ㅤいつか雨上がりの虹を見上げ、笑ってぬかるみを歩く日を僕はずっと信じていた。
ㅤそぼ降る雨から君を護れる、傘みたいになりたかった。風が吹けば一緒に濡れて、止まないねえと空を眺めて。それだけで良かったのに。
ㅤ紙切れからそっと離した朱色を、僕は無造作に拭き取る。軽くなった左の薬ゆび。気になるのはきっと今だけだ。
ㅤ僕の空にもう雨は降らない。
『雨上がり』
ㅤ勝ち負けなんて関係ない、なんて嘘だよね。
ㅤ特別な椅子はいつだって一つしかない。
ㅤいちばんになれなきゃ意味がないんだ。
ㅤくずおれたあなたの向こうを、雲がすごい速さで流されていく。苦しげなあなたの嗚咽が瞬時に風に飛ばされる。
ㅤぽつりと垂れはじめた水滴を拭い、私は手を差し伸べた。
「帰ろう?」
ㅤ赤い目で鼻を垂らしたまま、あなたは私を見あげる。
ㅤそうだね、あなたの言う通り。勝ち負けなんてものは、何をしたって消えてくれない。
ㅤだからこそ私はいま、心から賞賛したくなるのかな。こんなにも純でこんなにも愛らしい人を拒絶して、勝ったつもりでいるらしい、可哀想な見知らぬ負け犬野郎のことを。
『勝ち負けなんて』
ㅤ一方的に愚痴みたいなことを喋ってしまい、恥ずかしくなって私は黙った。夢乃さんはしばらくお茶を啜っていたが、
「整理してたら、中学の卒業アルバムが出てきたの。ちょっと見てくれない?」
ㅤと笑う。
ㅤ『飛翔』と題されたアルバムの表紙を、並んでめくる。夢乃さんは眼鏡を取り出した。私のあげたオレンジの眼鏡ケース、使ってくれてたんだ。
ㅤ同じ制服たちのなかに、私はすぐ夢乃さんを見つけ、夢乃さんは残念そうな声を上げた。今よりずっと長い髪。だけど面影は全然変わらない。
「これくらいの頃って、自分こそが物語の主人公みたいな気持ちでいなかった?」
ㅤアルバムをめくりながら、夢乃さんはつぶやく。
「あれも出来ないこれも出来ないって、気づけばマイナスの方ばかり数えちゃうのよね。物語の先は長くて、まだまだ続くのに」
「確かに」
ㅤ体育着姿でハチマキを巻いて、クラスメイトと笑う夢乃さんと目が合った。
「その時その時を精一杯走ってきたって、信じるしかないですね」
ㅤ写真に似たあどけなさを持つ夢乃さんは、にっこりと頷いた。
『まだ続く物語』
ㅤ降ったり止んだりの白い空を、ビニル傘越しに僕は見上げる。隣の傘の中から「寒っ」と声がした。三十度に迫る勢いだった都心の気温は週明けから一気にさがり、昼だというのに十六度まで落ち込んでいた。
ㅤ日が長くなると、ソワソワするんだ。
ㅤ向かい合わせに座った後は、感じたままを伝えようと決めてきた。けれど実際口に出来た言葉はどれも軽くて安っぽかった。
ㅤ今が嫌な訳ではないのに。ここではない場所へ向かわなくてはという漠然とした僕の焦燥が、傍の誰かをいつも傷つける。
「まるで渡り鳥だね」
ㅤ遠くで低くつばめが飛んだ。そちらに目を向けたまま、夏海は手のひらを上にして空に差し出す。
「渡ってくるとき、また教えてよ」
ㅤ畳んだ傘をくるくる回してボタンを留めると、こちらを振り向いて消えそうに笑った。
『渡り鳥』
ㅤおまえの演技はお茶漬けだ、と代理でやってきた講師は言った。
「要するにさらさらなんだよ。深みや葛藤ってものがない。そんなもん、誰がわざわざ見に来るんだ。最初が肝心なんだぞ」
ㅤ文化祭の稽古が始まって一ヶ月。私の長台詞で始まるミステリーは、冒頭シーンの練習を繰り返してばかりいた。台詞を最後まで言わせて貰えたことは一度もなく、私の怒りは頂点に近かった。
「サークルの学祭発表なのに、なんであそこまでスパルタなの?ㅤだいたい、あの発言ってお茶漬けにも失礼じゃない?」
ㅤうんうん、そうだねと頷いて、マッキーはウーロンハイを煽っている。
「ちょっと、人の話聞いてる?」
「要するに何も残らないってことでしょ?ㅤ噛まずに飲み込めちゃうみたいな」
ㅤ向かいでは、貴美子が鶏皮にレモンを搾りながらフォローにもならないことを言う。
「それにほら、さらさらって悪いことばかりじゃないよね?」
ㅤ空になったジョッキを店員にかざすと、貴美子は眉を寄せて宙を睨んだ。
「なんだっけ、ほら。小学校の音楽に出てくる……」
「春の小川?」
ㅤ私の答えに、「そうそう!」と明るい声が被さった。
「そんなヒントでよくわかったねえ」
ㅤマッキーが鶏皮を口に放り込む。
「春の小川、好きだったから」
ㅤそういえば、さらさらって川の音でもあった。私はお茶漬けで川なのか。岸に咲く菫や蓮華に話しかけ、どこまでも流れすぎて行くだけの川。
「くっそー、今に氾濫してやるからな!」
「おお、いいじゃん!」
「お茶漬け川の氾濫!ㅤウケるんだけど!」
ㅤ二人が面白そうに囃し立てた。
ㅤ溢れ返った黄緑色の川に講師が押し流され、助けを求める間もなく沈むところを想像して、私は日本酒の升を勢い良く傾けた。
『さらさら』