明日に向かって歩く、でも辿り着くことはない。
何故なら、到着したと思ったらそこは、今日だから。
その時すでに、明日は夜の向こうへと遠ざかっている。
永遠に辿り着けることはなく、明日なんて幻のようなもの。
人は今日を生きることしか出来ない。
それでも人は、明日に向かって歩き続ける。
立ち止まることは出来ない。昨日に戻ることも。
明日がどんな日であろうとも、どんな今日に姿を変えようとも、立ち向かわなければならないんだ。
それが、生きるということ。
迎えられる明日があることに感謝しよう。
それが素晴らしい今日となり、記憶に残る昨日へと流れてゆく。
その一瞬一瞬を大切にすれば、きっとそれは実りある人生となる。
頭を搔きむしるような憤りも、心を抉られるような悲しみも、人生のほんの一部でしかない。
明日に向かって歩く、でも時に歩みを緩めて、振り返って。
がむしゃらに生きるだけじゃ得られないものがある。
立ち止まって、周りを見渡せば、そこに広がっている自分の生きてきた軌跡。
どんなに単調でも、波乱に満ちていても、それはかけがえのない自分だけの宝物。
だから、明日に向かって歩き続けよう。
ゴールはあっても、それを目指して進むのではなく、その道のりを楽しみながら、時に立ち止まって、いくつもの感情を味わって、出会った人達を大切にして。
それが、生きるということ。
うまくやれてるかどうかなんてどうでもいい。
自分だけの人生を生きていること、それがすべてなんだと思う。
君も僕も、この世界にたった一人であると同時に、80億人のうちの一人でしかない。
替えなんかいくらでもいる。世界的には。
でも、誰かにとってのたった一人。
その誰かは、家族や恋人、友達だったりもするけど、そーゆー存在がいなかったとしても、自分にとってのたった一人の存在であることは間違いない。
自分が認識出来る、たった一人の存在。
代わりはいない。大切にしないわけにはいかない。
80億人いても、存在を認識出来るのは自分ひとりだけ。
この感覚は、どれだけ推したって愛したって共有出来ない。
たとえば、自分が今、誰かを殺したいと願っても、それを表に出さない限り、誰にも咎められることはないだろう。
自分の中で憎悪がどれだけ渦巻いていても、他人にこの気持ちが流れ込んだりはしない。
すべて、自分ありき、なんだ。
当たり前のことだが、それでも人は、自分を蔑ろにしたり、理解されないと嘆いたり。
どこかで誰かとつながることを望んでる。
でも、物理的に手をつなぐことくらいは出来ても、本当に心をつなげることなんて、出来るわけがないんだ。
だって、たった一人の君だから。
たった一人の僕だから。
かくなる上は、言葉を駆使して、出来るだけ想いの共有を図るだけ。
そのために僕は、こうしてメッセージを書き連ねる。
こんな拙い言葉で、どれほどの力があるのか分からないけど、伝わりますか、この想い。
ただひとりの君へ。
手のひらの宇宙…なんか、アニメのサブタイトルみたいな…いや知らんけど。
思わず、手のひらをじっと見つめる。
ここに宇宙があったら…吸い込まれて、ヘビが自分の尻尾から飲み込んでくみたいに輪っかになるかも…いや知らんけど。
お題がトリッキー過ぎて、支離滅裂な妄想ばかりが浮かぶ。
巨大な観音様の手のひらで、宇宙が作られ、生命が誕生する。
しばらくの間、手のひらの上で遊ばされて、観音様が飽きてきたら、クシャッと潰されて一巻の終わり。
…シュールな妄想だわ。
だってね、手のひらに宇宙は作れんよ。
あまりにも壮大な想像力を駆使せんことには。
壮大と言えば、たった今まで「すずめの戸締まり」観てた。
壮大過ぎて、途中でついていけないほどに壮大だった。
監督の頭の中は宇宙なのかもしれないな。
扉の向こうは宇宙だったし。
ほらもう深夜テンション。
誰が読むんだこんなもん。
