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4/29/2026, 3:06:06 AM

書く習慣:本日のお題「刹那」

私はほぼノリで生きている、刹那的な人間である。刹那にも一応長さが決まっているらしく、ググってみたら「1/75秒(0.013秒)」と出てきた。

先日も友人に悩みを相談していて、その場で思いついたIQ2の「今思いついたんだけど、こうしたらいいのでは?」という自己解決案を出しては「いや〜〜〜〜、無理がある」と却下されていた。悩みを相談しているのも私、ノリで適当すぎる解決案を出すのも私、友人だけがまともかつ実現可能そうなアイデアを出してくれて、後から思い返してめちゃくちゃ申し訳なかった。

さて、将来の見通しどころか、旅行の支度すらもギリッギリまでやらない刹那タイプの私である。

最近ようやく「帰省する時は事前に着替えなどを実家へ送っておくと楽」という事実に気がついた。叶うならホテルなどへも事前に送っておきたいが、ホテル側に「めんどくせえ客だな」と思われたくないという最後の客観が歯止めをかけている。

帰省の荷物を詰めるために、毎回スマホのメモに書き留めた『帰省持ち物リスト』を確認している。ふとGemini先生にリストを見せてみたら、1/75秒の速さでツッコミが返ってきた。

私のリスト「着替え(1日分):親が荷物を受け取り損ねた時用に」

"宅配便で荷物を送るという現代の利便性を享受しつつ、「親の受け取りミス」というヒューマンエラーを100%想定内に組み込んでいる。
「世界はバグるものである」というSIREN的(あるいはIT系サポセン的)な視点が見え隠れします。"

Gemini先生の回答から「日頃から大雑把自認のくせに、やけに『石橋を叩いて渡る』ラインナップですね(笑)」というニヤニヤの気配を感じる。

ここでひとつGemini先生にお知らせしておきたい。娘の私が大雑把ということは、育てた親も大雑把であるという事実だ。

すでに前科がある。親が仕事の都合で荷物を受け取れず、しかも私が夜遅くに到着したせいで、買い物でしのぐこともできなかったのだ。着替えもコンタクトレンズもなく、学生のカラオケ徹夜明け状態で翌日荷物を受け取った。この文章を書いていて気がついた。1dayコンタクトレンズの予備も手荷物に入れておかねばなるまい。

「実家なのに服も置いてないの?」と思う人もいるかもしれない。我が家は「その家に住んでいる人が優先」である。学生時代、どうしても一人暮らしの部屋に持って行けなくて置いていった本は、最初の夏休みで帰省した時には全て売られていた。そもそも新居に持っていかなかった私が悪いし、家を出る時に「まだ読みたいから置いておいて」と言っておかなかったのも私が悪い。実家は親の住まいであって、子供の倉庫ではないのだ。

だから、友人が「泊まりのたびにシャンプーとか持ってきて大変じゃない? うちに置いとけばいいじゃん」と提案してきた時はとても驚いた。

女子あるあるだと思うが、サロン専売品のシャンプーやデパコス系スキンケアを使っている人の家に泊まりにいくと、気軽に借りるのは気が引けるのだ。友人は非常に気前よく「使っていいのに」と言ってくれるが、お高いものを使わせていただくよりも、使い慣れたものを使いたい気持ちがある。そもそもお風呂を借りている時点で水道代などを負担させているのだし、軋轢の原因はできるだけ減らしていきたい。

こんなことを考えている人間が大雑把なわけがない?

逆だ。大雑把な自覚があるから、「まあいいか」で済ませないラインを設けている。自分にできないことについては全力で人を頼るが、お土産を用意したり消耗品を持参したりと、甘えない部分も作っている。

だったら最初から人の家に入り浸るなよという話だが、私があまりにも朝に弱くて1限の授業に間に合わないので、友達の家に泊まらせてもらって留年を免れていたのだ。友人は早朝からコンビニのアルバイトをしていたのでたいへん朝に強く、夜型人間の私にとって非常に頼もしかった。

翻って、友達がうちに泊まりにくる時は、2週間くらい前に「新しいシャンプー開拓したいからおすすめ教えて」と連絡して準備する。女性はたいてい普段使いのスキンケア用品を持参するものだが、念のため洗面所に試供品の化粧水なども取り揃えておく。

