ㅤ別に変わらなきゃいけないとか、変わってほしいとか言いたい訳じゃない、とあなたは言った。ただ違いに気づいて、視野を広げて、そんな考えもあるんだと思ってくれたらいいんだって。
ㅤでもそれは、やはり詭弁だった。
ㅤ私があの時、自分を曲げられていれば済んだ話なのだ。下らないことにしがみついてないで、あなたを最優先にして。つべこべ言わず迷いも持たず、昨日と違う私になれれば。
ㅤあなたが手を離すことはなかった。
『昨日と違う私』
ㅤ脛に鋭い痛みを感じ、文字通り飛び起きた。あまりの痛みに声も出ない。
「渡るぞ!」
ㅤ窓の外に目をやったまま、祐希はチョコレートバーをかじっている。硬いベッドに車輪の振動が伝わってなかなか寝付けなかったはずが、いつの間にかしっかり眠れていたらしい。
ㅤ漂う甘い匂いに空腹を感じた。上着を羽織ってから、東京駅で買った同じものをリュックから探る。
「見られましたか? disconnection」
「もちろん!」
ㅤ満足そうな笑顔が親指を立てる。岡山での連結切り離しは絶対見逃せないイベントだ、と熱弁していたのだ。昨夜はほとんど眠っていないだろう。
「6時過ぎからあんなにアナウンス入ってたのに、全然起きねえんだもんな」
ㅤもったいねーの。
ㅤチョコレートの残りを口に押し込んでスポドリで流し込むと、祐希は大きな窓に手をついた。
ㅤ師走の街がぐんぐん明るくなっていく。目の前に迫った橋桁が勢い良く後ろへ流れる。窓に触れた指先が白くなった。寝台列車が海を渡る。
「きたー!ㅤ瀬戸内海ー!」
「Sunriseで見るSunriseですね~!」
「発音良すぎてムカつくー!」
『Sunrise』
ㅤ会場に着いた時には曇の目立っていた空は、憎らしいくらい晴れ渡っていた。
「ではここで、バルーンリリースを行いたいと思います」
ㅤ司会者のにこやかな声が手順を説明するなか、参加者に色とりどりの風船が配られた。どうぞ、と慇懃に押し付けられた黄色の風船を私は睨む。よりによって、黄色。
ㅤ大階段を降り切った二人には、ピンクのハートが手渡されていた。ひとつの風船のひもを、重なった手が大事そうに握っている。
「皆さま、ご準備はよろしいでしょうか。お二人の幸せが天まで届きますようにと願いを込めて。3、2、1でバルーンのリリースをお願いいたします」
ㅤ掛け声と共に、無数のバルーンがふわりと浮き上がる。拍手とシャッターの音が渦巻く。数秒遅れて、私は手を離した。
ㅤ最後までポツリと離れたまま、空に溶ける黄色を見送る。幸せを願い損ねた私の心そのものみたいだと思いながら。
『空に溶ける』
ㅤ俺の言葉に、たっぷり二拍の間を空けて茉莉は吹き出した。くそっ、真面目に相談した俺が馬鹿だった。
「いい、やっぱ頼まない」
ㅤ鬼のような後悔に襲われ回れ右をしかけたところで、肩を掴まれる。
「ごめんごめん。好きな子出来たって本当だったんだと思って」
「もういいから、忘れてよ」
「じゃあどうすんの?ㅤ三日後なんでしょ?」
ㅤ部屋を出ようとした足がぴたりと止まってしまう。なんでそんな細かいことまで知ってんだ?
「自分だけ誕プレもらっといてお返しもなしなんてさ、惚れた腫れたの前に人としてどうなんだろうねえ」
ㅤなんで言葉のチョイスが思い切り昭和なんだろう。どうでもいいことが気になる。
ㅤ俺の沈黙を戸惑いだと思ったのか、茉莉がさらにドヤ顔になった。
「あんたがどうしてもって言うなら、付き合ってあげてもいいけど?」
ㅤどうする?ㅤとニヤニヤする顔を俺は睨みつける。こういう方面の相談先が、ひとつ上の姉しか思いつけない我が身が呪わしい。
「どうしても…お願いします…」
「きゃはは、棒読みすぎてウケる!」
ㅤベッドの端に座った茉莉が、脚を派手にバタバタさせる。
「お小遣い足りないだろうし、バリューバーガーセットのアップルパイ付きでいいよ!」
ㅤそう言って、ムカつくほど爽やかに笑った。
『どうしても…』
ㅤ日の翳る無人駅の改札で、君の姿が影絵に溶け込んでいく。大した言葉も返せずに「じゃあね」と僕は呟いた。近づく列車を見たままで。
ㅤただ一度手を振ったきり、あなたはふり返らなかった。いつでも触れられる距離にいた背中が、ドア越しではあまりに遠くて。
ㅤまっててほしい、と——
ㅤまってるからね、と——
言えたら良かった、嘘になっても。
『まって』