すな

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1/5/2026, 3:52:27 AM

 幸せ。
 概念は知っている。それがどういうもので、どういう感情なのか。知識としては知っている。
 だが俺は、これまでの生で幸せというものを実感したことがない。
 だからそれがどんなものか、いまいち理解しきれていない。

「幸せだねえ」

 あなたが言った。
 手の中の紅茶を傾けながら、蜂蜜色の目を細ませて。
 二人しかいないこの温室の中で、目の前の顔は柔らかく頬を緩ませ、満足そうに笑っている。

 俺には幸せというものがよく分からない。
 しかしあなたが言うのだから、今この時間は、幸せと呼べるものなのかもしれない。

 あなたがフォークを手にする。手元のケーキを小さく切り分け、欠片となった一切れにフォークを刺す。それが俺の方へと差し出されるのを見て、以前に言われた通り、わずかに身を乗り出した。
 ケーキを口で受け取ると、あなたがいっそう笑みを深める。身動ぎと同時に俺の膝の上で、じゃらりと鎖の音がした。

 以前俺がいた環境は、我ながら酷いものだった。
 そこから連れ出してくれたあなたには、感謝してもしきれない恩を感じている。

 ここに来てから両手は枷を嵌められて、可動域は酷く狭くなった。
 両足の腱は切られて、自力ではもう立つことも覚束無い。
 舌は半分切り取られたから、まともに喋ることも難しい。

 目の前であなたが穏やかに笑う。
 幸せ。これが幸せなのだろうか。俺にはよく分からない。

 だが、ここには平穏がある。
 自分で動くことは難しいが、三食手ずからあなたが与えてくれて、車椅子に乗せられて散歩にも連れ出してくれる。近頃は傷つけられることもなく、何に煩わされることもなく、のどかな時が流れている。

「おいしい?」

 小首を傾げるあなたに小さく頷いて、ぼんやりと温室の中を見る。瑞々しく茂った植物は陽を受けて輝いていて、目に映るこの光景は、とても美しいような気がした。
 あなたが言うのだから、これが幸せなのかもしれない。


 /『幸せとは』




9/7/2025, 3:44:06 AM

 日が沈むのが早くなった。

 窓から差し込む日差しは少し赤くて、空にはほんのりと茜色が混ざってきている。エアコンが切られた教室はまだ蒸し暑い。けど、開いた窓から吹き込む風は、秋の冷たさが混じり始めていた。

 窓辺の自分の席で頬杖をつきながら、僕はひとり、外を眺めていた。
 グラウンドで練習する運動部。遠くに聞こえる吹奏楽部の楽器の音。青春に打ち込む誰かの気配は眩しくて、だけどもうすぐ見納めなんだと思うと、どこか感傷的な気分になる。

 別に、寂しくはない。

 父親が転勤族なせいで、昔から転校は多かった。
 初めの頃は友達が欲しくて明るく振る舞ったりもしたけど、回数を重ねるうちにやめた。僕は元々内気な方で、社交的なキャラは向いてない。本があれば暇は潰せるし、最低限の愛想があれば、そこまで孤立もしないと分かったから。

 この学校での僕には、親しい友達は居ない。
 だから、別れが寂しい人もいない。
 これでいい。転校のたびに別れを嘆くのは、すごく、心が疲れるから。

 目的もなく、ぼうっと外を見ていると、いつの間にか真っ赤な空に藍色が混ざり始めていた。部活が終わったのか、ちらほらと校舎へ戻っていく運動部たちを眺めてから、立ち上がって窓を閉める。

 寂しくはない。
 ただ、終わりを気にせず笑える皆が、少し羨ましい。

 ∕『誰もいない教室』



8/25/2025, 8:15:55 AM

 目を開けると、わたしは見知らぬ路地に立っていた。
 何かの絵画にでも描かれていそうな場所だった。漆喰壁の白い建物が続いている。窓はステンドグラスのように様々な色硝子が嵌っていて、日が差し込んだ箇所がキラキラと光っていた。
 建物の脇や石畳の間から覗く雑草ですら、鮮やかな緑色だ。視界に映る極彩色の情景は見覚えのないものなのに、どこか懐かしいような気もして。

「あ……夢、か」

 そういえば、昔から時折夢で見る。画家が絵の具を垂らしたかのような、こんな色鮮やかな街並みを。



 *



 路地を抜けると、活気のある大通りと繋がっていた。そこに見た景色は以前見た夢と同じもので、少しだけ心が踊る。

 露店が立ち並ぶ大通りの間を、大小様々な人影が行き交っている。豊かな布を巻き付けたような、どこか中東を思わせる装いをしていて、半数くらいの人はフードを被っていた。
 特筆すべきはその頭部だ。皆一様に角がある。顔には誰もが不思議な紋様が描かれた布をかけていて、表情は分からなかった。前が見えているのか不思議だけど、危なげなく歩いているので、問題はないらしい。