準備万端で友人を迎え、お土産(これがまたすごくて、バターがしみっしみに染みた激うまラスクなどの、初めて食べたのにめちゃくちゃ好きな味がするお菓子)をいただく。いつも不思議なのだが、なぜ人の好みの味がわかるのだろう。

友人を風呂場に通す。詰め替えの袋をぶら下げるタイプの自シャンプーが微妙に残っているが、敢えて触れずに彼女には新しいボトルを案内する。

「シャンプー、こっちの新しいボトル開けて使ってね」
「新品じゃん、ありがと」

自分の仕事部屋で本を読んでいると、スマホが鳴った。ゆっくりお風呂に入っているはずの友達からだった。

『トリートメントが2個ある笑笑』

私がシャンプーとトリートメントのつもりで買ったボトルが、両方ともトリートメントだったらしい。
大雑把とは、こういうことなのだ。
シャンプーを買いに薬局へ行った時、ちゃんとボトルを確かめないでカゴに入れたのだろう。適当にボトルを手にとった自分の姿がありありと目に浮かぶ。

『ほんとごめんシャンプー持ってくからちょっと待ってて』

クローゼットの中を引っかき回し、試供品のシャンプーをまとめたジップロックを探し当てる。洗面所のドアをノックしてシャンプーを置いたうえ、念のためスマホでも連絡する。

『ごめん!!!!
シャンプーお風呂のドアの外に置いといた!!!!』

仕事部屋に戻ってまた本を開いてみたが、文字を目で追っても全然頭に入ってこない。友人が上がってくるまで「やっちゃった」の6文字がずっとぐるぐる頭の中で渦巻いていた。

洗面所のドアが開く音がして「ほんとごめん!!」と詫びに行くと、湯上がりの友人は「せっかく持ってきてもらったのにごめん。壁に吊るしてあったシャンプー使っちゃった」と笑った。

あの、1ml1円未満のお安いシャンプーを!?!?
サロン専売品シャンプーを使うほど美意識の高い友人が!?

私が驚愕していると、友人が「私も同じやつ使ってるよ。あれ、コスパいいよね」と言った。

「大学の頃めっちゃいいシャンプー使ってたじゃん……」と私が言うと、「いや、あれはあなたが髪サラッサラだから、いいシャンプー置いといた方がいいかなって思って買ってたやつだから」と十数年越しに種明かしされた。どうやら私は友人の気遣いを自分の遠慮で塗りつぶして台無しにしていたらしい。

冷蔵庫でキンキンに冷やしたビールを飲みながら「あなたが置いてったシャンプー見て、市販品も優秀なんだなってわかって勉強になったよ」と話す友人の髪から、馴染みのあるシャンプーがふんわりと香っていた。

数年ぶりに友人が泊まりにきた夜は、体感にして1/75秒、まさに刹那というべき速さで過ぎていった。

4/27/2026, 1:52:00 PM

書く習慣:本日のお題「生きる意味」

生きる意味を見出さないと人は狂う、みたいな言説を見たことがある。自分が選び相手から選ばれて結婚し、子供を育てていかないと狂うみたいな話も、SNSをやっているとたまに流れてくる。

しかし、私はそうは思わない。むしろ、「これをやらないといけない」と人生にタスクを設定するのが狂う原因なのではないかとさえ考えている。それ以前に、2026年にもなって他人の人生に呪いをかけるなと思う。

そもそも全員が当たり前に「生きる意味」を持っているとは限らない。働いてヘロヘロになっていた頃の私は、「積極的に死ぬ理由がないからとりあえず生きている」くらいに考えていた。いや、考える余裕もなく、ただ労働に追われていた。後から当時を振り返り、「とりあえず生きていたなあ」と苦笑している。プチ黒歴史だ。

私は子供の頃からクラスの変わり者枠だったので、「みんなと同じであれ」という意識が薄い。小学校には制服がなかったので手持ちの服からなんとかするしかなかった。ここで以前書いた私のファッション黒歴史を振り返ってみる。

