約束だよ、そう言ってくれたのに。
あの時交わした愛は今も確かに残るのに。
私の知らない人の傍で、私の全然知らない顔で、
そんなにも優しく微笑むあなた。
約束は守りましょうって、学校で習わなかったの?
『約束だよ』
ㅤ下校時間になっても、雨はまだ降り続いていた。
ㅤ水色の傘を差したりっちゃんは、でこぼこしたアスファルトをピョンピョンと跳ねて歩く。私も水たまりを避け、白いスニーカーの底が作る泡を同じ順で踏んで歩く。
ㅤ雨はあまり好きじゃない。私はくせっ毛で、雨降りの朝は湿気を吸った髪がひどく広がった。仕事に出る支度の手を止めた母は、私の頭をギュウギュウ押したり引っ張ったりして、なるたけ手短に髪を縛るのだった。
「雨の日って、あたし好きだな」
ㅤ赤信号の前で、りっちゃんが立ち止まる。
「世界がグレーに沈んでさ、花の色とか綺麗に見えない?」
ㅤりっちゃんの傍で、ピンク色の紫陽花が揺れる。
「そうだね」
ㅤなんとなく話を合わせると、りっちゃんは私の傘の中に身を寄せた。
「恭子のその髪型も好きだし」
ㅤ唇に近づくやわらかな気配。
「傘の中に秘密、隠せるし」
ㅤ胸に触れるりっちゃんの手に手を添えて、私はそっと目を閉じた。
『傘の中の秘密』
ㅤいつか雨上がりの虹を見上げ、笑ってぬかるみを歩く日を僕はずっと信じていた。
ㅤそぼ降る雨から君を護れる、傘みたいになりたかった。風が吹けば一緒に濡れて、止まないねえと空を眺めて。それだけで良かったのに。
ㅤ紙切れからそっと離した朱色を、僕は無造作に拭き取る。軽くなった左の薬ゆび。気になるのはきっと今だけだ。
ㅤ僕の空にもう雨は降らない。
『雨上がり』
ㅤ勝ち負けなんて関係ない、なんて嘘だよね。
ㅤ特別な椅子はいつだって一つしかない。
ㅤいちばんになれなきゃ意味がないんだ。
ㅤくずおれたあなたの向こうを、雲がすごい速さで流されていく。苦しげなあなたの嗚咽が瞬時に風に飛ばされる。
ㅤぽつりと垂れはじめた水滴を拭い、私は手を差し伸べた。
「帰ろう?」
ㅤ赤い目で鼻を垂らしたまま、あなたは私を見あげる。
ㅤそうだね、あなたの言う通り。勝ち負けなんてものは、何をしたって消えてくれない。
ㅤだからこそ私はいま、心から賞賛したくなるのかな。こんなにも純でこんなにも愛らしい人を拒絶して、勝ったつもりでいるらしい、可哀想な見知らぬ負け犬野郎のことを。
『勝ち負けなんて』
ㅤ一方的に愚痴みたいなことを喋ってしまい、恥ずかしくなって私は黙った。夢乃さんはしばらくお茶を啜っていたが、
「整理してたら、中学の卒業アルバムが出てきたの。ちょっと見てくれない?」
ㅤと笑う。
ㅤ『飛翔』と題されたアルバムの表紙を、並んでめくる。夢乃さんは眼鏡を取り出した。私のあげたオレンジの眼鏡ケース、使ってくれてたんだ。
ㅤ同じ制服たちのなかに、私はすぐ夢乃さんを見つけ、夢乃さんは残念そうな声を上げた。今よりずっと長い髪。だけど面影は全然変わらない。
「これくらいの頃って、自分こそが物語の主人公みたいな気持ちでいなかった?」
ㅤアルバムをめくりながら、夢乃さんはつぶやく。
「あれも出来ないこれも出来ないって、気づけばマイナスの方ばかり数えちゃうのよね。物語の先は長くて、まだまだ続くのに」
「確かに」
ㅤ体育着姿でハチマキを巻いて、クラスメイトと笑う夢乃さんと目が合った。
「その時その時を精一杯走ってきたって、信じるしかないですね」
ㅤ写真に似たあどけなさを持つ夢乃さんは、にっこりと頷いた。
『まだ続く物語』