目を開けると、わたしは見知らぬ路地に立っていた。
何かの絵画にでも描かれていそうな場所だった。漆喰壁の白い建物が続いている。窓はステンドグラスのように様々な色硝子が嵌っていて、日が差し込んだ箇所がキラキラと光っていた。
建物の脇や石畳の間から覗く雑草ですら、鮮やかな緑色だ。視界に映る極彩色の情景は見覚えのないものなのに、どこか懐かしいような気もして。
「あ……夢、か」
そういえば、昔から時折夢で見る。画家が絵の具を垂らしたかのような、こんな色鮮やかな街並みを。
*
路地を抜けると、活気のある大通りと繋がっていた。そこに見た景色は以前見た夢と同じもので、少しだけ心が踊る。
露店が立ち並ぶ大通りの間を、大小様々な人影が行き交っている。豊かな布を巻き付けたような、どこか中東を思わせる装いをしていて、半数くらいの人はフードを被っていた。
特筆すべきはその頭部だ。皆一様に角がある。顔には誰もが不思議な紋様が描かれた布をかけていて、表情は分からなかった。前が見えているのか不思議だけど、危なげなく歩いているので、問題はないらしい。
わたしはこの夢が好きだった。
美しい街並みと不思議な人々。その中を歩いていると、物語の中を探索している気分になれるから。
わたしはこの夢が好きだった。
今日、この日が来るまでは。
「やっと見つけた」
声につられて視線を向けると、いつの間にか、すぐ真横に人が居た。
その人の額には、山羊を思わせる曲がった角が生えていた。背はわたしより頭二つ分は高い。軽く屈んでいるせいか顔の布が少し浮いて、下から弧を描く口元が見えている。
これはわたしに言っている、のだろうか。
どうしてだろう。いつもは誰かに話しかけられるどころか、認識さえされることはないのに。
あれ、そういえばこの人、前回の夢でも見たような──
「──いっ……!」
突然腕をひねりあげられる。全く予期していなかった苦痛に、思わず口から悲鳴が漏れた。
痛い。痛い、痛い痛い痛い!
ぶわっと汗が吹き出てきて、必死でその手から逃れようとする。なのに、わたしの腕を掴むその手はビクともしない。
こんなことは今までなかった。
知らない。こんなものは、知らない。
全体重を後ろにかけて腕を抜こうともがいていると、急にぱっと手が離される。勢いを殺せず、わたしはそのまま尻もちをついた。
「すまない。人間は脆弱だったな。忘れていた」
じくじくと残る鈍い痛み。掴まれていた場所を見ると、そこは真っ赤な痣になっていた。
夢。これは、夢。
本当に?
夢というのは、こんなにもはっきりと痛みを感じるものだったか。
荒々しい自分の息遣いも、忙しなく動く心臓の鼓動も、今まで夢の中で意識したことなどあっただろうか。
背筋を滑り落ちる冷や汗さえ、鮮明に感じ取れるというのに。
「ようやく、ようやくだ。ずいぶんと時間がかかったが、やっと完全に君を呼べた」
薄々と感じているこの予感を、認めたくない。
だって、どうしてここにいるのかも覚えていないんだ。現実と言うには、あまりに常軌を逸しているじゃないか。
うっすらと湧き上がる恐怖から逃れるように、さ迷わせた視線が、夢でよく見ていた大通りへと行き着く。
極彩色の街並みは、見覚えがあるようで、やはり知らない場所だった。
∕『見知らぬ街』
どうして泣くのかと聞かれた。
あんたがそれを言うのか、と思った。
昔から、どこかズレているやつだった。いつものほほんとしていて、楽観的で。どちらかといえば慎重派な私とは、噛み合わないことがよくあった。
幼い頃の私は今よりも怖がりで、よく泣いていた。隣にいたのは決まって幼なじみのやつだったから、その流れで泣きつくこともままあった。自分の中の恐怖に共感されないことがもどかしくて、けれど同時に、確かに救われてもいたんだ。
あの頃は置いていかれたらどうしようと、そればかり考えていたのを覚えている。
けれどまさか、今になって本当に居なくなってしまうとは思わないじゃないか。
やつが行方不明になったのは、今からひと月くらい前だった。行先も告げず、ふらっと出ていったきり帰ってこなかった。やつの家族は大騒ぎで方々に連絡をして、それでもやっぱり見つからなくて。
再会を願ってはいた。はやく帰ってこいと思った。けれど、それがこんな最悪な形になるなんて聞いてない。
