軒先から一歩踏み出すと、顔に雫が張り付いた。見上げた空は灰色で、細く頼りない雨糸が、いくつも頬を滑っていく。
鼻先をくすぐる雨の匂いを嗅ぎながら、ふと右手に握る鞄の存在を思い出した。服が濡れるのはどうでもいい。鞄の表面も、別に気にしない。ただ、中身まで濡れてしまったら面倒だな、と。
後のことを考えると躊躇して、今まで居た軒先へ戻ろうかと迷って、数秒その場に立ち尽くして。
唐突に、全部馬鹿らしくなった。
濡れたい気分なんだ。たまには余計な雑念は捨てたっていいだろう。
思いながら数歩、さらに足を踏み出すと、たったそれだけで見えない何かを振り切れたような気がした。
古くてこじんまりとした神社の境内に、他人の影はない。私が一人軒先から離れて、さほど強くない雨の中に、佇んでいるだけ。
時折聞こえる車の音はどこか遠くて、周囲は静かな雨音に包まれている。
雨が徐々に服へと染み込む。少しずつ布が肌に張りついて、身体の表面が冷たくなって。頭から顔へと流れてきた雫を拭いながら、ふと昔のことを思い出した。
そういえば小学生ぐらいの頃は、これくらいの雨なら気にせずに遊んでいた。こんな風に雨が服に張り付いて、背負ったランドセルが濡れて、中の教科書やプリントがふやけても。何度も何度も、繰り返し雨の中を遊んでいた。
楽しかったんだ。
降りしきる雨音を聞くのも、地面にできた水溜まりを蹴るのも、水の中を歩いているような感覚が、ただ楽しくて。
子供の頃の私は、雨の日が好きだった。
ああ、そうか。
だから今になって、雨空に踏み出してみたくなったのかもしれない。
あの頃に感じていた、雨に対する情熱が薄れたのは、いつ頃の事だったろう。
ランドセルの中身を気にして、雨に打たれなくなったのは。
それを『大人になった』と表現して、少し誇らしい気持ちになった、子供の頃の純粋な私は。
時が経つにつれて、細かいことや周りの目が気になりだして、好きなことを好きなようにと、たったそれだけの事が難しくなっていって……気づけばあれほど好きだった雨の日は、億劫な天気のひとつに成り下がっていた。
それは雨に限った話ではなく、他に好きなものが出来ては、余計なしがらみを気にして、やりたいことを押し殺して。
こんなつまらない大人になりたかった訳ではないのに。
額に張り付いた前髪を払う。初夏の雨はそれほど冷たくない。むしろ普段の暑さを思うと、涼しいくらいだ。
昨日までは気にも留めなかった雨音が、匂いが、情景が心地よく感じて、なんだか懐かしい気分になる。
ただ肌に張り付いた衣服は少なからず不快で、昔との感覚の違いが少し寂しかった。
きっと、昔を思い出したところで、子供の頃と同じように物事を感じることはできないのだろう。
それでも、多少気が晴れた。
今まで理由も分からなかった、漠然とした不安感の正体が分かったのなら、充分だろう。
拝殿の段差を上りきると、古ぼけた賽銭箱があった。
濡れた鞄を開けて少し湿った長財布を取り出す。少し考えてから、小銭入れの中身を全部ひっくり返すと、なんだか無性に楽しくなってきた。
勢いで一万円札も押し込んで、すぐ上に垂れ下がっている紐に手を伸ばす。
「神様、見ててね」
普段神社に来ないから、参拝の作法などは曖昧だ。
カラカラと鳴り響く鈴の音を聞いてから、手を合わせる。願い事はない。神頼みするほどのものではない。
けれど、どうせ居合わせたのだから、私の決意でも聞いて貰おう。
「私はこれから、好きに生きるよ」
今まで通り、つまらないままの大人でいたくはないから。
一息ついて振り返ると、鳥居の奥に見える空が晴れてきていて、少しだけ笑った。
8/28/2024, 7:48:27 AM