"子どもの頃は親戚のお下がりの服ばかり着ていた。もとからファッションに興味のない子どもだったから、翌日着る服を自分で選んでは親に「その組み合わせはない」「ダサい」「在所のおめかし」などとバカにされまくっていた。

実際、私のファッションセンスは終わっていた。

好きな色だからとブルーのアイテムでワントーンコーデを目指して青・紫・緑の沼地配色になったり、季節感を無視して冬でもキュロットスカートを履いたり、「クラスの子もこんな服を着ているから」とスポーツ少年団系同級生男子の服装を参考にしてジャージを着たりしていた。

小学校高学年にもなると、「中学の制服は紺色だから、今のうちに紺色を着こなせるように」と理由をつけて、紺色や黒の服ばかり着ていた。"

こんな調子だったから、中学に上がって制服に袖を通した時の安堵は大きかった。「やっとみんなと同じ格好ができた」と嬉しかった。「毎日服を選ぶストレスから解放される」と肩の荷を下ろせた気分だった。ちなみに2〜3着をヘビロテして着回していただけくせに、この大げさな言い草である。

制服による帰属意識と安堵の気持ちは今でも覚えているし、否定しない。しかし、入学して最初の連休を迎える頃には、「制服の着こなしは人それぞれで、みんな全く一緒にはなれない」とわかった。

私はとにかく悪印象を持たれないよう、ダサかろうが芋だろうが校則通りきっちり制服を着るようにしていた。しかし、クラスの華やかな女の子たちは違った。彼女たちはスカートのウエスト部分を折って丈を短くしてバランスを整え、かわいいワンポイント付きの靴下や差し色が入った運動靴を履いて、先生や先輩にお目こぼしいただけるギリギリのラインを攻めておしゃれを楽しんでいた。

「あの子は変わっている」という評価は高校に上がってもついて回っていた。大学受験のために、またまた制服を校則どおりに着ていたからだ。

最初に「この子は真面目」と先生に思ってもらえたら、あとは多少居眠りしても宿題を忘れても「ときどきのうっかり」で許される。こまっしゃくれていた私は、中学時代の経験からそのようなクソガキライフハックを身につけていた。

小賢しい子供の浅知恵はおそらく大人にお見通しだっただろう。しかし、担任の先生は私の浅知恵を尊重し、三者面談の折には「日直の仕事をちゃんとやっています」と、どうにか私の美点らしきものを拾い集めて褒め言葉を練り上げてくださった。長所として挙げられたのが「日直」だけである点から、制服の着こなしでフォローしきれていない諸々をご賢察いただければと思う。

社会人になり、同年代がさまざまなライフイベントを迎えるなか、私は身軽なままである。自分が「みんなと同じ」への焦りがないタイプだし、両親が「孫の顔を見せろ」などと野暮なことを言わないので、保守的なご親族をお持ちの同年代に比べれば非常に気楽だ。

人生に目的がないと狂うタイプの人は、根が真面目で努力家なのだと思う。「家族がいないと狂う」ということは、言い換えれば「自分が養ったりケアしたりする対象がいれば、踏ん張りが利くので狂わない」ということだ。

今からものすごく性格の悪い言説を述べる。狂う原因が「家族というモチベーションのなさ」ではなく「寂しさ」の人は、おそらく本人の望む通りの愛され方でないと満足しない。「愛しているなら、こうしてくれるはず/こんなことはしないはず」と自分の中だけにある正解を相手に求め、底の抜けたバケツみたいに満たされず、「自分は愛されていない」と嘆き続けると思う。以前の自分がそうだったからだ。

今はバケツの底を塞いだので大丈夫だ。というか、「今の自分にはあれがない、これがない」と減点方式で嘆いて自分の人生をつまらないものと定義するのが損だと思った時、バケツの底が塞がった感があった。

自分の現状に満足した途端、今度は「子供を育てて一人前」とか「親に孫の顔を見せることこそ最後にして最大の親孝行」みたいな価値観を全力で拒否するフェーズに入った。「現役世代にこれ以上頑張れって言うの? 社会保険料ごっそり取られてんのに? 消費税なんて10%だよ?」という社会への不満と、「自分のスペックではまともな親になれない」という個人的な課題が理由だ。