自由に書けることは素晴らしいけど、自由過ぎるのは何でもありの無法地帯とも言える。
こんなもん許しちゃいけないのかもな。
そうでもないと、ミミズが暴れ出すよ、きっと。
なんかそろそろ厳しくなってきた。
最後に少しでもまともなことを言おうとするなら、人間がその手を使って生み出すモノは、無限大でまるで宇宙規模、ってことなのかな。
文化とかアートとか。
でも、そんな当たり前じゃ面白いもんは書けない気がして。
結果、訳の分からんもんが出来上がってしまう。
んー、ついさっき、そんな作品を観たような気もするが…気のせいかな。
「風が吹けば桶屋が儲かる」
風が吹く
→木々が揺れる
→銀杏の実が落ちる
→辺りが臭くなる
→犬の糞尿放置だと騒がれる
→愛犬家が攻撃を受ける
→愛犬家が反撃を行う
→犬も飼い主のために反撃する
→街中に犬の声が響き渡り、猫が警戒して身を潜める
→猫が活躍しないためネズミが増える
→ネズミが増えて桶をかじる
→桶が売れまくって桶屋が儲かる
…違うな。
こんな細い線ではなかった。
まあでも、すべては風のいたずらだ。
単なる風が、バタフライエフェクトのように、世界を変えるかもしれない。
桶屋が儲かったら、桶製造会社の株が上がって、それを利用して資産家になった男が、そのお金を使って世界を牛耳る策略を実行に移すかもしれない。
…薄い線だが。
「風のいたずら」というお題のせいで、一人の男の思考回路がグルグルと回ってる。
そのいたずらを真に受けたら、きっと奇想天外な傑作が生まれるものと信じて。
だが、今宵の風は冷たく、回り続けていた思考回路もいつしか凍りつくように動きを止めて、まあ、あとは雰囲気で押し通すか、てな結論に落ち着いた。
風のいたずらで、今の世界の秩序は保たれているのかもしれない。
ひとたび風向きが変わっただけで、屍人が蘇り、子豚が空を飛び、カビゴンが線路に横たわるかも。
今や、私の頭の中の秩序は崩壊寸前で、論理的な思考回路は稼働停止となった。
風のいたずら、恐るべし。
涙は…透明だよな。
うん、そのまんまだ。
だから、涙について語ればいいのかな。
もうすでに語ったことがあるような気もするが、大人になったら、自分事で涙を流すことはほぼ無くなった。
転んで泣いたり、怯えて泣くことはもう無いし、去年受けた手術だって痛くて怖かったけど、涙を流すなんてことはなかったな。
…まあ、大人なんで当たり前だが。
それでも自分は間違いなく泣き虫だ。
そーゆー映画の予告で泣ける。
で、こんなんじゃ本編を観たらどうなるんだろとか思って観てみると、案外泣けなかったりもするが。
あと、音楽に弱い。
その歌詞がエモいとさらに泣きが加速する。
十数年前、職場の先輩の奥さんが亡くなった。
私は奥さんとの面識はなく、その訃報を聞いても、先輩が大変だろうな、くらいの感想しか持てなかった。
だが数日後、お葬式に参列した上司から、式中に読まれたという先輩から奥さんへのお別れの手紙を見せられた。
当然私は、周りが引くほど泣いた。
皆が働く職場でだ。
そして一昨日のこと、その先輩と話す機会があった。
私はただ単に、当時あの場にいなかった先輩に、
「あの手紙読ませてもらって、感動したんですよ」
と伝えたかっただけなのだが、手紙を読んだ、と伝えたところで、不意にまた涙が込み上げてきて、そこから何も言えなくなってしまった。
50越えたおっさんが、そう何度も職場で号泣するわけにはいかない。
そんな涙もろい自分が、最近一番べらぼうに泣いたのが、数年振りに見た、ケツメイシの「友よ~この先もずっと…」のMV。
こんな想いでこのMVを見ることになるとは思わなかったな、あの頃は。
やっぱり、誰かに永遠に会えなくなることが、何よりも悲しい。
それがたとえ、自分じゃなく他の人にとってのことでも。
だから、透明な涙のように、見えない存在にならないで。
大切な人達よ。