蝉の声をミンミンと最初に形容したのは誰なんだろう。
急な坂を登りながら、そんなどうでもいいことを僕は考えた。
頭を空っぽにしてしまうと耐えられないほどの暑さだ。
夏生まれの君と蝉の声の話をしたのは、まだ肌寒い頃だった。
ミンミンなんて、聞こえないよね?
と言った僕に、
そうかも。
と同意してくれた君。
ジージーとかシュワシュワじゃないのかなあ。種類によるんだろうけど。
シャンシャンとかシヌシヌって聞こえる時もない?
え? そうなの?
夏になったら検証しなくちゃ!
僕の言葉に笑った君の耳元で、髪が一筋風に揺らいだ。
耳につく8月の蝉の大合唱。
やっぱりジージーとシュワシュワとしか、僕には聞こえない。
高台に立つ僕を、あの日のようなぬるい風が吹き過ぎていった。
『8月、君に会いたい』
僕にとってこの世界はとても眩しいものだった。
室内の蛍光灯。直射日光。パソコンの画面。車のヘッドライト。
酷い時は頭痛がしたり、勝手に涙が出てきたり。
光過敏と呼ぶのだと知った。
普段使いが許可されると、サングラスはとても便利だった。
光刺激だけでなく、こちらの視線も遮ってくれるのだ。
お陰で周りをじっくり観察できた。
隣のデスクのきみのことも。
画面を真剣に見つめる瞳の綺麗さに、
リズミカルにキーボードを叩く指先に、
こっそりチョコを摘む顔に、
僕の心は日に日に過敏にさせられる。
この世の全てのひかりは、きみから発されているのかもしれない。
明度を落としたはずの視界で、恋の光が眩しくて。
『眩しくて』
迫る車体に思わず身を縮めた。次の瞬間、むわりとした風に包まれる。当然来ると思った痛みはほとんど感じなくて、衝撃と熱さ、ただそれだけが俺を齧った。
左足が動かない。いや、首も指先すらも。自分の身体がどうなっているのか知る術がなかった。
目の前には、アスファルトの地面がひろがっている。夏でもないのに夏の匂いがする。地面に倒れてることだけはわかった。あるいは数メートル飛ばされたかもしれない。
「大丈夫かっ!? 」って駆け寄って来る人も居ないもんなんだなあ。
ドラマで見るような風景と比べて馬鹿な感想を抱いていると、救急車の音が聞こえた。
どくん、どくん。
心臓の音がやけに響く。耳の中で直接鳴っているみたいだ。まだ立派に生きてる証。
自分の鼓動が熱い。死にたくないと訴えてるみたいに。
なんだよ。
今更そんなに頑張るなよ。
おまえも俺も、もうじゅうぶん頑張ってきたじゃないか。
救急車の音が止まった。数人の呼ぶ声が近くなったり遠のいたりする。
そして世界が、ふつりと途絶えた。
『熱い鼓動』
タイミングが良かったことなんかない気がする。
誰にでも懐く犬にさえ吠えられる、
SNS始めたら早々に乗っ取られる、
傘を忘れたら雨が降る(だから、母にとって絶対晴れて欲しい日には必ず傘を持たされた)、
残り一個の特売品は目の前で持ってかれる、
ほかにも……
「それは……難儀なことで」
君は古い言い回しで、ひょこりと顎を突き出した。
「だからさ、潔く仏滅にしたんだ」
「え?ㅤどゆこと?ㅤ今日仏滅なの?」
「うん」
「なんでまたわざわざ……」
「別に合わせた訳じゃないよ?ㅤたまたまだったんだけど。別の日にしなかったのは、タイミングとかじゃなくて、暦のせいに出来るかなあ、って……」
われながら馬鹿らしくなって、声がどんどん小さくなった。
黙っていた君がプッと吹き出す。
「そんな弱気な告白はじめて」
君の笑顔の眩しさ。
え?ㅤこれってさ、ひょっとして。期待してもいいやつ!?
「どうかなあ」
声に出したつもりはなかったのに、返事があって驚いた。
口に手を当てたまま何も言えないでいると、
「日曜日、デートしてよ」
信じ難い言葉が飛んでくる。
「私のために都合つけてくれたら、返事してあげる」
まって、まって、追いつかないから。タイミングなんか、全部ぶっ飛ばされてる!
『タイミング』
「虹のはじまりって、どうなってんだろうね」
教えてもらった空の弓を店の窓越しに見上げて、思いついたことを言ってみる。
「小さい頃気になって、探しに行ってみたことあって」
蛇腹にしたストローの袋に水滴を落としていた彼女が、「へえ」とこちらを見た。
「かなり遠くまで歩いたんだけど、全然近づけなかった」
「諦めんの、早すぎたんじゃない?」
スマホを手に取り操作しながら、興味無さそうに彼女が言う。
「そうかもね」
虹は幻みたいなものだと聞いたことがある。
近づいてるつもりでも、別の角度で生まれる虹が次々と目に映り込み、ふもとにはいつまでもたどり着けないと。
「人を好きになる時みたいだなって」
チラリとこちらを見る目が胡乱を帯びた。またこいつは何を言い出すんだか、とでも言いたげに。
「好きって気持ちのはじまりって、よく分かんないもんじゃない?」
と言った瞬間、目の前に画面がかざされる。
「ネットに落ちてた。虹のはじまり」
誰かが書いたブログだろうか。
『虹のはじまりには雨が降っている』
というキャプションが付けられた写真では、道路のど真ん中から見事に虹が生えていた。
「なんにでも、始まりはあるよたぶん」
水浸しになったストロー袋のいもむしをつつきながら彼女が言う。
「あたしは覚えてるけどね、はじまり」
なんの事か分からずに、びしょ濡れでくたりとした白い物体をまじまじと眺めてしまう。
「だから、あんたを好きになった瞬間」
はあ、と間抜けな声が出た。その後に、えっ?、となる。
「この写真みたいに、それはもうはっきりと」
そう言って、彼女は悪戯っぽく笑んでみせた。
『虹のはじまりを探して』