ㅤ降ったり止んだりの白い空を、ビニル傘越しに僕は見上げる。隣の傘の中から「寒っ」と声がした。三十度に迫る勢いだった都心の気温は週明けから一気にさがり、昼だというのに十六度まで落ち込んでいた。
ㅤ日が長くなると、ソワソワするんだ。
ㅤ向かい合わせに座った後は、感じたままを伝えようと決めてきた。けれど実際口に出来た言葉はどれも軽くて安っぽかった。
ㅤ今が嫌な訳ではないのに。ここではない場所へ向かわなくてはという漠然とした僕の焦燥が、傍の誰かをいつも傷つける。
「まるで渡り鳥だね」
ㅤ遠くで低くつばめが飛んだ。そちらに目を向けたまま、夏海は手のひらを上にして空に差し出す。
「渡ってくるとき、また教えてよ」
ㅤ畳んだ傘をくるくる回してボタンを留めると、こちらを振り向いて消えそうに笑った。
『渡り鳥』
ㅤおまえの演技はお茶漬けだ、と代理でやってきた講師は言った。
「要するにさらさらなんだよ。深みや葛藤ってものがない。そんなもん、誰がわざわざ見に来るんだ。最初が肝心なんだぞ」
ㅤ文化祭の稽古が始まって一ヶ月。私の長台詞で始まるミステリーは、冒頭シーンの練習を繰り返してばかりいた。台詞を最後まで言わせて貰えたことは一度もなく、私の怒りは頂点に近かった。
「サークルの学祭発表なのに、なんであそこまでスパルタなの?ㅤだいたい、あの発言ってお茶漬けにも失礼じゃない?」
ㅤうんうん、そうだねと頷いて、マッキーはウーロンハイを煽っている。
「ちょっと、人の話聞いてる?」
「要するに何も残らないってことでしょ?ㅤ噛まずに飲み込めちゃうみたいな」
ㅤ向かいでは、貴美子が鶏皮にレモンを搾りながらフォローにもならないことを言う。
「それにほら、さらさらって悪いことばかりじゃないよね?」
ㅤ空になったジョッキを店員にかざすと、貴美子は眉を寄せて宙を睨んだ。
「なんだっけ、ほら。小学校の音楽に出てくる……」
「春の小川?」
ㅤ私の答えに、「そうそう!」と明るい声が被さった。
「そんなヒントでよくわかったねえ」
ㅤマッキーが鶏皮を口に放り込む。
「春の小川、好きだったから」
ㅤそういえば、さらさらって川の音でもあった。私はお茶漬けで川なのか。岸に咲く菫や蓮華に話しかけ、どこまでも流れすぎて行くだけの川。
「くっそー、今に氾濫してやるからな!」
「おお、いいじゃん!」
「お茶漬け川の氾濫!ㅤウケるんだけど!」
ㅤ二人が面白そうに囃し立てた。
ㅤ溢れ返った黄緑色の川に講師が押し流され、助けを求める間もなく沈むところを想像して、私は日本酒の升を勢い良く傾けた。
『さらさら』
ㅤ空調機が、ぶうんと唸った。あなたが弾かれたように身体を離す。
「ご、ごめん」
ㅤ私は無言で首を振る。あなたが謝ることなんかない。
「寒そうにみえたからさ、それだけだから」
ㅤ叱られた子どもの顔であなたが下手な言い訳をする。温もりの残るジャケットの端を、私はぎゅっと握りしめた。
ㅤありがとうと言いたくても、ごめんなさいと伝えたくても、この喉はなにも紡げない。私の姿を映してくれる、まっすぐな瞳を見つめる。
「それ、貸してあげるよ。今度会う時まで」
ㅤ今あなたの前に私だけがいること。確かなものはこれだけなのだ。だから大丈夫。私はこれで最後にできる。
ㅤいつかあなたがまたあの裏山に来た時、打ち捨てられたこのジャケットを見てなにか思い出すことがあれば。それだけでいいよ。
『これで最後』
数秒遅れて君は変な顔をした。
私はようやく理由に気づいた。
少しの沈黙のあと君が笑った。
ずっと心にしまうだけだった、
君の名前を呼んだ日は、今日。
『君の名前を呼んだ日』
ㅤ僕は諦めてベッドを降り部屋の電気をつけた。時折悩まされる程度だった不眠症がいっそう酷くなっていた。
ㅤこういう時は無理に眠ろうとしないほうがいいって本に書いてあったし。SNSでつぶやくと、ほんの二分でコールが鳴る。
「やあ」
「うん」
ㅤ極限に短いやり取りのあと、君は今夜の星回りとプロットの躓きについて話しはじめた。
ㅤ僕の世界はやさしい雨音に包まれているみたいになって、やがて遠ざかる。ちゃんと打てているはずの相槌が、だんだん、遅れてい、く……。
『やさしい雨音』