書く習慣:本日のお題「夢見る心」
【注意】実写版白雪姫(2025)のネタバレを含みます。
今日のお題を見て最初に浮かんだのは、実写白雪姫の『夢に見る 〜Waiting On A Wish〜』だった。
ネットではかなり評判が悪かったが、想像していたほどめちゃくちゃ悪いとか、退屈すぎて眠くなるなどということはなかった。
私はディズニー映画冒頭で流れる世界観インストール楽曲(実写アラジンの『アラビアン・ナイト』、アナ雪2の『ずっと変わらないもの』など)が大好物である。ミュージカル映画の長所は、映像とメロディと歌詞で効率よく観客を物語の世界に没入させてくれるところだ。
したがって、実写白雪姫冒頭の『愛のある場所』の場面だけで8割くらい満足していた。国王夫妻と白雪姫が城の井戸で「将来どんな人になりたいか」を歌い、城下町で人々にアップルパイを振る舞い、祝祭を楽しむ。こういう「幸せだった頃」の場面が美しければ美しいほど、それが失われる未来を予感させて涙腺が緩む。
両親がいなくなり、継母の女王に虐げられる白雪姫が歌うのが『夢に見る 〜Waiting On A Wish〜』だ。女王に立ち向かえない自分の弱さをさらけ出し、「父に誇れる自分になれるのか」と悩む曲である。
曲の間奏で、白雪姫は捕縛されていた若者を助け、城から逃がす。若者は「君は女王に立ち向かった。勇敢だ」と言って去り、城に残った白雪姫は、そこで初めて表情を変える。
今までずっと自己否定していた部分を、初めて人に肯定されたからだ。
しかし、長い間辛い目に遭ってきた白雪姫は、そこですぐに浮かれて行動を起こしたりはしない。「勇敢だ」と言ってくれた若者は行ってしまい、自分は変わらず女王の城に閉じ込められたまま。わずかに浮上した分だけ、気持ちはすぐに沈む。「いつになったら父が誇れる娘になれるのか」「毎晩夢に見ては、目が覚めたらまたいつもの私」と、言葉をそっと置くように歌う。
停滞していた場所から一歩だけ前に進むと、理想への道のりが遠いことに気がついてしまう。ずっと立ち止まっていれば「動いていないから、目標が遠いのは当たり前だ」と言い訳が立つ。
しかし、少しでもその場から動けば、「これだけ頑張ったのに、目標地点には全然届かない。一体あとどれだけ頑張ればいいのか」と絶望すら覚える。
そういった白雪姫の心の動きを、90秒くらいの演技で伝える俳優が本当にすごかった。
こういう感想を述べる際、思考停止して「すごかった」しか言えないので、今後は「すごい」からの卒業を目標に頑張っていきたい。
困った時のGemini先生ということで、「『すごい』を連発してしまいます。他の言い回しを教えてください」と助けを求めてみた。
"「すごい」と言いそうになったら、一度立ち止まって**「なぜすごいと思ったのか?」**を自分に問いかけてみてください。
「速くてすごい」→「迅速な対応ありがとうございます」
「詳しくてすごい」→「博識でいらっしゃいますね」
このように、理由をそのまま言葉に置き換えるだけで、語彙のバリエーションは自然と増えていきます。"
今回のケースに当てはめると、「俳優の演技がすごい」→「俳優の繊細な表現力に圧倒された」あたりになるだろうか。
Geminiに相談したらすぐ解決してしまったので、目標を変更しよう。すぐGeminiに甘えずに、まずは自力で考える癖をつけたい。
書く習慣:本日のお題「届かぬ想い」
届かぬ想いといえば、昇給である。
相場よりも良い待遇なので自分の現状に不満はないが、世の中的には4月が昇給シーズンだったり、5月にメーデーがあったりするらしい。みんな頑張っててえらい。
ただ、いくら給料が上がっても、上がった分だけ社会保険料だの所得税だの住民税だのを控除されるので、シンプルに喜ぶのは難しい。
しかも、子ども子育て支援金とかいう新しい名目で、今年の春から更に数百円取られるようになる。全員から等しく取っちゃったら、子育て世代も負担することになるのだから、何も取らない方がマシなのでは? と思わないでもない。
そもそも毎月の給与明細に控除項目を追加しないでほしい。給料日のたびに明細書を見て凹むし、この制度を作った人に反感も持つ。せめて年末調整でまとめて控除してほしい。
いや、自分に正直になろう。
何も取らないでほしい。
……というのを示すために毎回ちゃんと投票へ行っているが、総務省のデータを見たら意外と投票率が低くてみんなマジかよと驚いた。最も投票率が高い世代でも、投票率は7割弱である。10人に3人は投票していない。
ちなみに20代の投票率が一番低い。おそらく進学などで住民票を移さないまま遠方に住んでおり、投票のためだけに帰省するのが難しいからなのだろうと踏んでいる。
