「愛してるぜ」
ウィンクをしながら言ってみた。
目の前には小さなクマのぬいぐるみ。ぶっちゃけ俺の趣味じゃない。だが、愛しのあの子がきらきらしい笑顔でくれたプレゼントなのだから、大切にしないなんてありえない。
そうとも、これはただのクマじゃない。もはやあの子そのものだ。だからこうして練習に付き合ってもらっているんじゃないか。サンキュークマ吉、恩に着るぜ。
腕組みをしながら、さっきの自分の言動を評価してみる。
今のはちょっとキザ過ぎる気がするな。逆にダサい。
「月が綺麗ですね」
これはどうだ。授業でやった有名なやつだ。ちょっと教養のある知的な男も演出できる。
いや、だが彼女はかなり鈍感だ。純度百パーの笑顔で「ほんとだ! きれーだね!」なんて月を指して返された日にゃ、その意味をどうとっていいのか分からない。九十九パー伝わってないのは確実なのに、わずかな希望を期待して悶々と悩むのは不毛すぎる。
てか、そもそも明日は新月だった。やめよ。
「……君の瞳に乾杯!」
いつかどっかで見た古くさい映像から。これはどうだ。むしろ逆に新しくないか?
なんだか今度こそ行ける気がして、これまたあの子に貰った小さな手鏡にテイクツーをかましてみたら、あまりの自分のキモさに真顔になった。だめだこれ、なし。却下。
「むっずぅ……」
万策尽きてベッドに沈む。枕の上に置いていたクマが、ぽてっと倒れて頭に乗った気配がした。
明日はあの子の十六回目の誕生日だ。
誕生日に告白しようと思い立ってからはや五年。明日がだめならまた来年に持ち越すしかない。
別に誕生日じゃなくても、と思わなくもないが、特別な日にかこつけないと勇気が出ないんだ。どうしても足がすくむ。
ヘタレな自覚はある。でも無理なもんは無理だ。無理。
ああ開き直りだとも。なんとでも言えちくしょう。
誰と言わずに脳内で言い訳を並べ立てては、吐いたため息がシーツに沈む。ちらっと時計を確認すると、もう二十三時だった。嘘だろ、あと一時間で明日じゃねぇか。
いったい何が悪いんだろう。妙に気取るからだめなんだろうか。
だったらなんだ。もっと自然に? むしろ、ありきたりなセリフの方が言いやすいか?
例えば、あなたが好きです、とか?
……そんなの。
「直球すぎて一番恥ずい……」
/『愛言葉』
夏は思いました。「みんなとお友達になりたいのになあ」
この世界には春と夏と秋と冬、四つの季節しかありません。春と秋には初めと終わりに会えるけれど、冬には一度も会ったことがありませんでした。
なぜなら、夏と冬は正反対の季節だからです。決して交わることはない。交わってはいけない。それは神様から言い渡された、絶対のルールでした。
「でも、友達になりたいんだよなあ」
たった四つしかない季節なのに、最後の一つとは永遠に会えない。そんなのは、夏にとっては悲しすぎました。
「どうしたら友達になれるかなぁ」
*
夏は、秋に相談することにしました。秋は夏と冬に挟まれている季節なので、適任だと思ったのです。
「ねえ秋。僕、冬に会いたいんだ。橋渡しをしてくれない?」
けれど、秋は「だめだ」と言いました。季節を狂わせることは許されない。それが神様から言い渡されたルールだからです。
夏も、それは知っていました。けれど、どうしても諦められなかったのです。
季節が巡る度、夏は何度も秋に交渉しました。そして、そのたびに断られました。
それでも、根気よく何度も何度も訴え続けて。
ある時から、秋が病気がちになってしまいました。あまり長く季節を担うことが出来ないのです。
その代わりに、夏と冬が長めに頑張ることで何とかしていました。
初めは夏も真面目に頑張っていましたが、少しして欲が出るようになってしまいました。
「ねえ秋、ちょっとでいいんだ。どうにか冬に会えないかな?」
いつもならすぐに断る秋ですが、この日は違いました。体が弱っていたせいでしょうか。秋は「少しだけなら」と弱弱しく口にしたのです。
それから、夏は時々秋の担当する季節に、冬に会いに行くようになったのでした。
*
夏に悪気はありませんでした。ほんとうにただ、冬に会いたかっただけなのです。会って、友達になりたかっただけなのです。
けれど、少しずつ、少しずつ、季節が狂っていきます。
一度禁を破ってしまったしわ寄せは、どうなってしまうのか。
それは、誰にも分からないのです。
∕『友達』
不意に、気づいてしまった。
かけがえのない親友が、隣で朗らかに笑っていたその時に。
ああ、これは夢なのだと。
だって、現実ではもう親友には会えはしないのだから。二人で過ごした最後の記憶は、今より何年も昔の、子供の頃の情景で止まっている。
でも、それでも良かった。
これが夢だとしても、また親友と楽しく過ごせるのなら、それで。
なのに、親友は急に表情を曇らせて、「気づいちゃったか」と寂しそうに呟く。
何が? と笑ってはぐらかそうとしても、声は出なくて。
