書く習慣:本日のお題「ルール」
日常にはさまざまなルールが設けられている。最近は自転車の取り締まりが話題になっているし、新年度で会社に入れば就業規則が設けられており、スポーツ観戦やゲームにもルールがある。
ここで私の好きな日本語の話を持ち出してみる。日本語にも文法や言葉の使い方といったルールがある。
日頃からこのように好き放題書き散らかしているくせに、「自分の文章は人様から見たら完全に怪文書」とか「自分が意味不明文書製造機になっているかも」と自省すると、背中に冷や汗が伝う。
そんなわけで、個人の書き散らかしや専門的な文章などを除き、「日本語で書いてあるのに何を言っているかわからない」が発生するのは、コミュニケーションの場面が多いだろう。
最近読んだ飯間浩明の『つまずきやすい日本語』の中に、こんな文章が出てきた。
"個人個人のことばに差異があるために、コミュニケーション上、いろいろな「つまずき」が生じる可能性もあります。「つまずき」には、双方の語彙力の差によって話が通じないとか、ある場面で相手に何と言えばいいのか分からず話ができないとか、いろいろな場合がありえます。"
この「つまずき」が少ない相手との会話はとても楽しい。
自分の言葉が自分の思ったように伝わり、相手からの言葉の意味や感情がスムーズに頭や心へ浸透していく。ちょっとした言い回しに引っかかって「は?」と不快になったり、脳内で「おそらく、この人はこういうことを言いたいんだろうな」と補完する労力もない。
こういった相手と会話ができることの幸運に気づくためには、逆のタイプとの遭遇が必要だ。たとえば、いちいち嫌な言い方をしてくる人や、「言いたいことはわかるが、その言葉ではなくないか?」とモヤッとする表現が多い人との出会いだ。なお、私が人様の言葉に違和感を覚えがちなのは、自分の了見が狭いせいでもある。
『つまずきやすい日本語』によると、「つまずき」を回避するための筋力を鍛えるために、「場数を踏む」ことが有効だとされている。つまり、人とたくさん話し、いろんなジャンルの本を読むということだ。
会話や読書で、他の人が使う言葉に触れて「この人はこの言葉をこういうニュアンスで使うのか」と、言葉の持つ柔らかさや棘を他人の文脈から読み解き、地道に学習する。それを続けていくと、自分の言葉遣いの選択肢が増えていく。
現代はそれに加えてインターネットがある。
私はインターネット老人なので、数年前まで「草w」という表現を見ると「草に草を生やすな」と反射的に思っていた。
もともとは「(笑)」だったのが「w」となり、「w」を連打した時の「wwwww」を草に見立てて「草生えた」「大草原不可避(笑わずにはいられない)」と言い表す人が現れた。「(笑)」という文末記号が、一度「草生えた」と動詞になり、やがて短縮されて名詞の「草」として定着した……というのが大まかな流れだ。この流れは非常に面白いと感じるが、「草」のミームをオタク特有の早口で語る自分の姿は気持ち悪いと思う。
さて、時折「草」の由来を知ってか知らずか「草」に「w」をつける人がいる。「草」の変遷をリアルタイムで見てきた私からすれば「(笑)→w→草になったんだから、"草w"は変だろ」という感想だった。しかし、「○○で草(○○で面白い)」をひとつの文章と捉えた時、語尾の記号として「w」をつけたくなる心理だと解釈したら、「なるほどな」と思った。この「なるほど」は、「即時共感はできなかったが、納得はできた」というニュアンスである。
このように、言葉とはいろいろな意味を持たされて日々変わっていく。自分が言葉でなくてよかったと思う。
もしも私が「雨後の筍」という言葉だったらと考えてみる。誰かに「成長が早いですねえ」という意味で使われるたびに「やめろ! 私は『次々に出てくる』って比喩なんだよ! そこから『二番煎じ』っていうか『n番煎じ』『便乗』みたいに受け取る人もいるんだよおおお!!」と身悶えして、ひどくねじれた竹になってしまいそうだ。
幸い、私は言葉を使う側だ。インターネット老人を気取って「草というのはのう……」とググれば出てくる説明を滔々と語ってドヤ顔している場合ではない。新しい本を読むなどして言葉とニュアンスを学習していかないと、いつか政治家みたいに失言して「そういうつもりじゃなかった」と弁明する羽目になりそうだ。
4/24/2026, 11:55:48 PM