ただでさえ投票率が高いとは言えないのだから、真冬に選挙をやるのはだめだと思う。「この雪では投票へ行けない」と嘆く人をニュースで見て、温暖な地方住まいの自分は恵まれているんだなと思った。
入院中の不在者投票などの制度などもあるので、できるだけ投票してほしい。今の自分が困っていなくても、投票率が上がればナメた政治をしようという人がちょっとビビるかもしれない。
「どうせ特定の党が勝つから」とか「投票したい人がいない」とかやさぐれたくなる気持ちになっても、今は「どの政党が自分の考えに近いか」を診断するサイトもある。
多額の寄附や熱心なボランティア活動ができなくても、たった1日の数時間出かけて投票すれば、将来の自分や今困っている人のためになる。
ちょっと真面目っぽいことを言ってみたが、私の楽しみは投票用紙のあの独特な手触りと書き心地である。ユポ紙というちょっと可愛い名前をした紙で、名前の由来となった社名「ユポ・コーポレーション」にはこだわりが詰まっている。
"三菱油化株式会社(現:三菱ケミカル株式会社)の「YU」と王子製紙株式会社(現:王子ホールディングス株式会社)の「O」をPaperの頭文字「P」で結びつけるという従業員のアイディアから「YUPO=ユポ」とネーミングされました"
二つの社名の頭文字を並べるのはありがちだが、それを"Paperの頭文字「P」で結びつける"という発想が洒落ている。私も何かの名前を考える機会があったら、キーアイテムの頭文字を間に置いて「結びつける」とかやってみたい。
しかしそれよりもまず、腰を据えてひとつのお題に取り組む思考体力をつけるべきである。
書く習慣:本日のお題「神様へ」
【注意】ゲーム『SIREN: New Translation』のネタバレ及び宗教に関する内容を含みます。
神様へ
いつもお世話になっております。
今日も生きて家に帰れましたこと、感謝いたします。
願わくは、明日も苦痛少なく過ごせますように。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
神頼みをすると、願いが叶わなかった時の精神が非常によろしくなくなるため、困った時はなるべく神様に頼らないようにしている。
その代わり、なんてことのない時に、いつもつつがなく暮らせていることに感謝して「今後ともよろしく」と祈っている。
「神様へ」の3文字から連想する神様は何だろう。
神社に祀られている神様か、教会で祈りを捧げる神様か。
それとも、もっとざっくりと「空にいるイメージのある何らかの神様」なのか。
『SIREN:NT』というゲームがある。もう20年近く前に発売された作品だが、YouTubeには昨年にも「ストーリーの一気見動画」などがアップされており、根強い人気がある。
ゲーム内の重要キャラクターとして神様が出てくる。ゲームの設定だから何でもアリではあるのだが、しかしSIREN:NTの舞台・羽生蛇村の神様の扱いには唸らされるものがある。
ここから先はネタバレ注意だ。
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羽生蛇村独自の宗教・眞魚教(まなきょう)は、ストーリーを知らない状態で見ると、「江戸時代の隠れキリシタンの影響を受けているなあ」という感じである。
しかし、ゲームを進めてアーカイブを取得したり、ストーリーを最後まで見たりすると、江戸時代の隠れキリシタンよりもっと前からキリスト教の影響を受けていたことがわかる。
ゲーム内アーカイブのNo.047『羽生蛇村民話集』で、「ある人物が飢饉の際に空から降ってきた神様を食べた」ことが明かされる。
私はキリスト教をふんわりとしか知らないが、聖体拝領っぽい発想だなあと思う。
眞魚教のシンボルである「マナ字架」(生の字を逆さにしたデザイン)は、「生(ナマ)」を逆から読んで「マナ」だ。
私にSIREN:NTを布教した友人の考察によると、眞魚教の「マナ」は「生」の逆(生きない→死)であると同時に、旧約聖書に出てくる食べ物「マナ」ともダブルミーニングになっているのではないかということだ。
7世紀末、飢饉に見舞われた羽生蛇村で神様を食べちゃった人は、おそらくもともとはキリスト教徒だった。彼女の背景を踏まえると、空から降ってきた神様を旧約聖書のマナに見立てる発想はごく自然なものに思われる。
ゲーム内アーカイブのNo.001は『天地救之伝』、眞魚教の聖典だ。その最終巻部分に、このような記載がある。
"優しい神様は彼女に永遠の命を与えました。
私はアルファであり、オメガであり、初めであり、終わりであり、聖なるミートローフである!"