 わたしはこの夢が好きだった。
 美しい街並みと不思議な人々。その中を歩いていると、物語の中を探索している気分になれるから。

 わたしはこの夢が好きだった。
 今日、この日が来るまでは。

「やっと見つけた」

 声につられて視線を向けると、いつの間にか、すぐ真横に人が居た。
 その人の額には、山羊を思わせる曲がった角が生えていた。背はわたしより頭二つ分は高い。軽く屈んでいるせいか顔の布が少し浮いて、下から弧を描く口元が見えている。

 これはわたしに言っている、のだろうか。
 どうしてだろう。いつもは誰かに話しかけられるどころか、認識さえされることはないのに。
 あれ、そういえばこの人、前回の夢でも見たような──

「──いっ……!」

 突然腕をひねりあげられる。全く予期していなかった苦痛に、思わず口から悲鳴が漏れた。
 痛い。痛い、痛い痛い痛い!
 ぶわっと汗が吹き出てきて、必死でその手から逃れようとする。なのに、わたしの腕を掴むその手はビクともしない。

 こんなことは今までなかった。
 知らない。こんなものは、知らない。

 全体重を後ろにかけて腕を抜こうともがいていると、急にぱっと手が離される。勢いを殺せず、わたしはそのまま尻もちをついた。

「すまない。人間は脆弱だったな。忘れていた」

 じくじくと残る鈍い痛み。掴まれていた場所を見ると、そこは真っ赤な痣になっていた。

 夢。これは、夢。
 本当に?

 夢というのは、こんなにもはっきりと痛みを感じるものだったか。
 荒々しい自分の息遣いも、忙しなく動く心臓の鼓動も、今まで夢の中で意識したことなどあっただろうか。
 背筋を滑り落ちる冷や汗さえ、鮮明に感じ取れるというのに。

「ようやく、ようやくだ。ずいぶんと時間がかかったが、やっと完全に君を呼べた」

 薄々と感じているこの予感を、認めたくない。
 だって、どうしてここにいるのかも覚えていないんだ。現実と言うには、あまりに常軌を逸しているじゃないか。

 うっすらと湧き上がる恐怖から逃れるように、さ迷わせた視線が、夢でよく見ていた大通りへと行き着く。
 極彩色の街並みは、見覚えがあるようで、やはり知らない場所だった。

 ∕『見知らぬ街』

8/20/2025, 9:57:16 AM

 どうして泣くのかと聞かれた。
 あんたがそれを言うのか、と思った。
 昔から、どこかズレているやつだった。いつものほほんとしていて、楽観的で。どちらかといえば慎重派な私とは、噛み合わないことがよくあった。

 幼い頃の私は今よりも怖がりで、よく泣いていた。隣にいたのは決まって幼なじみのやつだったから、その流れで泣きつくこともままあった。自分の中の恐怖に共感されないことがもどかしくて、けれど同時に、確かに救われてもいたんだ。
 あの頃は置いていかれたらどうしようと、そればかり考えていたのを覚えている。
 けれどまさか、今になって本当に居なくなってしまうとは思わないじゃないか。

 やつが行方不明になったのは、今からひと月くらい前だった。行先も告げず、ふらっと出ていったきり帰ってこなかった。やつの家族は大騒ぎで方々に連絡をして、それでもやっぱり見つからなくて。
 再会を願ってはいた。はやく帰ってこいと思った。けれど、それがこんな最悪な形になるなんて聞いてない。

 学校帰りの帰路の途中。人通りの途絶えた、住宅街の夕暮れの中で。久しぶりにその姿を目にして固まった私に、やつは嬉しそうに言ったのだ。私に霊感があって良かった、と。

 赤く燃える夕陽を背にしたやつは、逆光の立ち位置に居るにも関わらず、影がなかった。その体をよく見れば、向こう側の景色が透けているのが分かる。空気を震わせることの無いその声は、聞きなれた生者のものとはどこか違う。
 明らかにこの世のものではないそいつの様子は、既に手遅れであることがいやでも伝わってきた。

 ぼろぼろと目から熱いものが流れ落ちてくる。それを自分の腕で乱雑に拭いながら、おろおろと挙動不審な動きをする霊体を睨みつける。

「っ、ふざけるなよ」

 どうして泣くか、だと? なぜ分からない。馬鹿じゃないのか。
 あんたはいつもそうだ。周囲には楽観的なくせに自己肯定感だけは妙に低くて、平気で自己犠牲的な行動を取る。それを見ている周りの心配なんて歯牙にもかけない。

