切子グラスの中で氷がカラリと音を立てた。昨夜のうちに食器棚の奥から出しておいたグラスだった。斜めのカットが入ったそれで飲むカルピスは、普段より濃かったのだろう。鼻の奥に残る後味が長いあいだ消えなかった。
一九九九年、七の月。恐怖の大王が地上に降りてくると言われた日。青空をぼんやり見つめる君の瞳を僕は見ていた。 空調の低く唸る部屋で、形の良い指先に傾けられたグラスがやわらかな頬へ光を跳ね返すのを見ていた。
もしも世界が終わるなら、今がいいと願いながら。
『もしも世界が終わるなら』
歩き出すたびに、視界の隅で鮮やかなオレンジ色がぴょこぴょこ跳ねた。君と出会った季節にお揃いに変えた色。
交差点の端で僕はしゃがみ込む。紐に手をかけた時、君の声が届く。
──カラオケでいつも同じ曲歌う先輩がいるんだけどさ、『ほどけた靴紐』が『おどけた靴紐』に聞こえて、毎回笑っちゃうんだよね。
振り向いても誰も居ないことを、僕は知っている。君とはぐれて、どんなに硬く結び直しても紐はなぜかすぐに解けて。そのたびに僕は、どうでもいいことばかり思い出すんだ。
左足の靴紐が解けて、始まった恋だったのにな。
『靴紐』
「だからね、それが条件だなんて話、こちらはしてないんですよ?」
新しい担当だと名乗った男は、うっすら笑みさえ浮かべて繰り返した。
通りに出たところで、小早川課長代理にポンポンと肩を叩かれる。
「腐んなよ? 井口」
ㅤ契約書を入れたクリアファイルをまだ握り締めたままだった。
前任者の提案を吟味して、譲歩と説得を繰り返して、何時間もかけて作った書類だ。昨日もギリギリまで修正を重ねた。今や何の意味も持たない、ただの紙切れになっちまったけど。
「俺も悔しい」
聞こえた呟きに視線を上げる。小早川さんは宙を鋭く睨みつけていた。
「とりあえず、腹ごしらえだな」
すぐにいつもの顔に戻った小早川さんが、そばの店を指す。ちょうど看板を出し終えた洋食屋の店員が「もうご案内出来ますよ。どうぞー?」と朗らかに応じた。途端にデミグラスソースのいい匂いが感じられ、我ながらなんて現金なんだと呆れる。
「……ですね」
頷いた長身の後に続いて店のドアをくぐる。
ㅤ正解なんてまだ見えない。だけどこの人となら、なんとかなると思った。
『答えは、まだ』
造りの古い宿だからだろうか。 食事を終えて部屋に戻ると、隣の部屋から話し声が聞こえてきた。到着したばかりの隣室の客は、どうやら年配の夫婦のようだ。
「急に決めたけど、やっぱり来て良かったね。ごはんも美味しかった」
「ほんとにねえ」
先程の広間で、仲良く手を繋いで現れた彼らが頭をよぎる。妻の手を引いて仲睦まじそうに席まで誘導していた夫。
「ほら、ここは夜間拝観も出来るみたいだよ。これから行ってみる?」
「いいわねえ」
あんな風に歳を取って、一緒にこんな旅館を訪れるつもりだったのにな。どこで間違っちゃったんだろ。ひとりで私、何やってるんだろ。
もう二年くらい前みたいな、つい先月の怒涛の出来事を私は反芻する。いつの間にか話し声は途切れ、ドアを施錠する音が響いた。小さな冷蔵庫を開け、買っておいたビール缶を宙に翳す。
乾杯だ。センチメンタルな旅に。
『センチメンタル・ジャーニー』
もう寝ようかなんて言い合った直後だった。スマホを手に「今夜じゃん、今じゃん」と呟いた君がおもむろに窓辺に寄る。
ㅤ夜更けの月がどちらに出てるかなんて二人とも全く知らなかった。家じゅうの窓から代わる代わる、僕らは空を見上げて回る。
「こっちも違うか」
ㅤ君の離れた窓を遅れて覗き込めば、予想よりも高い位置で丸い月が出迎える。
「あったよ! ほら!」
大きな声を出した僕に、君が慌てて肩をくっつけた。
それはついこないだの皆既月食。
まん丸だった月はいま、細筆でひと撫でしたみたいに儚げな弧を描く。
「月、見える?」
ㅤ笑うとすうっと細くなる君の瞳を思い浮かべて、スマホの向こうに僕は話しかけた。
『君と見上げる月……🌙』