ㅤ晴れた日の洗濯の歌。ベランダの花に水やる歌。パスタを美味しく茹でる歌。何をするにも君は大抵変な歌を歌っていた。
「あんまり家事が得意じゃないから。せめて楽しくやりたいなって」
ㅤあの日うたた寝した僕は、微かな歌声で目を覚ました。手元を見たままで、君が「おはよ」と笑う。
「夢の中にも聞こえた?ㅤ疲れたあなたに林檎を剥く歌」
ㅤ持ってきたお見舞いの林檎は、小さなウサギになっていた。僕は無言で口を開ける。君の手から生まれたいびつなそれが、前歯の先でサクリと崩れる。
ㅤ君の前に林檎をまたひとつ。手を合わせ目を閉じたら、君より上手にウサギを剥こう。ややうろ覚えな変な歌を歌いながら。
『歌』
ㅤ頬にポツリと水滴を感じ、僕は時刻を確かめる。今朝の天気予報では、昼から降り出すと言っていたのに、時計の針は四時を過ぎたところだった。
「予想より、ずいぶん持ったなあ」
ㅤ思ったことが声に出て、ようやくその場から歩き出せた。一歩一歩遠ざかる。じゃあねと言って君が背を向けた場所。今日以降はきっと、近づけなくなる場所。
ㅤ君は言葉少なで、しきりに空を気にしていた。隣を歩く僕は過去なのだと、言われているみたいだった。灰色の混じった白い雲に向かって小さくなっていった君。
ㅤ降る雨はいつか止むけど、僕の空が晴れることはない。共に過ごした僅かな空の眩しさを、心の奥にそっと包み込んで。もう二度とこの想いがひらいてしまわないように僕は願った。
『そっと包み込んで』
ㅤ別に変わらなきゃいけないとか、変わってほしいとか言いたい訳じゃない、とあなたは言った。ただ違いに気づいて、視野を広げて、そんな考えもあるんだと思ってくれたらいいんだって。
ㅤでもそれは、やはり詭弁だった。
ㅤ私があの時、自分を曲げられていれば済んだ話なのだ。下らないことにしがみついてないで、あなたを最優先にして。つべこべ言わず迷いも持たず、昨日と違う私になれれば。
ㅤあなたが手を離すことはなかった。
『昨日と違う私』
ㅤ脛に鋭い痛みを感じ、文字通り飛び起きた。あまりの痛みに声も出ない。
「渡るぞ!」
ㅤ窓の外に目をやったまま、祐希はチョコレートバーをかじっている。硬いベッドに車輪の振動が伝わってなかなか寝付けなかったはずが、いつの間にかしっかり眠れていたらしい。
ㅤ漂う甘い匂いに空腹を感じた。上着を羽織ってから、東京駅で買った同じものをリュックから探る。
「見られましたか? disconnection」
「もちろん!」
ㅤ満足そうな笑顔が親指を立てる。岡山での連結切り離しは絶対見逃せないイベントだ、と熱弁していたのだ。昨夜はほとんど眠っていないだろう。
「6時過ぎからあんなにアナウンス入ってたのに、全然起きねえんだもんな」
ㅤもったいねーの。
ㅤチョコレートの残りを口に押し込んでスポドリで流し込むと、祐希は大きな窓に手をついた。
ㅤ師走の街がぐんぐん明るくなっていく。目の前に迫った橋桁が勢い良く後ろへ流れる。窓に触れた指先が白くなった。寝台列車が海を渡る。
「きたー!ㅤ瀬戸内海ー!」
「Sunriseで見るSunriseですね~!」
「発音良すぎてムカつくー!」
『Sunrise』
ㅤ会場に着いた時には曇の目立っていた空は、憎らしいくらい晴れ渡っていた。
「ではここで、バルーンリリースを行いたいと思います」
ㅤ司会者のにこやかな声が手順を説明するなか、参加者に色とりどりの風船が配られた。どうぞ、と慇懃に押し付けられた黄色の風船を私は睨む。よりによって、黄色。
ㅤ大階段を降り切った二人には、ピンクのハートが手渡されていた。ひとつの風船のひもを、重なった手が大事そうに握っている。
「皆さま、ご準備はよろしいでしょうか。お二人の幸せが天まで届きますようにと願いを込めて。3、2、1でバルーンのリリースをお願いいたします」
ㅤ掛け声と共に、無数のバルーンがふわりと浮き上がる。拍手とシャッターの音が渦巻く。数秒遅れて、私は手を離した。
ㅤ最後までポツリと離れたまま、空に溶ける黄色を見送る。幸せを願い損ねた私の心そのものみたいだと思いながら。
『空に溶ける』