥だ。むかつく。無駄に浸ってたのが馬鹿みたいじゃんか。
顔が熱い。羞恥を振り払うように店長の目の前に手を出すと、その顔を睨みつける。
「特別手当ください。頑張ったんで」
「ええ、まだ勤務時間内でしょう。それくらいはさ」
「頑張ったんで。おれ、お手柄なんで」
「……まぁいいけど」
「やった」
言ってみるもんだな。
手渡された茶封筒を受け取って、いそいそと中を確認する。数秒中身を見つめてから、店内にある古い置時計に視線をちらり。
実働三時間。支給が千円。時給あたり三百円ちょい。
……しけてやんの。
/『懐かしく思うこと』
陽に背を向けて暗がりを生きるような、惨めったらしい生だった。
*
十階の窓から見える景色はいつも同じだ。
向かい側に建つビジネスホテルに、真下を走る自動車の群れ。歩道を行き交う人間の姿はとても小さく見えて、朝と夕に制服を着た学生がちらほら通る。
景色自体は三日で飽きた。でも、時々ここに来る前のことを思い出すと、どろどろとした感情が吹き上がる。
挙句、窓に反射した自分の首元が見えた時なんかには、何もかも全部ぶっ壊してしまいたくなる。
なんで、俺ばっかり。そう思ったことは、ここに来てから数え切れないほど多い。
昔から、人に寄りかかるのも、人に頼るのも苦手だった。
だから身寄りを失った時、居場所も、友人も、頼れる人も、何も無いことに気がついた。俺が居なくなったところで、気にするやつなんて誰も居ない。
俺がここに居たって、誰も探しになんて来ない。
苛立ち混じりに拳を窓に叩きつける。分厚いそれはビクともしない。
強化ガラスだからね、と薄ら笑いで諭してきた、いつかのあいつが脳裏によぎる。腹が立つ。
腹が立つ。
首を触ると、指先に異物が触れた。それがすっかり体温と馴染んでしまっているのが、より一層癪に触った。
初めの頃は、ここに鎖がついていた。部屋中歩き回れるくらいの長い鎖だ。でも、その一週間後には外れた。あいつの居る時にそれで首を吊る真似事をしたら、慌てて外された。
いつもの薄ら笑いが引っ込んで、青ざめていく様は傑作だった。
しかしそれ以上は何も変わることなく、首輪だけがいつまでも、俺の首に居座っている。
人権は金で買えるらしい。仮にも金で買われた以上、俺に拒否権は無い。
ここにいる限り、俺はずっと、陽のあたる場所は歩けないんだろう。
猫よろしく部屋に閉じ込められて、犬のように首輪をつけられ、ペットのように俺を管理しながら、そうしてあいつは笑って言うんだ。
『良かったね。あそこで独り寂しく死なずに済んで』
「……反吐が出るな」
とことんまで狂ってる。
そんなにペットがお望みなら、次はその喉笛に噛み付いてやろうか。
/『暗がりの中で』
「こんにちは。あいせき、いいかい?」
私がカフェで優雅に紅茶を嗜んでいた折のことだ。上から降ってきた声に視線を向けた時、一瞬目を疑った。
そこに居たのは、一匹のツキノワグマだったのである。
二本足で立つその体長は、一般的な成人男性より少し大きいくらい。真っ黒な被毛につぶらな瞳。首元に羽織っている、丈の短いケープはどこか窮屈そうで、下から胸元の白い三日月模様が見え隠れしていた。
獰猛な種族のイメージにそぐわない、なんとも愛嬌のある佇まいであった。
「……失礼。どうぞ、おかけなさい」
ちょこんと小首を傾げるクマの様子に、我に返って席を勧める。クマはテーブルとソファの間に体を滑り込ませると、えっちらおっちら席に着いた。
改めて向き合うことになったクマの態度は、どこか居心地が悪そうであった。
「やはり、めずらしいかな、くまは」
「まあねえ……。私たち魔女が使い魔にするのは、もっぱら黒猫やらカラスやらの小動物だから……クマは初めて見たな」
使い魔にすると軽く言っても、元は全て野生の動物だ。人が野良の動物をペットにするのに比べると、それよりもはるかに長い時間、色々なことを仕込んで、覚えさせていく必要がある。
カラスは知能が高く、猫は人に慣れやすい。そのため比較的使役しやすいが、クマは元々獰猛な種族だ。体も大きいから、連れ歩くのにも難がある。
「あるじが、かぜをひいてね。おつかいのついでに、ここでともだち、つくってこいって」
こまっている、と肩を落とすクマを見て、軽く店内に視線を走らせた。
元々ここは、魔女とその使い魔御用達のカフェではあるが……なるほど、やはり遠巻きにされているようだ。あちこちから視線を感じる。
おおかた、このクマが暴れだしたりしないかと気が気でないのだろう。気持ちは分かる。
確かにこれは、友達をつくるどころではなさそうだ。
「まあ、せっかく来たんだから、お茶くらいして行けばいいさ。ここの紅茶は美味いぞ」
一度片付けていたメニューを再び取り出す。クマは数秒それを覗き込んでから、首を捻った。
「なにが、おいしいんだい」
「さあ。私はあまり味には詳しくなくてね。もっぱら香りを楽しんでいる」
「かおり?」
「好きなんだよね、紅茶の香り」
先程まで嗜んでいた紅茶を手元に寄せる。カップを鼻先に近づけると、爽やかでスッキリとした香りが鼻腔に広がった。
正直、紅茶は味よりも香りの方が好みだ。
だから、紅茶が温かい間はひたすら香りを楽しみ、冷めて香りが薄れて来てからやっと飲む。私はいつも、そんな独特の飲み方をしている。
友人には台無しだと怒られるが。
「かわっているね」
「ふふ、お互い様だね」
「……にたものどうし?」
よほど孤独を感じていたのだろうか。舌足らずなクマの声音が、少し嬉しげに弾むのを聞いて、思わず笑みがこぼれた。
とても愛らしいクマだ。まだ見ぬ彼の主は、動物を見る目があるらしい。
「そうだな、可愛いクマさんには、アップルティーでも勧めておこうか」
メニューのうちの一つに指を這わせると、クマは瞳を輝かせた。
/『紅茶の香り』