初めて言葉を交わした夜。
星座の名前を教える声は、いつも途中から濁ってしまう。光年の過去から兆す光が、並んで見上げた月が、ただ神々しい。
朝日の下でも淡い日差しでも、並んで歩く横顔が綺麗で。
この世のなにもかも、君だけを照らす気がした。
あの笑顔にだけは、その瞬間にだけは、嘘はなかったと信じたいけど。
僕はあの日から動けない。
思い出したいことがある。
思い出せないことがある。
『空白』
二人乗りの自転車で土手を走った夏だった。
ハンドルを握るのはなぜかいつも君の方で。
台風が過ぎ去って夏が終わると思ったのに、
めちゃ夏の匂いだねと、あの日君は笑った。
目に映る景色はすっかり変わっているけど、
君を思って見上げる空が今も僕にはあるよ。
『台風が過ぎ去って』
話の輪の中に入っていても、いつもどこかひとりきりみたいな感覚が抜けませんでした。
努力が足りないのかな。なにかみんなと違うようだけど、それは一体何なのだろう。そんなことをずっと考えつづけています。だから何をするのにもひどく時間がかかるんだと思います。人と会うのは誰であれとても疲れてしまって。帰ると二時間くらい動けなくなったりするんです。
毎日が後出しじゃんけんみたい。敗けることは初めから確定してて。そんな無理ゲー意味わかんない。先に言っておいてよと思う。勝てるわけないじゃんか。何を出すべきだったのかすら、教えてくれる人はなくて。私が間違っているってことだけが、分かるだけなんです。
努力しますから、と私は言いました。努力してるの伝わるよ、と上司は言いました。でも私たちは努力が必要のない人を選びたいんだよね、と。それで終わりでした。
ㅤひとりきりは気楽で安心で、明るい哀しさを感じます。大丈夫ひとりじゃないよ、って言われることが恐ろしかった。でも私はここへ来て初めて、ひとりきりではなくなったのかもしれません。
『ひとりきり』
ㅤ小学生の頃、図工の時間に校庭で写生をした。曇り空の広がる天候を僕はつまらないと思って、なぜか空を緑色に塗った。クラスメイトも担任教師も、不思議そうに苦笑いした。
紅い空、蒼い空は普通にあるけど、碧の空なんておかしいよ。
「なあに? 思い出し笑い?」
隣の妻がふふふと笑う。その頭上にたなびく、美しい光のカーテン。
「まあね。おかしな空の色のことを」
そう答えて、僕は彼女の手を取った。
天に近い部分から、赤、緑、青と揺らめく極光。
僕らの見上げる宙は、こんなにも色とりどりだ。
『Red,Green,Blue』
ㅤキリの良いところでようやく手を止めた。窓の外を見やれば、日差しが随分傾いている。壁の時計は五時近かった。ついさっき遅めのランチを食べたばかりなのに。
ㅤ立ち上がり、洗いカゴに伏せたマグカップをステンレスの上でくるりと返す。百均のドリッパーにペーパーフィルターをセットしながら、ふとあなたの顔が浮かんだ。ああ、そうかと私は思った。
ㅤ気づけば六時間。パソコンに集中していたことになる。動けなくなるほどに深い昨夜の不安は、無くなった訳じゃないけど、少しだけ遠ざかって私を見ている気がした。何も言えずにいる私に、ずっと付き合ってくれたあなたの短い言葉。
ㅤあなたと話した後には特に、ちゃんと大切なものだけが残っていく感じがする。必要で大切な濃くて美味しいものだけがゆるゆると濾されていく。
ㅤコーヒー滓が歪な円を描いて張り付く使い終わったフィルターを眺めながら、私は薄く笑った。
『フィルター』