指に合わせて跳ねるリズム。
伏せた睫毛でさえ僕を導く。
何度触れても同じ響きはなく、
変わらず僕をドキドキさせる。
それはたぶん、君だけのメロディ。
『君だけのメロディ』
ㅤ約束なんかしなくても、朝になれば難なく君に会えた。喧嘩した日は気まずさをなだめて、推理小説を読みふける横顔を盗み見た。
ㅤそれは幸運に他ならなかったのに。噛み締めることもせず。なんの進歩もせずに、ただページをめくってた。決して自分の登場しないドラマを。
ㅤ傍観者の顔で唇を噛んで、呑み込んできたことばかり。
けれど、そんなものは全てが付け足しみたいなものだった。
ㅤ今こそ伝えたい。伝えなきゃいけない。一番大切な言葉は——
『I love』
隣室から凛子のギャッと叫ぶ声が聞こえた。怪我でもしたかGが出たかと、私は勇者の足取りでリビングに駆け込む。
「降ってきちゃった! ごめん、手伝って!」
ベランダから呼ばれ、バケツリレーの要領でしばらく洗濯物を受けとる。すべて取り込み終えると、「今日降るなんて言ってなかったのにい」と唇を尖らせた凛子が、シャツの袖をパタパタ払って窓を閉めた。
「すぐ呼んでくれて良かったのに」
「今週はあたしが洗濯当番だし、つかさ、会議中かと思って」
「え、凛子こそ、明けじゃなかった?」
「そーだけど。夜勤の翌日は休みだからあんま寝すぎてもね」
取り込んだピンチハンガーをカーテンレールに掛けて、凛子が外を眺める。
「こうやって部屋の中から音聞いてる分には悪くないんだけどねえ、雨」
「出かける予定はないんだし。好きなだけ包まれなよ、雨音」
「そーしよっかなあ」
キッチンに入った私は、凛子にケトルをかざす。
「ついでに一休みするよ。珈琲飲む?」
文庫本を開きかけた凛子がソファから子供みたいな顔で振り向いて、「のむー! ありがと!」と笑った。
『雨音に包まれて』
ㅤ寝返りの気配に目を開けた。こちらを向いたきみは、目を閉じたまま身体を震わせる。
ㅤずれた毛布を整えて、鼻先に頬を寄せた。まだ少し濡れる睫毛。
ㅤさっき無意識に呼んだ名前を、密やかに呟いた。幸せな響きに唇が緩む。
ㅤうっすら届く月明かりもやわらかな寝息も、白い肌で上下する淡く散った紅色も。
ㅤ隣にきみがいる。それは美しい夜。
『美しい』
ㅤいつの間にか、この世界は豆腐の国だ。
ㅤちょっと冗談を言っただけで、ハラスメントだと非難される。飲みに誘えば昭和だと蔑まれる。昭和のどこが悪いんだ。どいつもこいつも脆く淡くまとまりやがって。
「お先に失礼しまーす」
新卒二年目の瀧田が自席から立ち上がり、こちらを見ずに歩き去って行った。タイパだかボイパだか知らんが、毎日判を押したように定時プラス三分で帰ってしまう。おまえはロボットか!
「北原、ちょっといいか?」
ㅤ課長代理に声を掛けたら、露骨に嫌な顔をされた。
「小川さん、こないだのコンプラ研修聞いてなかったんですか?」
「なんだよ。役職じゃなくて今はちゃんと名前で呼んだだろ」
「呼び捨てもダメなんですって。性別年齢問わず『さん』を付けないと。うちの課全体が人事に目を付けられるんですから」
ㅤ北原は、こういうのって若い奴からは言いづらいんでこの際ですけど、と前置きしてまくし立てる。
ㅤちょっといいかはパワハラの常套句だ、瀧田さんが挨拶したのにひとりだけ挨拶を返さなかったのはハラスメントの始まりだ、ワークライフバランス定着のためにも管理職こそ率先して定時前に帰るべきだ。云々かんぬん。
「小川さん?ㅤ聞いてますか?」
ㅤ嗚呼、全く息苦しい。どうしてこの世界は……!
『どうしてこの世界は』