学校帰りの帰路の途中。人通りの途絶えた、住宅街の夕暮れの中で。久しぶりにその姿を目にして固まった私に、やつは嬉しそうに言ったのだ。私に霊感があって良かった、と。
赤く燃える夕陽を背にしたやつは、逆光の立ち位置に居るにも関わらず、影がなかった。その体をよく見れば、向こう側の景色が透けているのが分かる。空気を震わせることの無いその声は、聞きなれた生者のものとはどこか違う。
明らかにこの世のものではないそいつの様子は、既に手遅れであることがいやでも伝わってきた。
ぼろぼろと目から熱いものが流れ落ちてくる。それを自分の腕で乱雑に拭いながら、おろおろと挙動不審な動きをする霊体を睨みつける。
「っ、ふざけるなよ」
どうして泣くか、だと? なぜ分からない。馬鹿じゃないのか。
あんたはいつもそうだ。周囲には楽観的なくせに自己肯定感だけは妙に低くて、平気で自己犠牲的な行動を取る。それを見ている周りの心配なんて歯牙にもかけない。
死んでは居るけど会えてるんだから、とやつは言う。そういう問題じゃない。そんなことも分からないのか。
馬鹿じゃないのか。
幼い頃に戻ったようだ。涙が止まらない。自分の意思とは関係なく、喉がひっと音を立てる。声を殺そうとしても叶わずに何度もしゃくり上げていると、ぼやけた視界の中で何かが動いた。
手が伸びてくる。昔のようにそれは私の頭へと向かって、けれど、いつまで経ってもなんの感触もなくて。少ししてから、ゆっくりと腕を引っ込めたやつが、目の前で寂しそうな顔をした。
視認はできる。会話はできる。でも接触はできない。
置かれた立場が違う。住んでいる世界が違う。もう二度と何かを同じように感じることは無い。二度と同じように共有出来ることは無い。
これが死者と生者を分かつ、絶対に越えることのできない壁だ。
涙がこぼれた。
こんな再会を望んでいたわけではなかったのに。目の前の顔を見ながら、唇を引き結ぶ。
けれど、それでも。
あのまま二度と会えないよりはよっぽど良かったと、少しでも思ってしまったのも、確かだった。
∕『なぜ泣くの?と聞かれたから』
寒いのは嫌いだ。
大人たちは近年の秋はおかしいって言う。気温の差が激しくて、寒かったり暑かったりするって。
でも、どこら辺が暑かったんだよ。俺にとったらすごく寒いかちょっと寒いかの違いでしかない。百歩譲ってあったかい日はあっても、暑い日なんて既にない。夏はとっくに終わったんだ。
だからさ、もういいんじゃねぇの、こたつ出しても。出そうよ。寒いんだよ。
親に何回訴えても何言っても生返事されるから、もう自分で勝手に出した。家族には揃って苦笑いされたけど知らねぇ。今日から春までこのこたつは俺の城だ。
そう思ってたのに。
冷たい秋風が頬を撫でる。首元から冷気が入り込んで来るような気がして、思わず首をすくめた。
せっかくの休日、ずっとこたつの中に籠るつもりだったのに、母さんにおつかいを押し付けられてしまった。
今日は暖かいからいいでしょ、だって。気温が比較的高くても、風がもう冬じゃん。全然寒いんだけど。騙された。
「あんたねぇ、今こんなんで、冬になったら生きていけんの?」
隣で姉ちゃんが呆れ顔をする。毎年聞いてる気がするんだけど、その言葉。
「なめんな、だてに十六年人生やってねぇよ」
「そこ別に威張るとこじゃないでしょうが」
姉ちゃんは俺と同じく、購入制限が一人一個までの激安商品のために駆り出された被害者だけど、俺と違ってかなり薄着だ。かろうじて長袖、でも布はペラペラ、みたいな。家出る前に、なんでその服で大丈夫なわけ、と聞いたら、おかしいのは俺の方だと言われた。
というか、うちの家族は俺以外、みんな体ぽかぽか体質だ。今年も俺が寒がる横で、ギリギリまで平気で半袖着てた。
だから俺の寒さを理解してくれるのが全然居ない。平気で俺を外に出すんだ。こんなに寒いのに。
もうこうなったら、さっさと買い物終わらせて、家に帰ってこたつでぬくぬくしてやる。そう決意をした道も半ば。具体的には目的地のスーパーまで、あと少しのところまで来たくらいだった。
急に強い風が吹いた。
