未知亜

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「だからね、それが条件だなんて話、こちらはしてないんですよ?」
 新しい担当だと名乗った男は、うっすら笑みさえ浮かべて繰り返した。

 通りに出たところで、小早川課長代理にポンポンと肩を叩かれる。
「腐んなよ? 井口」
ㅤ契約書を入れたクリアファイルをまだ握り締めたままだった。
 前任者の提案を吟味して、譲歩と説得を繰り返して、何時間もかけて作った書類だ。昨日もギリギリまで修正を重ねた。今や何の意味も持たない、ただの紙切れになっちまったけど。
「俺も悔しい」
 聞こえた呟きに視線を上げる。小早川さんは宙を鋭く睨みつけていた。
「とりあえず、腹ごしらえだな」
 すぐにいつもの顔に戻った小早川さんが、そばの店を指す。ちょうど看板を出し終えた洋食屋の店員が「もうご案内出来ますよ。どうぞー?」と朗らかに応じた。途端にデミグラスソースのいい匂いが感じられ、我ながらなんて現金なんだと呆れる。
「……ですね」
 頷いた長身の後に続いて店のドアをくぐる。
ㅤ正解なんてまだ見えない。だけどこの人となら、なんとかなると思った。

『答えは、まだ』

9/16/2025, 12:43:19 PM