未知亜

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1/29/2025, 11:04:59 AM

ㅤ正午。
ㅤそこには先客がいた。でっぷり太った三毛猫。

ㅤ大抵の人は、講義が終わると連れ立って食堂へ行く。けれど私は、講堂から少し離れた、木の陰のベンチがお気に入りだった。誰とも顔を合わさなければ、誰とも話さなくて済む。
ㅤ猫は目を閉じていた。顔の真ん中に二つ、すうっと線が引かれているみたいだ。眠っているのか休憩しているだけなのか、私にはわからない。
ㅤ風そよぐベンチのど真ん中に、置物のように鎮座する黒と茶と白の猫餅。どうしようかと逡巡していると、黒茶の耳がピクピクと動き、猫がぱちりと瞳を開いた。私の方をじとりと見る。
ㅤこの時間の所有権を主張したいけど、ナワバリの闖入者は私だったのかも知れない。貫禄ある彼女とやり合う気にはなれなかった。次の講義に遅れても嫌だし。
ㅤ他の場所を探そうと歩き出しかけた時、
「にゃあ」
ㅤ短く鳴いた猫が身体を起こした。数歩遠ざかり、ベンチの端でまたしゃがみ込む。もしかして、場所を空けてくれたのかな……?
「ありがとう」
ㅤお礼を言って日陰に入り猫と並んで腰掛けると、お弁当箱を取り出す。
ㅤ猫はじーっと、私の手元を見ていた。


『日陰』

1/28/2025, 1:07:17 PM

「のりちゃん。入るよ?」
ㅤコココンというノックの音がして、おばあちゃんがドアを開けた。
「あらま。真っ暗」
ㅤおばあちゃんは、勝手に電気のスイッチを点ける。
「食べないの?ㅤごはん」
「……おなかすいてない」
ㅤベッドに潜ったままで私は言った。
「風邪じゃないのかい?ㅤ熱は?ㅤ喉は大丈夫?」
ㅤ心配そうな声が近づく。
「そういうんじゃないから……」
「そっか、良かった」
「ちっとも良くないよ」
ㅤ布団を跳ね除けて思わず抗議した。私の視界いっぱいに、色とりどりの羽根が揺れる。ぽかんとしていたら、
「可愛いでしょ?ㅤ今日の帽子」
ㅤおばあちゃんが、帽子に付いた羽根をわざとユラユラさせてポーズを取った。
「可愛いっていうか……」
「派手?ㅤ似合わない?」
「派手なのはいつもだもん。……似合ってるよ」
「ありがと」
ㅤおばあちゃんはたくさん帽子を持っている。変わったデザインのものが多いのに、不思議なほどおしゃれに使いこなしていた。
ㅤ物心ついた頃からそうだったから、私の頭の中には、もはや『帽子をかぶってる生き物』として刷り込まれているのかもしれない。それくらい、おばあちゃんと帽子の組み合わせは私にとっては自然だった。
「ね、あたしがどうして帽子かぶるようになったのか、のりちゃんに話したことあったっけ?」
「理由なんかあったんだ」
「あるよう。物事にはなんでも理由があるの」
ㅤおばあちゃんが笑う。
「学生の時にね、哲学の授業で帽子について習ったんだ」
「帽子?ㅤそんなこと習うの?」
「習ったんだよねえ、これが。哲学ってわかる?ㅤ生きてく上で、これってなんでだろうって疑問に思ったことを、つきつめて考えてみるってことなんだけど」
「うん」
「哲学的にはね、帽子は自我。つまり自分の思う自分なんだって。その考え方面白いなーって思ったんだ。周りからどう見られてるかは置いといて。今日の私はこうなのよって、周りに見せていくのもあれかなあって」
ㅤだからさ、のりちゃんも心で帽子かぶってみればいいかもよ。今日はやる気を出さないダラダラ帽子。明日はちょっとだけ一生懸命やるハキハキ帽子。時にはご褒美キラキラ虹色帽子~!
ㅤ私のほっぺに、おばあちゃんはふざけて頭をぐりぐり押し付ける。帽子についた羽根がくすぐったい。
「いろいろかぶって試してみないと、何が似合うかなんてわかんないからね。でも今はまず」
ㅤ私に手を差し出して、おばあちゃんはにっこり笑う。
「ごはんモグモグ帽子かぶって」