口を開いても、喉に力を込めても、何も言葉を発せなくて。
だめだ。早く否定しないと。誤魔化さないと。嫌な予感に焦っても、状況は改善しないまま、親友は寂しげに笑うだけ。
ついにはこちらに背を向けて、明るい光の方へと歩き出してしまう。
いやだ、行かないで。まだここに居て。まだ一緒に居たい。話したい。笑いたい。まだ──
声が出ない。
急いで走り出したのに、一向に距離が縮まらない。
だんだん周囲の光が強くなって、親友の姿が、霞んでいく。
*
眩しい朝日が射していた。
ぼんやりとした思考のまま、辺りを見回す。見慣れた自分の部屋だ。春から借りている、安アパートの和室。昨日適当に引いたせいか、カーテンの間には隙間ができていて、そこから光が漏れていた。
寝心地の良くない煎餅布団の上で起き上がり、伸びをする。そうしていると不意に今まで見ていた夢を思い出して、ため息が出た。
なんで気づいてしまったんだろう。気づかなければ、ただの幸福な夢のままで終われたのに。
そうでなくても、もう少し天気が悪ければ。雨でも降ってくれていたら、陽の光に起こされることも無く、長い夢を見ていられたかもしれないのに。
もやもやとした気持ちを抱えたまま立ち上がる。
乱暴に開いたカーテンの先は、憎らしいほどの晴天だった。
∕『行かないで』
軒先から一歩踏み出すと、顔に雫が張り付いた。見上げた空は灰色で、細く頼りない雨糸が、いくつも頬を滑っていく。
鼻先をくすぐる雨の匂いを嗅ぎながら、ふと右手に握る鞄の存在を思い出した。服が濡れるのはどうでもいい。鞄の表面も、別に気にしない。ただ、中身まで濡れてしまったら面倒だな、と。
後のことを考えると躊躇して、今まで居た軒先へ戻ろうかと迷って、数秒その場に立ち尽くして。
唐突に、全部馬鹿らしくなった。
濡れたい気分なんだ。たまには余計な雑念は捨てたっていいだろう。
思いながら数歩、さらに足を踏み出すと、たったそれだけで見えない何かを振り切れたような気がした。
古くてこじんまりとした神社の境内に、他人の影はない。私が一人軒先から離れて、さほど強くない雨の中に、佇んでいるだけ。
時折聞こえる車の音はどこか遠くて、周囲は静かな雨音に包まれている。
雨が徐々に服へと染み込む。少しずつ布が肌に張りついて、身体の表面が冷たくなって。頭から顔へと流れてきた雫を拭いながら、ふと昔のことを思い出した。
そういえば小学生ぐらいの頃は、これくらいの雨なら気にせずに遊んでいた。こんな風に雨が服に張り付いて、背負ったランドセルが濡れて、中の教科書やプリントがふやけても。何度も何度も、繰り返し雨の中を遊んでいた。
楽しかったんだ。
降りしきる雨音を聞くのも、地面にできた水溜まりを蹴るのも、水の中を歩いているような感覚が、ただ楽しくて。
子供の頃の私は、雨の日が好きだった。
ああ、そうか。
だから今になって、雨空に踏み出してみたくなったのかもしれない。
あの頃に感じていた、雨に対する情熱が薄れたのは、いつ頃の事だったろう。
ランドセルの中身を気にして、雨に打たれなくなったのは。
それを『大人になった』と表現して、少し誇らしい気持ちになった、子供の頃の純粋な私は。
時が経つにつれて、細かいことや周りの目が気になりだして、好きなことを好きなようにと、たったそれだけの事が難しくなっていって……気づけばあれほど好きだった雨の日は、億劫な天気のひとつに成り下がっていた。
それは雨に限った話ではなく、他に好きなものが出来ては、余計なしがらみを気にして、やりたいことを押し殺して。
こんなつまらない大人になりたかった訳ではないのに。
額に張り付いた前髪を払う。初夏の雨はそれほど冷たくない。むしろ普段の暑さを思うと、涼しいくらいだ。
昨日までは気にも留めなかった雨音が、匂いが、情景が心地よく感じて、なんだか懐かしい気分になる。
ただ肌に張り付いた衣服は少なからず不快で、昔との感覚の違いが少し寂しかった。
きっと、昔を思い出したところで、子供の頃と同じように物事を感じることはできないのだろう。
それでも、多少気が晴れた。
今まで理由も分からなかった、漠然とした不安感の正体が分かったのなら、充分だろう。
拝殿の段差を上りきると、古ぼけた賽銭箱があった。
濡れた鞄を開けて少し湿った長財布を取り出す。少し考えてから、小銭入れの中身を全部ひっくり返すと、なんだか無性に楽しくなってきた。
勢いで一万円札も押し込んで、すぐ上に垂れ下がっている紐に手を伸ばす。
「神様、見ててね」
普段神社に来ないから、参拝の作法などは曖昧だ。
カラカラと鳴り響く鈴の音を聞いてから、手を合わせる。願い事はない。神頼みするほどのものではない。
けれど、どうせ居合わせたのだから、私の決意でも聞いて貰おう。
「私はこれから、好きに生きるよ」
今まで通り、つまらないままの大人でいたくはないから。
一息ついて振り返ると、鳥居の奥に見える空が晴れてきていて、少しだけ笑った。