周りの木々がざわめいて、色づいた葉っぱが次々に落ちてくるくらいの、強烈な風。乾いた空気が肌を刺して、一気に体温を奪ってく。
「っ、寒い寒い寒い無理」
「あーもー、もうちょいで着くでしょ。ちょっとは我慢しなよ」
「早く! 早く行こう! ここ無理!」
「木枯らしかな。もう秋も終わりだねえ」
薄着のくせに平然としてる姉ちゃんが信じられない。急かしても急かしてものんびりとした歩調のままなの、なんなんだ。嫌がらせか。もう俺だけ先に行くぞこの。
「もうやだ来るんじゃなかった寒い死ぬ、凍死する」
「まぁまぁ。せっかく来たんだし、ついでに美味いもんでも買って帰ればいいじゃん。アイスとかどう?」
「は!? こんな寒いのに、狂ってんの!?」
もはや寒さに強いどころじゃない。実は同じ人間じゃないんじゃないのか。半分以上本気でそう思って、そのまま口に出そうとした。
そしたら俺が何か言う前に、姉ちゃんは急に真剣な顔をして。
「何を言うかね愚弟よ。あっついこたつで食う冷たいアイスは最高だろうがよ」
「…………一理ある」
しばらく考えた末、同意せざるをえなかった。
よし、わかった。さっさと買うもの買って帰ろう。
家に帰ったらこたつでぬくぬくアイス食べてやる。
/『秋風』
天使の生態観察
一、外見は十二、三歳くらいの子供。髪はブロンドで短め。全体的に色素が薄い。外見が種族特有のものなのか、この個体特有のものなのかは不明。(現状確かめる術もないが)
二、性別は男でも女でもない。どうやら無性別のようだ。
三、声は発するものの、どれだけ聞いても聞き取れない。人間と同じ声帯をしていないのか、単に言語が違うのか。興味は尽きない。
四、天使側の言葉は分からないが、こちらの言葉は通じるようだ。私の指示には素直に従う姿勢を見せる。
五、片翼が半ばから欠損していたらしい。傷が治っても、いつまでも飛ぶ様子を見せない。この天使は天へ帰れるのだろうか?
*
「ほら、朝飯を持ってきたぞ。食え」
適当な具を挟んだパンを五、六個、皿に乗せてきた。それをそのままテーブルに置くと、天使は目を輝かせる。
大口開けてパンにかぶりつく様子を眺めながら、私は天使とは反対側の椅子へと腰掛けた。
天使の生態。飯は普通に食べる。食べる物は人間と同じもので可。量はやや多め。
脳内でつらつらと観察日記をつけていると、急に天使の動きが止まった。手元のパンと私の顔を何度も見比べ、首を傾げている。
「なんだ、それは全部おまえの分だぞ」
ずい、と眼前にパンを突きつけられてたしなめるも、理解しているのか怪しい。天使は変わらず首を傾げたまま、ずいずいとパンを押し付けてくる。
なんなんだ。今日は妙に反抗的だな。
「いやだから、私は朝からそんなに食えな……っ!?」
急に口内へと突っ込まれた食べかけのパンに、言いかけた言葉は虚しく消えた。
この天使を見つけたのは、薬草を探しに入った、近くの森の中だった。湖のほとりの辺りに血塗れで倒れていたのだ。
面倒事には関わりたくはなかったものの、放置するのも忍びないので連れ帰ったのだが。
「思っていたのと違う……」
私の腹あたりに、ぐりぐりと頭を埋めてくる天使を引き剥がす。直後天使は不満げに眉根を寄せて、私の腕をぺちぺちと叩いた。
何故こんなに懐かれているのか分からない。何も特別なことはしていないのに。
たしか、天使ってのは神の使いだったと思うんだが。
この子供を見ていると、首を傾げたくなる。威厳もへったくれもあったもんじゃない。神々しいというよりは遥かに人間くさくて、下手したら猫っぽくすらある。気づいたら擦り寄って、頭をぐりぐりと押し付けてくるし。
そもそも、この子供は本当に天使なのだろうか。姿形からそう判断してはいたが、それにしては疑問が残る。
神の使いというのは、天と人とを橋渡しする存在とされている。それで言うと、意思疎通ができないのは致命的ではないか。
いや、しかし性別がないのだから、やはり生物の括りからは外れているようにも思える。
寿命は? 実はこんななりで、私より年上だったりするのだろうか。
たしかどこかで、天使の見た目は階級により異なるという文言を見た気はするが──
「……やめよう」
不毛だ。確かめようのないことをいくら探っても仕方ない。