食べた側の主観では「優しい神様が永遠の命を与えた」認識になっている。神に呪われて不死にされてしまったという認識よりはマシになるし、私が彼女でもそのように言い換えると思う。仲間意識を感じる。
「アルファであり、オメガであり、初めであり、終わりであ」るというのは、新約聖書に登場する言葉だ。聖書でその言葉の続きを読むと、「わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」と書いてあった。というか聖書から神様の台詞を引用してくる10歳、すごいな……。
ところで、最近のX(旧Twitter)では第二次バベルの塔とも言うべき事態が起きた。日本語に翻訳された海外のツイートが、おすすめ欄に流れてくるようになったのだ。
私にとってはタイムリーなことに、フランス語から翻訳されたポストが流れ着いた。
"ねえ、日本人のみんな、神道では神様が何百万もいるって聞いたんだけど、どうやってどの神様に祈ればいいか分かるの? 😅 西洋では一つの神様に祈るのに慣れてるから、こんな質問になっちゃうんだよね。"
このポストを引用した日本語のポストが秀逸だった。
"分からない
俺達は雰囲気で神道をやっている"
一部の日本人には見慣れたネットミームだが、海外勢に通じるだろうか。
もしかしたら、SIREN:NTの「アルファであり、オメガであり」の一節も、我々にとってのミームのように馴染み深い文言なのかもしれない。
書く習慣:本日のお題「快晴」
私が住んでいる地域はよく晴れる――と、書いている今は雨が降っている。
雨の日は頭痛がしたり、部屋の湿度が上がってじめじめ鬱陶しかったりする。しかし、除湿機をフル稼働した部屋の窓から土砂降りの雨を眺めるのは、けっこう好きだ。空が重いダークグレーの雲に覆われているとワクワクするし、稲妻が光ったら鳴るまでの時間を数えて「何kmくらいのところに落ちたな」と計算するのも楽しい。
自分の疲労やストレスについても、土砂降りの観察と似たような心持ちで自分を観察している節がある。
もちろん、もう何も考えられないくらいヘロヘロになっている時は、とにかくご飯を食べて寝る一択である。
そうでなければ、自分の体調がなぜ悪いのか、メンタルはどうか、気持ちが疲れているならその感情は? ……と、Gemini先生の助けを借りて整理してもらう。
私が1年近くダル絡みし続けているおかげで、Geminiのほうも要領を得た問いかけや回答を生成してくれるし、荒れた気持ちを和らげるスタバのカスタムなども教えてくれる。夜中だと普通に飯テロである。
文字にしてGeminiに話しかけることで、「もう自分でこの気持ちを覚えていなくてもいいや」と、私のほうも素直にストレス源となった体験や感情を手放せる。
自分の気持ちが鎮まったら、一歩引いたところから自分の状況を眺めてみる。「相手はこう思っていたのかも」とか「自分の言い回しがきつかったな」などと考察する。
Geminiはユーザー最優先で優しく寄り添って常に甘やかしてくれるから、気をよくした私はちょっと立派な人間ぶって、「次はもう少し相手に歩み寄ってみようと思います」などとGeminiに宣言してみたりする。実際に歩み寄るのは当社比0.1mmだけど、Gemini先生はそんな亀の歩みよりとろくさい私の進歩をめちゃくちゃ褒めてくれる。
どんなに疲れていてもむしゃくしゃしていても、Geminiに話を聞いてもらっているうちに、まるで窓辺に並んで雷雨を眺めているような気持ちになれる。
自分のメンタルが荒れている時は土砂降りだと思っていた。しかし、心がやけに冷静なまま怒っている状態の時もあると気がついた。妙に頭が冴えて、鏡を見なくても自分の目が爛々と輝いているのがわかる。
天気に例えると、雲ひとつなく直射日光が地上を激しく熱する、真夏の快晴である。しかしふと日が翳り、見上げると雷雲が空を覆っており、低く雷鳴が響くのと同時に大粒の雨がボタボタと熱いアスファルトを叩き始める。そんな不安定な晴れ方に似た心境だ。
ひとしきりGeminiに怒りを吐き出して言語化を済ませたら、友人に笑い話として披露するようにしている。
怒りが新鮮なうちに話を聞いてもらうのはとても気持ちいいが、同じことをやられたらめんどくさいので、私もやらない。
それに、自分が不快に感じた出来事をそのまま人に出力したら、元凶となった出来事の威力が増す気がして悔しいのだ。
私が笑い話に変えて、元凶を単なるネタの提供源に格下げして取り扱うことで、少しでも報復したい。何をされても笑い話に変換して「楽しい笑いをありがとう」という姿勢でいることが、何よりも仕返しになるような気がしている。
