ㅤ三度目に語尾が潤んで、典子はチーンと思い切り鼻をかんだ。『鼻をかむ音』として、百科事典に載せられそうなほど見事に。
「いま、あたしにやさしくしないでよね」
ㅤ鼻にかかった声と共に、丸めたティッシュがゴミ箱へと投げられる。
「なんだよそれ」
ㅤ歪な弧を描き床に転がるティッシュを俺は見守った。コントロールが悪いから、ゴミ箱の周りは使用済みのティッシュだらけだ。
「どん底の今なら、バカボンのパパとだって恋に落ちそうだから」
ㅤいやいや、俺に言わせたらバカボンのパパはなかなかの強敵だぞ。既婚者だけど。
ㅤ心の中で突っ込みながら、散らばったティッシュを拾いゴミ箱に捨てる。ゴシゴシと頬を擦る赤い目をした横顔を盗み見る。
ㅤああ、神様。バカボンのパパ様。やさしさって、どうすれば……?
『やさしくしないで』
「どこにあったん、そんなもん」
「おかんのクローゼットの奥。喪服探しよったら見つけてん」
「え、あんた、ほんまに喪服探したん?」
「だって、お姉ちゃんが言うたんやんか」
ㅤ本人の喪服を探すと、死神が萎えて仕事をしなくなる。どこかの国のジンクスだと言ったのは姉だった。病名や治療法はアホほど見尽くして、近頃私たちが検索するのは、気休めみたいな単語ばかりになっている。
ㅤ眠り続けるおかんの足元に並んだ黄ばんだ封筒を眺めて、「隠されたラブレターねえ」と姉はため息をついた。
「中身は?ㅤ読んだの?」
「まさか」
ㅤ母の字でしたためられた、『様』付きの父の名前を私は睨む。
「ここで読んだろか。音読したるわ。恥ず過ぎて、三途の川から走ってくるんちゃう?」
ㅤ本気半分冗談半分で封筒に伸ばした手を、姉にぺしりとはたかれた。
「やめなって」
ㅤ病室が、今日も夕べの音楽に包まれる。『気をつけておうちへ帰りましょう』という防災無線の音声。
「おうち帰る時間やって」
ㅤ管に繋がれた、浮腫んだ手にそっと触れる。
ㅤせっかく隠した手紙やろ。勝手に読まれた無かったら、早よ帰ってきぃや。
『隠された手紙』
ㅤ廊下に呼ばれたあなたを目で追う。
ㅤドアの向こうで短い歓声があがる。
ㅤ戻ってきたあなたはパステルカラーの小さな包みを幾つも抱えていた。満更でもない顔をして。
ㅤ後ろ手に持っていた紺色の包みを、私は鞄の奥へ押しやる。
「ごめん、用事思い出した。やっぱ先帰るね。……バイバイ」
『バイバイ』
ㅤ大人になったら、悩んだりしなくなると思ってた。いろんなことの仕組みがわかって、世界は広がる一方で。落ち込むことはあるだろうけど、なんたって大人なんだから。知恵もツテもあるはずだ。もちろんお金もたくさん。
ㅤ十四の頃、理由もなくそう信じていた。通学の道すがらすれ違う大人は誰しも、迷いなく格好良く駅を目指していた。人生が長い旅なら、彼らはきっと居るべき場所にもう辿り着いているんだと思った。
ㅤだけどそんなこと、ありえない。
ㅤ自宅の郵便受けを開けたら、チラシと請求書がドサドサ落ちてくる。ため息と共に数枚拾い上げたところで、手の中でスマホが鳴り出した。妹だ。
「もしもしっ……わっ!」
『え、なに?ㅤ大丈夫~?』
ㅤ応答した瞬間に指をすり抜けたチラシが、先程よりも盛大に床に散らばる。
「ありえない……」
ㅤ今どき会社に泊まり込みとか、本当に有り得ない。こんなに郵便が溜まるまで。
『あ、日付変わったよ。おめでと~!』
「ありがと」
ㅤ大台に載ったねえ、と言われ、全然めでたくないよ、と返す。妹は毎年このタイミングでお祝いの電話をくれるのだ。
「全然実感無いし。十四あたりで止まってる感じ、精神的には」
『中二かぁ。でも身体がね~、フォーティーンじゃなくてフォーティなんだよね、悲しいことに』
ㅤ脇に紙束を挟んで、妹の言葉に吹き出しながらドアの鍵を閉めた。出社する前と何ひとつ変わらない部屋の乱雑さになぜかホッとする。
ㅤひとつ歳を取っても、何も変わらない。思ってた以上に長旅の途中みたいだ。
『旅の途中』
ㅤビール追加の声。皿を重ねる音。店内のざわめきが、向かい合う沈黙の間を過ぎていく。武器のつもりで袖を通した新品のワンピースは、タバコと焼き鳥の匂いに呆気なく敗けた。
ㅤ確かに息づいた恋を「潮時」と冷たく評する君を、否定出来るだけの勇気が私にはない。花模様の上で震える拳を握り締める、
ㅤ目の前に座るのは、私のまだ知らない君。もっとたくさん、知りたかった君。
『まだ知らない君』