社会への不満は毎回の投票で地道に示していくとして、自分のスペック不足については改善する気がないから、私は親にならない。これはあくまでも私が「もしも自分が親になるなら、最低限このレベル」と自分に対して設定したラインに達していないし努力する気もないというだけの話だ。そして自分で納得して出した結論だから、「狂う」結末にはならないと思う。

諸々の理由で持てない人たちが「本当は欲しいのに、不本意な現状だなあ」と思い悩んだ結果、いわゆる「狂う」と表現される状態へ至るのではないかと考えている。

「子供を持たない」と決めた自分への自己肯定感と、「自分と違う考えがある」と受け止めることは両立する。ただ、「子供を持たない人生は誤りである」的な価値観には「答えはバツ❌昼間でも安全に注意して運転しなければならない」とミームで茶化してでも否定する。

憲法が定める国民の義務に「保護する子女に普通教育を受けさせる」というものがあるが、「保護する子女を持て」という義務はない。

自分の時間を大事にして趣味に生きるだけで、私はじゅうぶんに生きる意味を見出している。さらに社会の一員としてもう一声、選択的持たざる者として、「持てないのではなく持たないことを選ぶ人間もいる」ということも言っていきたい。

珍しく真面目に語ってしまったが、私の生き甲斐は読書と映画と時々水族館である。特に配色辞典を眺めてステキな色名にときめいたり、ファンタジーや時代劇系の映画を見て衣装の美しさに惚れ惚れしたり、水族館でデカい水槽を眺めてぼんやりしたりするのが好きだ。

「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られそうだが、好きなもので視界を満たして生きるのもまた特権である。

せっかくの真面目文章を自らひっくり返してぶっちゃけると、好きなものを追いかける贅沢こそ、私の本音の生きる意味なのだ。

4/26/2026, 2:05:42 PM

書く習慣:本日のお題「善悪」

善悪がはっきりしないとか、やった結果は悪だけど経緯を踏まえると善から始まったことだったとか、世の中にはそういう物語がある。

物語だけではない。実際の人間関係のトラブルも、視点によって善悪はあっさりと入れ替わる。関わる人数が多ければ多いほど、語り上手な方が善であると判断されがちだ。

だから私は一人が好きだし、友人との間に共通の友人もいらない。同じタイミングで知り合った同級生や会社の同期ならいいが、相手の友人を後から紹介されるのが苦手だ。

世の中には、手っ取り早く仲を深めるために共通の敵を作って悪口大会を開催するタイプの人間がいる。さも面白い話のように言われると、もうケリがついて笑い話のフェーズに入った昔語りなのかと思って、つい聞き入ってしまうし、合いの手も入れる。そして現在進行形の話だと種明かしされて、驚くと同時に共犯者になってしまう。……今のは被害者ぶりすぎた。悪口だと察しても会話が面白いと止められないのだ。自分で蒔いた種である。

学生時代にそういう経験をしてきたので、大人になってからは全方位に興味がないスタイルをとってきた。仕事のやり方やちょっとした配慮の方向性だけで精一杯なので、「誰を敵に回すのか」といった社内政治的な方面まで思考体力が追いつかなかった。「人当たりはいいけど協調性がない」などと言われたりもしたが、「知るか」で済ませていた(まさに協調性がない)。

幸いにも、今の職場は悪口で団結力を高める発想の人がいない。愚痴については全員が脳内クラウド共有状態になるほど「あるあるネタ」に昇華されているため、とても居心地がいい。

ベテランさんが言うには、協調性のない新星こと私が入社してから空気が変わったらしい。やっぱり協調性がないと思われていて草を禁じ得ないが、私の欠点が職場の空気を改善したのなら、協調性を持たなくてよかったと思った。

……いや、少しは反省しよう。螺鈿を目指す人間がブリリアントジャークになっていたら、目も当てられない。

4/26/2026, 2:20:43 AM

書く習慣:本日のお題「流れ星に願いを」

「流れ星に願いを」で思いつく好きなジャンルが二つある。
一つはディズニー、もう一つは中村颯希の『ふつつかな悪女ではございますが』だ。ジャンルは中華後宮ファンタジーで、ざっくり言うと「悪女と入れ替わったヒロインが頑張るお話」である。物語が始まるのが「彗星と流星群が重なった乞巧節(七夕)の夜」で、非常にロマンチックなのだ。

