生きてる間に出会える相手なんて、ほんのひと握りなのに。そのうちのひとりに過ぎない相手にここまで振り回されて、馬鹿みたい。
目を閉じていても、髪に近づく気配がわかる。想像以上の優しさで、頭をそっと撫でられる。
もしも過去へと行けるなら、あんたなんかやめとけって、絶対自分に言うんだから。
髪を撫でる手が困ったように一瞬止まり、それからそっと頬を拭った。
『もしも過去へと行けるなら』
「こんなの、本当の恋じゃないよ。
着心地がいい、シルエットがきれい、色味がシックで落ち着いてるなんて、その気にさせる言葉と一緒に並べられた洋服みたい。
身につけた自分を想像して、勝手に四割増くらいでかっこよくしちゃってさ。
帰って着てみたらこれっぽっちも似合ってないのに。
こんな服、全然欲しくなんて無かったって気付くのに。
ずっと易いほうに流されてくんですか?
忘れ去られて放っておかれる服の気も知らないで。
「本当かどうかって、そんなに重要なのかな?
服とか全く詳しくないけど、その人に似合うかどうかなんて、その場の試着だけじゃよく測れないだろ。
それにそんなこと、誰かに決められるもんじゃない。
心地いいかどうかは、たぶん未来の自分だけが知ってる。
俺は、最善だと思う方を選びつづけることしか出来ないから。
そっちこそ、難しく考えすぎんなよ。
拒まれてなお強く引かれた手首は、それ以上抵抗することなく相手の胸に収まった。
『True Love』
「じゃあ、またいつか」
そう言って君は右手を高くあげた。
「また明日(もしくは月曜日)」
なんて言い合ってきた道の角で。
へえ。そんな風に簡単に手を振れちゃうんだ。いや、分かってたけどさ。
振り返す代わりに、私の手はリュックの紐をぎゅっと握った。憎たらしい背中に、えいやと体当たりする。不意打ちを食らった君が、大袈裟によろめいて見せた。
口から心臓が飛び出しそうで、私は唇を強く結んだ。
さっきの「いつか」を「明日」に変えてやるんだから。「またいつか」なんて言わせないから。絶対に。
息を大きく吸い込んで、私は「あのさ」と切り出した。はずだった。
『またいつか』
めぼしい衣類を詰め終えて立ち上がったら、脇に重ねられた本が雪崩た。僕はまたため息をつく。
「ゆっくん、また!ㅤ幸せ逃げるよ?」
とたしなめる笑い声が聞こえる気がした。
崩れた本たちを、適当に積み直す。『ハイデガー入門』に『空の名前』、そのそばには『スプートニクの恋人』。『地球の歩き方』やファッション雑誌もあった。なにかの基準で積んだのかもしれないが、多彩すぎて分からない。
雑誌には見覚えがあった。しわくちゃになった表紙を指先で伸ばす。初詣の帰り道、立ち寄った本屋で君が買った『今年の星占い特集』だ。
思わずページを繰ってみる。うお座の健康運を斜め読みしたけど、期待した未来は書かれていなかった。食べ物に気を使えとか睡眠を大切にしろとか、んなもん全部あいつは守ってんだ。
めげずに自分の星座を見た。紙面は、労いの言葉で溢れていた。これまでの努力がとてもいい形で報われます、と。必ずしも現状を知って書かれた言葉ではないはずなのに、鼻の奥がつんとした。
もしかして、良い運気をもたらす星を僕は追いかけていられたのだろうか。
派手な表紙のその雑誌を、着替えの詰まった紙袋に僕はそっと滑り込ませた。不思議なほどすっと心に入ってきた運気を、なんとしても君と分け合うと決めて。
『星を追いかけて』
喉の乾きを覚えて目を開けた。
カーテンに区切られた空の端で
雲がすごい速さで流されて行く。
グラスを手に蛇口をひねる。
こうして飲んでしまうから
いつまで経っても涙が枯れない。
溢れた水が生温く指を濡らす。
今を生きるなんて、出来そうもない。
『今を生きる』