 死んでは居るけど会えてるんだから、とやつは言う。そういう問題じゃない。そんなことも分からないのか。
 馬鹿じゃないのか。

 幼い頃に戻ったようだ。涙が止まらない。自分の意思とは関係なく、喉がひっと音を立てる。声を殺そうとしても叶わずに何度もしゃくり上げていると、ぼやけた視界の中で何かが動いた。
 手が伸びてくる。昔のようにそれは私の頭へと向かって、けれど、いつまで経ってもなんの感触もなくて。少ししてから、ゆっくりと腕を引っ込めたやつが、目の前で寂しそうな顔をした。

 視認はできる。会話はできる。でも接触はできない。
 置かれた立場が違う。住んでいる世界が違う。もう二度と何かを同じように感じることは無い。二度と同じように共有出来ることは無い。
 これが死者と生者を分かつ、絶対に越えることのできない壁だ。

 涙がこぼれた。
 こんな再会を望んでいたわけではなかったのに。目の前の顔を見ながら、唇を引き結ぶ。
 けれど、それでも。
 あのまま二度と会えないよりはよっぽど良かったと、少しでも思ってしまったのも、確かだった。

 ∕『なぜ泣くの?と聞かれたから』

11/15/2024, 9:57:11 AM

 寒いのは嫌いだ。
 大人たちは近年の秋はおかしいって言う。気温の差が激しくて、寒かったり暑かったりするって。
 でも、どこら辺が暑かったんだよ。俺にとったらすごく寒いかちょっと寒いかの違いでしかない。百歩譲ってあったかい日はあっても、暑い日なんて既にない。夏はとっくに終わったんだ。

 だからさ、もういいんじゃねぇの、こたつ出しても。出そうよ。寒いんだよ。
 親に何回訴えても何言っても生返事されるから、もう自分で勝手に出した。家族には揃って苦笑いされたけど知らねぇ。今日から春までこのこたつは俺の城だ。
 そう思ってたのに。



 冷たい秋風が頬を撫でる。首元から冷気が入り込んで来るような気がして、思わず首をすくめた。
 せっかくの休日、ずっとこたつの中に籠るつもりだったのに、母さんにおつかいを押し付けられてしまった。
 今日は暖かいからいいでしょ、だって。気温が比較的高くても、風がもう冬じゃん。全然寒いんだけど。騙された。

「あんたねぇ、今こんなんで、冬になったら生きていけんの?」

 隣で姉ちゃんが呆れ顔をする。毎年聞いてる気がするんだけど、その言葉。

「なめんな、だてに十六年人生やってねぇよ」
「そこ別に威張るとこじゃないでしょうが」

 姉ちゃんは俺と同じく、購入制限が一人一個までの激安商品のために駆り出された被害者だけど、俺と違ってかなり薄着だ。かろうじて長袖、でも布はペラペラ、みたいな。家出る前に、なんでその服で大丈夫なわけ、と聞いたら、おかしいのは俺の方だと言われた。

 というか、うちの家族は俺以外、みんな体ぽかぽか体質だ。今年も俺が寒がる横で、ギリギリまで平気で半袖着てた。
 だから俺の寒さを理解してくれるのが全然居ない。平気で俺を外に出すんだ。こんなに寒いのに。

 もうこうなったら、さっさと買い物終わらせて、家に帰ってこたつでぬくぬくしてやる。そう決意をした道も半ば。具体的には目的地のスーパーまで、あと少しのところまで来たくらいだった。
 急に強い風が吹いた。
 周りの木々がざわめいて、色づいた葉っぱが次々に落ちてくるくらいの、強烈な風。乾いた空気が肌を刺して、一気に体温を奪ってく。

「っ、寒い寒い寒い無理」
「あーもー、もうちょいで着くでしょ。ちょっとは我慢しなよ」
「早く! 早く行こう! ここ無理!」
「木枯らしかな。もう秋も終わりだねえ」

 薄着のくせに平然としてる姉ちゃんが信じられない。急かしても急かしてものんびりとした歩調のままなの、なんなんだ。嫌がらせか。もう俺だけ先に行くぞこの。

「もうやだ来るんじゃなかった寒い死ぬ、凍死する」
「まぁまぁ。せっかく来たんだし、ついでに美味いもんでも買って帰ればいいじゃん。アイスとかどう?」
「は!? こんな寒いのに、狂ってんの!?」

 もはや寒さに強いどころじゃない。実は同じ人間じゃないんじゃないのか。半分以上本気でそう思って、そのまま口に出そうとした。
 そしたら俺が何か言う前に、姉ちゃんは急に真剣な顔をして。

「何を言うかね愚弟よ。あっついこたつで食う冷たいアイスは最高だろうがよ」
「…………一理ある」

 しばらく考えた末、同意せざるをえなかった。

 よし、わかった。さっさと買うもの買って帰ろう。
 家に帰ったらこたつでぬくぬくアイス食べてやる。




/『秋風』

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