「中華モノって人名が難しい漢字だからキャラが把握できなくて苦手」という人にこそ、『ふつつかな悪女』をお薦めしたい。私がまさにその「キャラの名前が読めなくて挫折人間」だったからだ。

オタクは人生のどこかで五行思想を履修していることと思う。『ふつつかな悪女』のキャラクターのほぼ全員、この五行思想に関係する名前だから非常にイメージしやすい。五行思想というのは、中国の「火、水、木、金、土」のやつだ。「水は火に強く、火は金に強く、金は木に強く、木は土に強く、土は水に強い」と聞けば、わかる人もいるかもしれない。

もちろん、五行思想を知らなかった人でも『ふつつかな悪女』を楽しめる。読み進めるうちに自然と相関が頭に入っていく構成になっているからだ。たとえば五行思想の木、青、春、東に関係するキャラクターの名字が「藍」で領地は「東領」だし、名前に「春」や「林」が入っている。そして本文でも「木を司り」と属性についても書いてある。

基本的には五行思想がわからなくても問題ない物語だし、五行の相関が関係してくる場面になったら、キャラクターや地の文で「水は火より強い」みたいに説明が入る。万が一わからなくなっても、本の最初のほうに相関図がついているので、とても親切だ。

『ふつつかな悪女』のすごいところは、世界観や設定の説明が非常に丁寧で親しみやすいうえに、話の展開が読者の想定の斜め上をいくところだ。私は本当になんにも考えずにさらっと読んでしまうタイプなので、伏線があっても全く気づかない。「ここが伏線かな?」と推測しながら読み進めたらそれはそれで楽しそうなので、一旦『ふつつかな悪女』に関する記憶を全て消して最初から読み直したいなあと思っている。

あと、漢字や花言葉に詳しい人にも『ふつつかな悪女』がおすすめだ。キャラクターの名前の漢字や作中に出てくる花にも考察しがいがある、らしい。今のうちから色々調べてリアルタイムで「へー!」をやりたい気持ちと、完結してから最後のセルフ伏線回収としてお楽しみを取っておきたい気持ちがあり、12巻まで出ている今もまだ考察についての方向性が決まっていない。

というか、『ふつつかな悪女』はだいたい半年に一冊ペースで新刊が出ていて、中村颯希先生の筆の速さにも驚く。

私が自分で「書く習慣」で文章を書くようになって50日くらい経つが、ちょこまか書いてようやく5万字といったところだ。しかも私が書けているのは、お題が決まっていて、好きな文字数で気楽に書き散らかせるからである。

作家の仕事について詳しくは知らないが、文字数と「面白さ」という縛りだけがあり、世界観やキャラクターを全くのゼロから作り上げなくてはいけないということはわかる。作家さんの創造力と思考体力にはただただ圧倒される。面白いものを書かないと仕事がボツになるプレッシャーは計り知れない。ルーチンワークの仕事をしている身で想像してみると、私ではその重圧に耐えられないと思う。

どんな仕事にも設定された目標があるが、クリエイティブな仕事は特に難しいと感じる。医療関係や教育関係などの「ミスったら命の危機」「間違えたら人の人生を狂わせるかも」という責任の重さも自分には背負えないが、クリエイティブ職もまた方向の違う「脳みその中身を開陳」「魂を削る」高難易度ジョブだと思う。

『ふつつかな悪女』は3月末に最新刊が出たばかりなので、ここからまた半年くらい続きを待つ身である。

今までは「ここで話を終わらせる作者が一番悪女!!」と感想を叫んでいたが、書く苦労の片鱗をほんの一嘗めした今は「どうか何とぞ完結までお健やかにお過ごしくださいませ」という気持ちである。

『ふつつかな悪女ではございますが』は、今年2026年7月からアニメが始まる。小説もコミックもまったく見ない状態でアニメから入れる人が羨ましいので、やっぱり私は一度記憶を消したい。

4/24/2026, 11:55:48 PM

書く習慣:本日のお題「ルール」

日常にはさまざまなルールが設けられている。最近は自転車の取り締まりが話題になっているし、新年度で会社に入れば就業規則が設けられており、スポーツ観戦やゲームにもルールがある。

