座席に座ると、隣から煙草の匂いがした。君の投げた最後の言葉か胸の奥でまた響く。
大丈夫?
って言われて、一瞬なんのことか分からなかった。私を心配してるのかもとか、自分で自分を納得させてるのかもとかあれこれと考えてみた。
一度同じ言葉を言われ、私は考えるのを諦めた。こんな温度で訊かれては、「大丈夫だよ!」と返すしかない。
見返りを求めないはずの君に、私は明るく言質を与えた。
君らしい優しさは、街へ持ってかれてしまったんだね。
『優しさ』『街へ』
地を這う低音に白旗を上げ、座席を降りた。しばし立ち止まって音の出どころを探ってはみたものの、等間隔に並ぶ毛布の群れのどこからそれが響くのか特定はできなかった。もちろん、特定できたところで他人が起こすわけにもいかず対処法はない。
トイレを済ませ、ベンダーコーナーを兼ねる階段脇の窓を覗く。切れ間なく続くオレンジ色の街灯が次から次へと近づいては遠ざかっていく。後ろへと過ぎるだけで戻れない時間の中を、バスはひた走る。
気づけばいびきの音が止んでいる。東京まであと五時間。自席に戻ってヘッドホンの音量を下げると、夜の真ん中でまた毛布に潜り込んだ。
『ミッドナイト』
思いつくままに説明を終えて息を吐く。時系列も出来事も細部はかなりあやふやで、ああこんなにも覚えてなかったんだって初めて気づいた。
部屋のなかがやけにしんと感じられた。空調の低音がぶうんと唸って止まる。
「お話、ありがとうございました」
白衣の襟をいじって、目の前の男は眼鏡を押し上げる。
「思ったのは、この人、すごくキツそうだなって」
あなたもどこかで分かったから、今日ここに来てくださったんですよね?
その瞬間、私は崩壊した。
「終わりが見えなくて、きっと不安でしたよね。でも、不安がないことには、何をすれば安心なのかも分からないですから」
まだなにも解決してないのに。引くぐらい泣きながら、同時に不思議な安心で心が満たされていくのが私にははっきりわかった。
『安心と不安』
撮ったばかりの画面のなかで、金色にたなびく穂が彼女の向こうに陽を受けて輝いていた。逆光だと変に目を合わせすぎずに被写体に向き合える気がする。
「今みたいな景色ってさ」
空を見上げ髪を押さえて君が言う。
「朝がくるのか夜になるのかわかんないね」
いつのまにか夜の紺が色を深め、昼の名残の桃色が彼女の指の先で境目を溶け合わせている。
「好きなんだよなあ」
輪郭を際立たせた幻想的な写真から目を上げる。街灯がパッと点いて逆光ではない世界で君と目が合う。
『逆光』
夢の中で僕らはひっそりと抱きしめ合っていた。
互いをこれ以上壊さないように
互いにこれ以上苦しくならないように。
ぎゅっとすればするほど
あなたがいなくなりそうで。
桃色に染まる空を見ながら
細い身体をただ抱きしめていた。
あんなふうに怒ったのは
つい期待してしまったから。
あそこまで詰ったのは
自分の延長みたいにいてほしかったから。
目が覚めたいま
こんなにも切ないのは
果てしなく広い宇宙で
あなただけだと思い込んでしまったから。
『こんな夢を見た』