ㅤ空調機が、ぶうんと唸った。あなたが弾かれたように身体を離す。
「ご、ごめん」
ㅤ私は無言で首を振る。あなたが謝ることなんかない。
「寒そうにみえたからさ、それだけだから」
ㅤ叱られた子どもの顔であなたが下手な言い訳をする。温もりの残るジャケットの端を、私はぎゅっと握りしめた。
ㅤありがとうと言いたくても、ごめんなさいと伝えたくても、この喉はなにも紡げない。私の姿を映してくれる、まっすぐな瞳を見つめる。
「それ、貸してあげるよ。今度会う時まで」
ㅤ今あなたの前に私だけがいること。確かなものはこれだけなのだ。だから大丈夫。私はこれで最後にできる。
ㅤいつかあなたがまたあの裏山に来た時、打ち捨てられたこのジャケットを見てなにか思い出すことがあれば。それだけでいいよ。
『これで最後』
数秒遅れて君は変な顔をした。
私はようやく理由に気づいた。
少しの沈黙のあと君が笑った。
ずっと心にしまうだけだった、
君の名前を呼んだ日は、今日。
『君の名前を呼んだ日』
ㅤ僕は諦めてベッドを降り部屋の電気をつけた。時折悩まされる程度だった不眠症がいっそう酷くなっていた。
ㅤこういう時は無理に眠ろうとしないほうがいいって本に書いてあったし。SNSでつぶやくと、ほんの二分でコールが鳴る。
「やあ」
「うん」
ㅤ極限に短いやり取りのあと、君は今夜の星回りとプロットの躓きについて話しはじめた。
ㅤ僕の世界はやさしい雨音に包まれているみたいになって、やがて遠ざかる。ちゃんと打てているはずの相槌が、だんだん、遅れてい、く……。
『やさしい雨音』
ㅤ晴れた日の洗濯の歌。ベランダの花に水やる歌。パスタを美味しく茹でる歌。何をするにも君は大抵変な歌を歌っていた。
「あんまり家事が得意じゃないから。せめて楽しくやりたいなって」
ㅤあの日うたた寝した僕は、微かな歌声で目を覚ました。手元を見たままで、君が「おはよ」と笑う。
「夢の中にも聞こえた?ㅤ疲れたあなたに林檎を剥く歌」
ㅤ持ってきたお見舞いの林檎は、小さなウサギになっていた。僕は無言で口を開ける。君の手から生まれたいびつなそれが、前歯の先でサクリと崩れる。
ㅤ君の前に林檎をまたひとつ。手を合わせ目を閉じたら、君より上手にウサギを剥こう。ややうろ覚えな変な歌を歌いながら。
『歌』
ㅤ頬にポツリと水滴を感じ、僕は時刻を確かめる。今朝の天気予報では、昼から降り出すと言っていたのに、時計の針は四時を過ぎたところだった。
「予想より、ずいぶん持ったなあ」
ㅤ思ったことが声に出て、ようやくその場から歩き出せた。一歩一歩遠ざかる。じゃあねと言って君が背を向けた場所。今日以降はきっと、近づけなくなる場所。
ㅤ君は言葉少なで、しきりに空を気にしていた。隣を歩く僕は過去なのだと、言われているみたいだった。灰色の混じった白い雲に向かって小さくなっていった君。
ㅤ降る雨はいつか止むけど、僕の空が晴れることはない。共に過ごした僅かな空の眩しさを、心の奥にそっと包み込んで。もう二度とこの想いがひらいてしまわないように僕は願った。
『そっと包み込んで』