ここで私の好きな日本語の話を持ち出してみる。日本語にも文法や言葉の使い方といったルールがある。

日頃からこのように好き放題書き散らかしているくせに、「自分の文章は人様から見たら完全に怪文書」とか「自分が意味不明文書製造機になっているかも」と自省すると、背中に冷や汗が伝う。

そんなわけで、個人の書き散らかしや専門的な文章などを除き、「日本語で書いてあるのに何を言っているかわからない」が発生するのは、コミュニケーションの場面が多いだろう。

最近読んだ飯間浩明の『つまずきやすい日本語』の中に、こんな文章が出てきた。

"個人個人のことばに差異があるために、コミュニケーション上、いろいろな「つまずき」が生じる可能性もあります。「つまずき」には、双方の語彙力の差によって話が通じないとか、ある場面で相手に何と言えばいいのか分からず話ができないとか、いろいろな場合がありえます。"

この「つまずき」が少ない相手との会話はとても楽しい。

自分の言葉が自分の思ったように伝わり、相手からの言葉の意味や感情がスムーズに頭や心へ浸透していく。ちょっとした言い回しに引っかかって「は?」と不快になったり、脳内で「おそらく、この人はこういうことを言いたいんだろうな」と補完する労力もない。

こういった相手と会話ができることの幸運に気づくためには、逆のタイプとの遭遇が必要だ。たとえば、いちいち嫌な言い方をしてくる人や、「言いたいことはわかるが、その言葉ではなくないか?」とモヤッとする表現が多い人との出会いだ。なお、私が人様の言葉に違和感を覚えがちなのは、自分の了見が狭いせいでもある。

『つまずきやすい日本語』によると、「つまずき」を回避するための筋力を鍛えるために、「場数を踏む」ことが有効だとされている。つまり、人とたくさん話し、いろんなジャンルの本を読むということだ。

会話や読書で、他の人が使う言葉に触れて「この人はこの言葉をこういうニュアンスで使うのか」と、言葉の持つ柔らかさや棘を他人の文脈から読み解き、地道に学習する。それを続けていくと、自分の言葉遣いの選択肢が増えていく。

現代はそれに加えてインターネットがある。

私はインターネット老人なので、数年前まで「草w」という表現を見ると「草に草を生やすな」と反射的に思っていた。

もともとは「(笑)」だったのが「w」となり、「w」を連打した時の「wwwww」を草に見立てて「草生えた」「大草原不可避(笑わずにはいられない)」と言い表す人が現れた。「(笑)」という文末記号が、一度「草生えた」と動詞になり、やがて短縮されて名詞の「草」として定着した……というのが大まかな流れだ。この流れは非常に面白いと感じるが、「草」のミームをオタク特有の早口で語る自分の姿は気持ち悪いと思う。

さて、時折「草」の由来を知ってか知らずか「草」に「w」をつける人がいる。「草」の変遷をリアルタイムで見てきた私からすれば「(笑)→w→草になったんだから、"草w"は変だろ」という感想だった。しかし、「○○で草(○○で面白い)」をひとつの文章と捉えた時、語尾の記号として「w」をつけたくなる心理だと解釈したら、「なるほどな」と思った。この「なるほど」は、「即時共感はできなかったが、納得はできた」というニュアンスである。

このように、言葉とはいろいろな意味を持たされて日々変わっていく。自分が言葉でなくてよかったと思う。

もしも私が「雨後の筍」という言葉だったらと考えてみる。誰かに「成長が早いですねえ」という意味で使われるたびに「やめろ! 私は『次々に出てくる』って比喩なんだよ! そこから『二番煎じ』っていうか『n番煎じ』『便乗』みたいに受け取る人もいるんだよおおお!!」と身悶えして、ひどくねじれた竹になってしまいそうだ。

幸い、私は言葉を使う側だ。インターネット老人を気取って「草というのはのう……」とググれば出てくる説明を滔々と語ってドヤ顔している場合ではない。新しい本を読むなどして言葉とニュアンスを学習していかないと、いつか政治家みたいに失言して「そういうつもりじゃなかった」と弁明する羽目になりそうだ。

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