髪ゴム、イヤホン、パスケース。
なぜかみんな出かける直前に姿を消すの。
片足だけ靴をつっかけて
ポケットから小銭が散らばり
玄関先の時間がこぼれる。
駆けてくる君を迎えうつ私に
いつかなりたいと焦がれながら、
雨の日晴れの日曇りの日。
遅れた雑踏に君を探して。
『君を探して』
ㅤ営業終了まで三十分を切った入口フロアには、私たちのほかに誰もいなかった。直通エレベーターに乗り込んでひとつしかない行先ボタンを押すと、二人並んで一番奥のガラス窓前を陣取る。
ㅤこの辺に住んでいればここは定番のお出かけスポットで、友だちや家族とも何度も乗っているエレベーターだ。なのに、ダウンライトに照らされた今夜は、なんだかやけによそよそしい。
ㅤエレベーターは野球のホームベースに似た形をしていて、目の前のガラス窓は真ん中に向かって外に尖っている。これから向かう展望室よりも、むしろ美しい景色だと言われていた。
ㅤ扉が閉まり、エレベーターが上昇し始める。彼女はまっすぐ外を見ていた。口許を結んで、透明な壁に手を添えて。
ㅤ街の明かりが煌めいて、星空との境目に溶ける。この箱に包まれて、透明なトンネルをどこまでも飛んでいる錯覚に陥る。私をチラリと見た彼女が「きれいだね」と呟いた。心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと心配になる。
ㅤ唾を一度飲み込んで、ガラスに同じように手を添えた。「ね。きれいだね」と返す言葉が笑いそうなほど震えてしまう。ドキドキがまたうるさくなる。
ㅤ透明な箱は、夜空のてっべんへと昇ってゆく。私の指があなたに触れる。
『透明』
ㅤ小さな頃から、女であるってことに馴染まなかった。
ㅤ馴染まない、というのはちょっと違う気もする。しっくりこないというか、自分をそこに収めることに引っ掛かりを覚えるというか。そんな感じ。
ㅤ別に年がら年中そんなことを考えてた訳じゃない。性別欄に「男・女・ノンバイナリー」とあったら、悩むことなく「女」を丸で囲んでいたし。性別ってこの世に三つしかないのかなぁ、と思いながらも、この疑問を誰かと話したりすることはなかった。
ㅤ好きだなと思う人とは何も生まれないまま、好きだと言ってくれる相手と付き合ってみた。そうするうちに、否応なく役割がついた。
ㅤ「私」でいられる時期は終わったんだと思った。胎内に宿った生命は、そのくらい私の日常を苛んだから。私ではない、けれど私なしでは生きられない生命。それなのに、初めてこの手に抱いた朝は、ふしぎなほど心が凪いだ。
ㅤはじまりは、漢字では「始まり」としか書かないらしい。でも私は、いまの私たちを、敢えて「初まり」と呼びたい。
#050『終わり、また初まる、』
ㅤマンションの一階に降りて玄関ドアを開けた瞬間、私たちはハモった。
「「「さむっ!」」」
ㅤ「さむ~さむ~」と語尾を伸ばして、弟が駐車場のほうにぴょんぴょん駆けていく。ニット帽の先に付いた丸い飾りが、弟と一緒にぴょんぴょん跳ねた。
「こんなもん、ネットからテキトーにコピペすればいいって~。戻ろうよ~。お母さん風邪引いたら大変でしょ?」
ㅤ実際に星座を観察してまとめろなんて、なんとアナログな教師なのかと思う。母を付き合わせるつもりなんて無かったのだが、オリオン座について調べるうちにパソコンを占有してしまっていてバレたのだ。
ㅤわざとらしく奥歯をカタカタ鳴らして母に抗議してみたけど、
「何言ってんの、真面目にやんなきゃ。ほら、もっと見やすいとこ行くよ」
ㅤ母は意外なほどしっかりとした足取りで弟の後を歩いていく。私は文句を引っ込めてついて行った。母がとても、楽しそうだったので。
「気温も書くんだよね?ㅤえーと……二度か」
「に……」
ㅤ母の発した数字のあまりの低さに私は絶句する。どうりで寒いわけだ。
「ほんと大丈夫?ㅤ体調とか」
「そんなことよりメモ取んなさいよ」
「……あとで」
ㅤ紙とペンは持ってきたけど、ポケットから手を出すのがもはや嫌すぎる。
「あっ!ㅤあった!ㅤみっつならんだ星!」
ㅤ弟が指差す。教科書通りの三つ星に、周りを囲む四つの星。「オリオン座ー!」と嬉しげに叫ぶ弟に、母と私は「「しーっ!」」とハモる。
ㅤこうなったらさっさと見つけて終わらせてしまおう。
「えーっと、赤いのがペテルギウスで、青白いのが、リゲル。で、三つ星の線を、南東に伸ばして……あ、シリウスいた」
ㅤ指示された通りに頭の中で星を繋いでいると、母がしみじみと呟いた。
「こんなに星が見えたんだねえ。ちっとも気づかなかった」
ㅤ途端に、私の目に星々がぐわんと飛び込んでくる。
「わっ、ほんとだ……!」
「え、いま気づいたの?ㅤずっと見てたじゃない」
「いや、星ってさ、じっと見てると闇に溶けてく感じしない?」
「ああ……そうかもねぇ」
ㅤそう言えば先生が言っていた。オリオン座でいちばん明るいペテルギウスは六四〇光年離れてるから、いま見てる光は六四〇年前のものなんだって。
ㅤそう説明すると、母は白い息を吐きながら「あんたからそんな話聞けるなんて、なんだかロマンチックね」と笑った。
「あんたと渉が、私の星みたいなもんだから」
ㅤ母がそう言ったとき、私は何の脈絡もなく、大人になって母を思い出すのはたぶんこの顔なんじゃないかと思っていた。
『星』
ㅤ夕方。台所の流しを掃除しました。シンク周りの水気を拭いて、無心にステンレスを磨きました。すっかりきれいになった後、冷たい水を流しました。お湯より水のほうがカビになりにくいと聞いたので、指先がピリピリしたけど我慢しました。見えなかった汚れが排水溝の奥から逆流したのか、少しだけ浮いてきました。水を当てれば当てるほど、ヘドロのような塊は細かに千切れ、シンクをくるりと回るだけ。水の容易に届かない隅にしばらく留まって、なかなか流れ去ってはくれませんでした。
ㅤそんなふうにこびりついたものが私の心のなかにもあるのかもしれません。未練。後悔。或いは愛情の成れの果て。激しく捻れ淀む何かが。
ㅤ願いが1つ叶うならば、どうか誰の目にも触れぬまま。どこへなりと流れてゆきますように。
『願いが1つ叶うならば』