眠れずに朝を迎えるなんて何年ぶりだろう。
窓を開けたら意外と風があって、部屋のカーテンをゆらりと動かした。
寄せて返すようにひるがえるそれを、あの時も眺めていた。
なんかキモイ。
そんな言葉で延々なじられた放課後。
理由なんて多分どうでもよかった。
目の端で教室のカーテンが、波のようになびいて。
美しいなと感じた瞬間、聞いてんのかと殴られた。
いっそ、たなびく青いカーテンの海に潜り込めたら良かった。
波のような穏やかさに沈めば、静かに消えていけたかもしれない。
現実の僕は消えずに、ただ今が通り過ぎるのを待った。
震える手を握りしめて。
子供みたいで融通がきかないのを、青いなんて言うけれど。
もっともっと容赦なく僕は青いままでいたかった。
自分の鈍感さに気づかないほど、青く深く潜りたかった。
『青く深く』『カーテン』
ㅤ夏の味、夏薫る、夏仕込み。
ㅤ呟いた僕に隣から「なにそれ」と笑いが返る。
「夏の気配を感じるなあって」
スーパー入口の野菜コーナーにまで積まれたビールを、僕は指した。
「なんかさ、昔よりかなり夏推しじゃない?ㅤ前は秋の方がこんな感じじゃなかった?」
「あんま飲まないからわかんないなあ」
ㅤ特売のブロッコリーを見比べながら、君。
「お、これなんか新しいよ。ナツノオモイデ」
ㅤ海と山ととうもろこし。花火。割り箸の刺さったなすび。風鈴に流しそうめん。様々なイラストが、側面いっぱいに描かれている。
「夏、まだ始まったばっかなのに」
ㅤこんな思い出をたくさん、この夏の君と共有出来ますように。
「じゃ、行っときますか、まだ見ぬ世界へ!」
ㅤヘラヘラ笑って、僕は夏を手に取った。
『まだ見ぬ世界へ!』『夏の気配』
ㅤここ数年あなたに電話をすると、
「元気なんな?」
「ほんなら良かった」
ㅤでほぼ終わるようになっていた。
ㅤ敬老の日だからとか誕生日だからとか、気温が今季最高だ最低だとか。いろんな理由をつけて電話したのは、穏やかなあなたの声が好きだったからなんだと今更気がついた。
ㅤ二言目には母が言う「帰っておいで」を、あなたは決して言わなかった。ただ元気でいるのかどうか、それだけをいつも気にしてくれた。
「ねえ、おじいちゃんとの最後の会話って、覚えてる?」
ㅤワンピースとスーツで黒く装った姉と妹に聞いてみる。
「えー、電話やと思うけどなあ。1ヶ月くらい前……かなあ。なに話したやろ。元気か?ㅤっていつも訊かれるくらいで」
「私も、そんな感じ」
ㅤなんで?ㅤと姉。
「そうやんなあ。最後の声がどんなやったかって、案外思い出せんもんやなあと思って」
ㅤ私の言葉に、「そうやなあ」と二人がハモり、私たちは、多分この場にそぐわないほど派手に笑い合った。
「会うた時も、『写真撮ろう』って言うと笑顔が消えたんはよう覚えてる」
「そうそう。拳をぐっと握り締めたり」
「魂抜けるって思ってたんかなあ」
ㅤおじいちゃんは雨男だった。でもいま空はこんなにも晴れている。細く長い煙が、青い明るさに吸い込まれてく。
ㅤ私たちはほとんど同時に空を見上げた。それは後から後から立ち上ってなかなか尽きなかった。私たちの持つあなたとの思い出のように。
『空はこんなにも』『最後の声』
ㅤ料理が苦手な君の晩御飯は曜日替わりみたいで。木曜日は大抵麻婆豆腐の出番だった。レトルトの味でさえ毎回微妙に加減が違うのは、もはや才能かもしれない。
ㅤもやしでかさ増しされた隙間に、今日はオレンジ色のハートがひとつ。
「あ、見つけてくれた?」
ㅤ嬉しそうな笑顔がお茶のコップとともに目の前に座る。
ㅤいびつな形の人参はとても小さいけど、果てない手間の詰まった愛だね。
『小さな愛』
ㅤ子供の頃の夢は?ㅤと訊かれたら、多分野球選手なんだろう。
ㅤ近所のクラブチームに入った頃は、必ず叶えられると根拠もなく信じられた。
けれどすぐに、自分はそういう方の部類には入らないんだろうなと分かった。
ㅤあいつは練習ばっかしてて、僕よりどんどん上手くなった。それでも練習ばっかしてた。
ㅤ高校ではもう辞めるよって僕は言った。
ㅤあいつは引き留めなかった。
「辞めたいなら辞めれば?
試合は負けたら意味ないもんね」
ㅤこっちを見ずに帽子をいじった。
ㅤそんなこと言ってたあいつの方が、遠いところに行ってしまうなんて。
ㅤなあ、やっぱり辞めるの辞めたから。
ㅤまた一緒に野球やろうぜ?
ㅤどこにも、行かないでくれよ。
『どこにも行かないで』『子供の頃の夢』