少なくとも精神年齢は子供じみているようだから、年齢も子供と思っておこう。私の精神衛生上、その方が確実にいい。うん。
ため息をつく。するとそれに反応したのか、私の腕に敵意を向けていた天使が、ふと顔を上げたのが見えた。不思議そうな顔をしたその頭上からは、背から生えている身の丈ほどの翼がちらちらと見えている。
翼の傷は既に癒えた。にも関わらず左右の翼が非対称なのは、片翼が半ばからちぎれているせいだ。
これは、果たして治るのだろうか。
天使の再生能力がどの程度が分からない以上、なんとも言えないところだが。
「ちゃんと治して、さっさと帰れよ」
とりあえず、回復を祈るしかないだろう。
神の使いをいつまでも匿って、神罰でもあったらたまったもんじゃない。
/『飛べない翼』
嘘をついた。取るに足らない嘘だった。
少なくともあの時の僕は、そう思っていた。
*
ノックをしてから病室の扉を開ける。中に入ると、ベッドから半身起こした彼女がこちらを見ていた。初めは少し不安げだったその顔が、目が合った途端、どことなく気まずげなものへと変わる。
彼女がここに入院してから、そんな表情は何度も見てきた。だから、顔を見ただけでわかったんだ。
今日もまた、駄目だったんだろうって。
「こんにちは。調子どう?」
何も気付かないふりをして、顔に笑顔を張り付ける。彼女は僕の方をちらっと見て、すぐに目を逸らした。
「えっと、体調はいい、かな。……あの、ごめん。まだ何も思い出せてないんだよね」
「そう。まぁ焦る必要もないし、のんびりやればいいんじゃない」
言いながら肩にかけていたスクールバッグを床に下ろす。僕がベッドの横に置かれたままの椅子に座ると、彼女は複雑そうな顔をした。
不安、焦燥、困惑、疑心……表情に全部出てるなぁ。わかりやすい。
「コンビニでプリン買ってきたんだけど、食べる?」
笑顔のままビニール袋を掲げると、彼女は少し迷う素振りを見せた後、食べる、と小さく返事をした。
僕らは家が近所の、いわゆる幼なじみだ。歳は彼女の方が一つ上。
親同士が友人なのと、お互い一人っ子で両親が遅くまで働いてるから、幼い頃から何かと一緒にされていた。実際昔は仲が良くて、親のことがなくてもよく遊んでたのを覚えている。
でも三年前──僕が中三で彼女が高一になった辺りからは、顔も合わせなくなった。たまたま会ったとしても、会話もしない。目も合わせないで、知らない他人のようにすれ違うだけ。
そして、今から二週間くらい前に、彼女は交通事故にあった。
頭を強く打ったようで、目覚めた時には記憶の一部がとんでいた。そのとんだ記憶のうちのひとつが、僕に関することだったらしい。
彼女は僕らの仲が悪化したことも、普段はほとんど会話をしていなかったことも、全然覚えていないようだった。
だから、チャンスだと思ったのに。
「ねえ、この際はっきりさせていい?」
うつむきがちに何かを考え込んでいた彼女が、急に顔を上げる。その目に以前のような意志の強さが宿っているのを見て、諦念に似た感情が湧き上がる。
やっぱり、無理だったのかもしれない。
「今のあなたは、私が嫌いなの?」
嘘をついた。他愛もない嘘だった。
彼女が覚えてないのをいいことに、何もかもをなかったことにしようとした。僕らは昔から変わらず仲が良くて、今でもよく遊んでいて、だから入院した幼なじみが心配で、よくここに来ているんだって。
そうすれば、昔みたいな距離感に戻れる気がしたから。一からやり直せる気がしたから。
「……なんで?」
「笑顔も心配も、いつもどこか薄っぺらいから」
でも、やっぱり無理なんだろう。
頭に記憶がなくても、どこかで覚えてるのかもしれない。覚えてるから、許せないのかもしれない。細く息を吐き出して、目を伏せる。
「嫌いだったら、わざわざ見舞いになんか来ないよ」
僕を嫌ってたのは、君の方でしょ。
喉元まで出かけた言葉は、すんでのところで飲み込んだ。
早く思い出せればいいね。彼女が日常に不安を感じている様は、見ていて可哀想だ。
ずっと思い出さなければいい。そうでいる限り、僕が君に話しかけても、咎められることはないから。
『最低』
表情の消え失せた以前の彼女が、脳裏にこびりついて離れない。
彼女の記憶が戻った時、きっとこの関係性は終わるんだろう。
/『脳裏』