ㅤ教師の呼名に、君は力強く返事した。
ㅤ同じ制服を着て同じように壇上を歩くのに、君だけが私の目にこんなにも輝いて見えるのは何故だろうね。
ㅤ以上。本年度卒業生、三百五十六名。
ㅤ全員が自席に戻り、一斉に着席する間際、君が私の方をチラリと振り向き、小さく手を振った。悪戯を共有する仲間の顔で私も微かに振り返す。
ㅤ癖で髪を耳にかけようとして、指先が空を切る。今日までと思って伸ばしていたはずの髪。
ㅤ忘れないよ。君が私を親にしてくれたこと。喧嘩して笑って泣いて、ここまで君と歩いた道は決して消えることはないから。
ㅤその時がいつになるか私には分からないけど、明日から嘘を突き通せる勇気を、どうか神様私に下さいね。
『君と歩いた道』
ㅤ久しぶりに会った姪っ子は、公園までの短い距離を右に左に立ち止まりながら進んだ。顔立ちも面影も赤ん坊の時そのままなのに、身体の大きさだけが会うたび巨大化している気がする。
「まま、みてー!ㅤありしゃん!」
「ほんとだ。蟻さんいたねー」
「みーたんも、みてー!」
「ほんとだー。蟻さんだね」
ㅤ応えながら優茉ちゃんの隣に座る。
「すぐそこの公園がこんなに遠いとは思わなかった」
「そうなの。子どもいると、すべての工程が最大限まで引き伸ばされるね。時空が歪んでる」
ㅤ優茉ちゃんは、飛んできた蝶に気を取られている。かと思うとその場に突如立ち止まり、腰を落としてガニ股に「ちー!」と叫んだ。
「やめなさいよ。道の真ん中で」
ㅤ百合子が笑って、優茉ちゃんを道路の端に引き寄せた。
「なに?ㅤいまの」
「なんか、おしっこの真似らしくて。保育園で流行ってるんだって」
ㅤ変なことばっか覚えてきちゃって困っちゃう、と百合子が口を曲げた。
ㅤ優茉ちゃんは両手を広げ、公園を囲む低い石の上を歩き始める。
「世界が広がるねえ、外に出ると」
「確かに。言葉は増えたねえ。親の知らないことが、どんどん増えてくんだろうなあって、洋ちゃんとも話しててさ。なんか寂しい気もするけど」
「恋とか、するんだろうなあ」
「それ、洋ちゃんも言ってた。早くない?」
「いやいや、あっという間だって」
ㅤ試しに、この子が恋に胸を焦がして、夢見る少女のようになるところを私は想像してみた。
「ちー!」
ㅤという元気な声にすぐ中断される。
「ダメだ。このポーズ、優茉ちゃんの結婚式まで忘れらんなそう」
「それこそやめて。時空歪ませないで」
ㅤ笑い崩れる私の背中を優茉ちゃんのそれとまとめて叩き、百合子は私たちを公園の中へ促した。
『夢見る少女のように』
ㅤ待ち合わせの駅前に、君は真っ赤な顔で現れた。
「大丈夫?ㅤ汗すごいけど。ちょっと休んでから行く?」
ㅤ読みかけの文庫本に栞を挟み、僕はガード下のカフェを指す。
「ああ。へーき、へーき」
ㅤリュックからスポーツドリンクを出した君は、きっぱり言い切ってペットボトルを煽った。
「汗は止まんないけど、見た目より平気だから。体育祭の練習ばっかで暑さに慣れたんかな」
ㅤ触覚過敏というのかどうか、肌に何も触れない方が落ち着かないらしいと姉から聞いていた。学校では一年中長袖で通しているそうだ。
「どうせこのあと死ぬほど汗かくし」
「それもそうか」
ㅤ予報では今日は三十二度まで上がるらしい。なんなら既に超えているかもしれない。カバンにしまった文庫本の代わりに、僕はICカードを手にする。
「梅雨もまだなのに、もう夏だよね」
「だね」
ㅤ君の案内で、これから秘境と呼ばれる廃線を見に行くのだ。きっと死ぬほど暑くて、たまらなく熱い一日になるだろう。
ㅤ君の背中に続いて、僕は改札を入る。さあ行こう。僕らの夏の始まりへ。
『さあ行こう』
ㅤ植え込みや石の影を必死に見て回っていると、たまたまとおりがかった子が声をかけてくれた。
ㅤ土で汚れたヒヨコのキーホルダーは無事見つかり、雨はいつしか止んでいた。水たまりに映る空がキラキラ光る。
「この向こうには、違う世界があるらしいよ」
ㅤ私は隣をチラリと見て何気ないことのように呟いた。
「こちら側の世界に、子どもを迎えに来るんだって」
「なにそれ。テレビの見すぎじゃない?」
ㅤ明るい笑い声が返る。
「そんな話、図書室の本で見た気がするなあ」
ㅤタイトルなんだっけ、と考える横顔に、私は水たまりを指して驚いた顔を作った。
「あれ?ㅤでもいまなにか、動かなかった?」
ㅤ空の奥にさ。
「え、どこ?」
ㅤ素直で純な背中に手を添え、私は水たまりの中へと思い切り彼女を突き飛ばした。
『水たまりに映る空』
ㅤ迎えに来てくれた吉村という男は、目に付いた中華屋に私を誘い、苦手なものはないかと形だけ確認して、醤油ラーメンのチャーハンセットとギョーザを二人分注文した。奥のテレビでは、ドキュメンタリーが流れている。『ストーカー青年の真実』という美談なのか皮肉なのか分からないタイトルだ。
ㅤ愛と憎しみは似ているんです。僕が彼女に感じていたのは、その両方だったのかもしれません。
ㅤ音声を加工され耳障りな機械音と化した人の言葉が、私の心にすっと染み通った。
ㅤなんで分かってくれないの?
ㅤあなただけは私を分かってくれると思ったのに。
ㅤそう信じていた遠い記憶。
ㅤそんなの愛じゃないと言う人も居るだろうけど。愛や憎しみの対義語は、無関心だから。
「もう行くよ?」
ㅤチャーハンがまだ残っていたけど、私は諦めて席を立つ。勘定を済ませた作業着の背中に続いて、店の外へ出た。
「ご馳走様でした、すごく——」
「いやいや。なんか、あんま美味しくなかったね」
ㅤ美味しいの定義も、恋か、愛か、それとも別の何かかの定義も、所詮人それぞれだ。
ㅤ自分でなにか決めるのはやめよう。それだけを私は決めたいろんなことを諦めないとろくな事にはならないから。
『恋か、愛か、それとも』