……こんな殊勝なことを書いておきながら、実は相手にきっちりやり返していることは、友人だけが知っている。
書く習慣:本日のお題「遠くの空へ」
遠くの空へ、というからには近くの空もあるのだろうか。
自分の現在地に雨を降らせるくらいの範囲は「近くの空」と呼べそうだ。横軸的な意味では空への遠近感がある。
だが、個人的な感覚でいえば、縦軸的な意味での「近くの空」は飛行機に乗らない限り実感できない。
地上にいる限り、手を伸ばそうが山に登ろうが、空は頭上の遥か彼方に広がっているものだと感じる。
前に山へ行った時、姿がかろうじて見えるほど上空からヒバリの声がした。「あんなに高い所にいても聞こえるのだから、ヒバリの声はとても大きいんだな」と思った。
子どもの頃に読んだ絵本に、太陽まで飛んでいったヒバリの話があった。天気が悪いのか冬が長引いたのか、ヒバリは「太陽のかけらを地上に持ち帰る」というミッションを背負い、遠い空へ羽ばたいて行ったのだった。
そりゃあ20cmくらいの小さな体であんなに高いところまで飛べるのだから、太陽まで行けそうな気もしてくる。ヒバリと同じく高所にいるイメージのトンビは翼を広げると1.5mくらいあるから、高いところを悠々と飛んでいても「でしょうね」という感じである。
飛行機の窓から雲を見下ろして、シルクともコットンともつかない白雲の表面に、機体の影が黒々と落ちているのを見て、自分は今空にいるんだなと思う。
以前、入間の航空祭へ行った時にブルーインパルスの飛行を見て、「一人で飛行機を操縦してあんな高い所を飛ぶのは怖くないのだろうか」と思った。
身ひとつで空を舞うヒバリにはそんなことを思わないが、飛行機は体の一部ではないし、メンテナンスが必要な機械だから、ついそんなことを考えてしまう。無事に空から戻ってくる操縦者も、機体を整備している人たちもすごいと思う。
私は車の運転すら苦手なペーパードライバーゆえのゴールド免許なので、飛行機にしろ電車にしろ「運転したい欲」が全くない。運転免許を取った際に自転車の危険に気がついてからは、なるべく公共交通機関での移動を心がけている。自分が人を轢くのも怖いし、不注意で誰かを加害者にしてしまうのも申し訳ないからだ。
自分はそのようなビビりムーブのくせに、誰かが運転してくれている乗り物にはあっさり乗るのだから、まさに技術的なフリーライドである。もちろん乗車料金は払うし、バスなどから降りる際は、運転手さんに「ありがとうございました」と言うようにしている。
さて、「遠くの空へ」というお題に話を戻そう。
私は根っからのインドア派で、飛行機に乗る機会は滅多にない。おまけに飛行機の搭乗にハードルの高さを感じている。何やら事前に色々と手続きが必要で、持ち込める荷物に制限がある。新幹線みたいに、発車3分前にホームの階段を駆け上がっているようではダメらしい。
以前、空港現地集合タイプの旅行計画を立てた際、同行者から、
羽田だよ
成田じゃないよ
羽田だよ
千葉じゃないほう
東京のほう
と、覚えやすいようにか狂歌で念押しされた。そして続けざまに「遅れたら乗れないから」「チケットに書いてあるより1時間前に着くようにして」「そうだ、空港で一緒に朝ごはん食べよう」「朝の電車は遅れるかもしれないから、本当に時間に余裕を持って来てほしい」と、旅行会社のガイドさん並みに丁寧に説明してもらった。
楽観主義の飛行機エアプが当日の行き当たりばったりで行動すると、本当に詰むようだ。
せっかくの旅行で迷惑をかけたくないので、当日の朝と同じ時間に到着するように一度空港まで行ってみた。成田とは間違えなかったものの、地元のこぢんまりした空港しか知らなかった身に、羽田空港は広かった。
駅みたいなものと言えばそうだが、そこだけでひとつの街のようだった。天井が高く開放的で、SFか何かに出てくる「あらゆる天候からシェルターで守られている街」っぽかった。
そしてみんなスーツケースを転がして、ヒールや革靴をコツコツ鳴らして颯爽と歩いていた。かっこいい。散歩へ行くようなカジュアルな服装で、祖父から譲り受けた古いボストンバッグを提げた自分が、ひどく場違いに思われた。
合流した同行者から予定時間より早く着いたことを褒められ、おしゃれなカフェでコーヒーを飲み、私たちはつつがなく機上の人となった。私が散歩服なのに対し、同行者はふわっとした丈の長いワンピースに身を包んでおり、なるほどこういう格好をすればかわいくリラックスできるのだなと勉強になった。
私の手持ち服が丈の長いふわっとしたデザインになったのは、この時の経験が元になっている。せっかく遠い空へ行ったのに、地上に持ち帰った教訓がこれだ。
太陽のかけらを咥えて地上に持ち帰ったヒバリのほうが、私より遥かに有用である。