『帽子かぶって』

1/27/2025, 2:40:29 PM

ㅤいつもタイミングが悪いって言われる。悪気がない分タチが悪いとも。良かれと思ってした行動が、白い目で見られたり。
ㅤ空気を読め空気を読めって言うけれど、そんな目に見えない、何が正解かもわからないもの、どうやったら読めるのよ。
ㅤ相手の気持ちだってあるじゃない。本当はそうしたくないかもしれないし。ありがた迷惑って言葉もあるし。困難を克服できる能力を妨げることになるかもしれないし。
ㅤそもそも、必要ならそっちから分かりやすいサインを出せばいいじゃない?ㅤわざわざ声に出さなくても今はいろんなツールがあるわけで。
ㅤあー、でも。この人は本当に必要だと思うんだよな。だってこんなに辛そうに見える。なんで誰も声を掛けないの!

ㅤ意を決して私は立ち上がる。
ㅤ手のひらを上に向け、目の前に立つ妊婦と思われる婦人にきっぱりと言い放った。
「良かったら、座ってください!」
ㅤ相手はしばしきょとんとしてから、
「あ、そういうんじゃないんで。大丈夫です」
ㅤと冷たく断る。
ㅤ絞り出した小さな勇気が、車内の床にぽとりと落ちた。

『小さな勇気』

1/26/2025, 12:55:46 PM


ㅤ平日のフードショップはがら空きだった。向かい合って座った私たちは、キリンの描かれた紙コップに刺さったフライドポテトを齧る。歩きどおしで一時間。
「思ったより楽しいね、動物園」
ㅤ彼女の言葉に私はホッとした。
「だよね。私も、ここまで楽しめるとは思って無かった」
ㅤこういう時は、自分の家でもない、ひとりでもないところに居た方がいいんだよ。
ㅤそう諭されてやってきた場所だった。「どこ行きたい?」と訊かれて、あの人ともひとりでも来たことのない場所が浮かんだ。ここを選んだ理由はただそれだけだったから。
ㅤカウンターから「お待たせしました、パンダだんごの方ー!」と声が掛かる。立ち上がりかけた私を制して、彼女が背を向ける。運ばれた軽食の可愛らしさに私は声を上げた。
「八回目」と彼女が笑う。
「なにが?」
「あんたが今日『わぁ!』って言うの」
ㅤきょとんとする私。
ㅤ割っちゃったら勿体ないね、と、彼女は湯気を立てる団子にフーフー息を吹きかけた。私が猫舌だと知っているから。
「そういうところ、わたしは好きだよ。もっと言わせたくなる」
ㅤ勿体ないね。本当に勿体ない。
ㅤ彼女が静かに繰り返す。「何が?」と訊き返す前に、湯気の引きかけた焼き団子が、目の前に差し出された。
ㅤ思わず口を開きかけたけど、思い直してお菓子を奪い取り、まだ熱さの残るそれに思い切りかぶりつく。耳の奥がなぜかキンとした。


『わぁ!』

1/25/2025, 2:03:23 PM

ㅤたとえばあの角を曲がった先に。
ㅤたとえば電車を待つホームに。
ㅤたとえば道端のコンビニに。
ㅤ柔らかな髪の長身がふらりと立っている。
ㅤ私を見つけた唇が「びっくりした?」ってふわりと笑う。
ㅤ泣き笑いの顔になって私はあなたに駆け込む——

ㅤ聞こえてきたアラームに、のろのろと手を伸ばした。結局ほとんど眠れなかった。引きずられる毛布のような身体。
ㅤズキズキする目をこすり、リビングのカーテンを開けた。日差しも街路樹もくすんだまま。色を失くした世界の続きに、今朝も私は生まれてしまった。

ㅤ別れは終わりだなんて嘘だ。
ㅤあなたとはぐれてしまった世界で、私はあなたとまだ生きている。


『終わらない物語』

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