未知亜

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8/7/2025, 4:54:26 AM

じゃあここで、と君が立ち止まる。
「あさってね」とか「また来週ね」とか、いつも手を振り合う場所で。
続く言葉が切り出せなくて。
次に会う時を決めてから別れていたんだと初めて気づいた。

風のやんだ駅前で上げかけた手を止めて、君がこちらを振り仰ぐ。
「またね」
ぎこちなく振られた指先は、あまりにも綺麗で。

縁が巡れば会えるといいねなんて、甘い意味では決してなく。
これきりにしようという合図だと、不思議なくらい分かったんだ。
どうしようもなく鈍すぎた僕にも。

『またね』

8/6/2025, 9:41:04 AM

愛する人の声を聞き、
愛する人の手に触れて、
愛する人の生きる世界で、
わずかな時をともに過ごした。

泡になりたいわけじゃない。
命を差し出したつもりもない。
好きな気持ちを消せなかっただけ。

静かな海にこぽりと浮かびあがる小さな泡に、足を患った美しい少女の面影を彼は思い出す。寄り添う妻の腰を、抱いた瞳で。

『泡になりたい』

8/5/2025, 8:30:25 AM

最初に声をかけてきたのはあなただった。
そこだけすっと光が差した。
綺麗な花が咲き乱れ、世界を春風が吹き抜けた。

過ごす時間が増えるほど、いつしか僕は自惚れていた。
自分があなたに選ばれたのだと。

酷いよずっと本音は隠して、
いまさら苦しかったなんて。

独り寝に耐えるベッドはまるで熱帯夜の再来。
夜更けになっても朝日が差しても、下がる気配のない温度に焼かれて。
終わらぬ夏の堂々巡りに、成す術もなく身を焦がす。



『ただいま、夏』

8/4/2025, 6:58:52 AM

ユラユラとのぼっては消えていく泡の向こうで、君は黙っている。
氷はもうほとんど溶けてしまった。

いつも君のすることが、僕のしたかったことだと思わせられる恋だった。

ソーダ水を注文する声に
同じものを
と重ねると、
真似しないでよ
と君は小さく笑った。

同じタイミングで運ばれた同じ分量の炭酸は、今日も君の方がずっと早く飲み終わってしまう。

窓の外を眺めたまま、君が黙っている。

『ぬるい炭酸と無口な君』

8/3/2025, 3:24:46 AM

画面の上からと下からそれぞれ二回ずつスクロールし、念の為もう一度更新ボタンを押してから、僕は端末を投げ出した。今回も自分の名前はどこにもない。
ベッドに仰向けになると、溜息が出た。これだけずっと落ち続ければ少しは切り替えも上手くなりそうなものなのに、毎回新鮮に地の果てまで落ち込む。

落ち込んでも仕方ない。
書いた文章が、この賞には評価されなかったというだけのことだ。
生き方を否定されたわけでも、人格を攻撃さらるたわけでもない。めげずにまた次を書くだけだ。
でもなあ、今度のは、かなり自信あったんだよなあ……。

スマホから通知音がした。
のろのろと画面をに目をやる。
気分転換に短編を投稿しているサイトにいいねが押されたらしい。
半年ほど前に書いた文章を斜め読みして、SNSを覗いた。通知一覧にメンションが届いていた。

『遅ればせながら読みました。すぐなの惹き込まれて一気に読みでした。主人公も良かったけど、ヒロインに感情移入しすぎて最後少し泣いてしまいました。遅い感想ですみませんが、また読ませてくださると嬉しいです』

コメント投稿は3ヶ月前だった。
フォロワーでも面識があるわけでもない人だから、普段から小説を読むのが好きで、ふと目に止めてくれたのだろう。

波しぶきのような淡い緑のアイコンを見つめていると、小瓶に入れ波にさらわれた手紙が、僕の岸辺に届いたような温かな気持ちが込み上げてきた。

起き上がってパソコンを立ち上げた。次作の構想なら実は山ほどある。この世はまだまだ書いてみたいものだらけなのだ。
そうだ、前回サブエピソード扱いにしたモブ視点で、別の話を組み上げても面白いかもしれない。だとすると、医療関係の下調べが必要か。いや、待て待て。

頭の中であれやこれやと勝手に湧き立つ考えを一旦なだめる。その前にまずはお礼だ。波しぶきの下の返信ボタンを、神聖な気持ちで僕はタップした。


『波にさらわれた手紙』

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