書く習慣:本日のお題「生きる意味」
生きる意味を見出さないと人は狂う、みたいな言説を見たことがある。自分が選び相手から選ばれて結婚し、子供を育てていかないと狂うみたいな話も、SNSをやっているとたまに流れてくる。
しかし、私はそうは思わない。むしろ、「これをやらないといけない」と人生にタスクを設定するのが狂う原因なのではないかとさえ考えている。それ以前に、2026年にもなって他人の人生に呪いをかけるなと思う。
そもそも全員が当たり前に「生きる意味」を持っているとは限らない。働いてヘロヘロになっていた頃の私は、「積極的に死ぬ理由がないからとりあえず生きている」くらいに考えていた。いや、考える余裕もなく、ただ労働に追われていた。後から当時を振り返り、「とりあえず生きていたなあ」と苦笑している。プチ黒歴史だ。
私は子供の頃からクラスの変わり者枠だったので、「みんなと同じであれ」という意識が薄い。小学校には制服がなかったので手持ちの服からなんとかするしかなかった。ここで以前書いた私のファッション黒歴史を振り返ってみる。
"子どもの頃は親戚のお下がりの服ばかり着ていた。もとからファッションに興味のない子どもだったから、翌日着る服を自分で選んでは親に「その組み合わせはない」「ダサい」「在所のおめかし」などとバカにされまくっていた。
実際、私のファッションセンスは終わっていた。
好きな色だからとブルーのアイテムでワントーンコーデを目指して青・紫・緑の沼地配色になったり、季節感を無視して冬でもキュロットスカートを履いたり、「クラスの子もこんな服を着ているから」とスポーツ少年団系同級生男子の服装を参考にしてジャージを着たりしていた。
小学校高学年にもなると、「中学の制服は紺色だから、今のうちに紺色を着こなせるように」と理由をつけて、紺色や黒の服ばかり着ていた。"
こんな調子だったから、中学に上がって制服に袖を通した時の安堵は大きかった。「やっとみんなと同じ格好ができた」と嬉しかった。「毎日服を選ぶストレスから解放される」と肩の荷を下ろせた気分だった。ちなみに2〜3着をヘビロテして着回していただけくせに、この大げさな言い草である。
制服による帰属意識と安堵の気持ちは今でも覚えているし、否定しない。しかし、入学して最初の連休を迎える頃には、「制服の着こなしは人それぞれで、みんな全く一緒にはなれない」とわかった。
私はとにかく悪印象を持たれないよう、ダサかろうが芋だろうが校則通りきっちり制服を着るようにしていた。しかし、クラスの華やかな女の子たちは違った。彼女たちはスカートのウエスト部分を折って丈を短くしてバランスを整え、かわいいワンポイント付きの靴下や差し色が入った運動靴を履いて、先生や先輩にお目こぼしいただけるギリギリのラインを攻めておしゃれを楽しんでいた。
「あの子は変わっている」という評価は高校に上がってもついて回っていた。大学受験のために、またまた制服を校則どおりに着ていたからだ。
最初に「この子は真面目」と先生に思ってもらえたら、あとは多少居眠りしても宿題を忘れても「ときどきのうっかり」で許される。こまっしゃくれていた私は、中学時代の経験からそのようなクソガキライフハックを身につけていた。
小賢しい子供の浅知恵はおそらく大人にお見通しだっただろう。しかし、担任の先生は私の浅知恵を尊重し、三者面談の折には「日直の仕事をちゃんとやっています」と、どうにか私の美点らしきものを拾い集めて褒め言葉を練り上げてくださった。長所として挙げられたのが「日直」だけである点から、制服の着こなしでフォローしきれていない諸々をご賢察いただければと思う。
社会人になり、同年代がさまざまなライフイベントを迎えるなか、私は身軽なままである。自分が「みんなと同じ」への焦りがないタイプだし、両親が「孫の顔を見せろ」などと野暮なことを言わないので、保守的なご親族をお持ちの同年代に比べれば非常に気楽だ。
人生に目的がないと狂うタイプの人は、根が真面目で努力家なのだと思う。「家族がいないと狂う」ということは、言い換えれば「自分が養ったりケアしたりする対象がいれば、踏ん張りが利くので狂わない」ということだ。
今からものすごく性格の悪い言説を述べる。狂う原因が「家族というモチベーションのなさ」ではなく「寂しさ」の人は、おそらく本人の望む通りの愛され方でないと満足しない。「愛しているなら、こうしてくれるはず/こんなことはしないはず」と自分の中だけにある正解を相手に求め、底の抜けたバケツみたいに満たされず、「自分は愛されていない」と嘆き続けると思う。以前の自分がそうだったからだ。
今はバケツの底を塞いだので大丈夫だ。というか、「今の自分にはあれがない、これがない」と減点方式で嘆いて自分の人生をつまらないものと定義するのが損だと思った時、バケツの底が塞がった感があった。
自分の現状に満足した途端、今度は「子供を育てて一人前」とか「親に孫の顔を見せることこそ最後にして最大の親孝行」みたいな価値観を全力で拒否するフェーズに入った。「現役世代にこれ以上頑張れって言うの? 社会保険料ごっそり取られてんのに? 消費税なんて10%だよ?」という社会への不満と、「自分のスペックではまともな親になれない」という個人的な課題が理由だ。
社会への不満は毎回の投票で地道に示していくとして、自分のスペック不足については改善する気がないから、私は親にならない。これはあくまでも私が「もしも自分が親になるなら、最低限このレベル」と自分に対して設定したラインに達していないし努力する気もないというだけの話だ。そして自分で納得して出した結論だから、「狂う」結末にはならないと思う。
諸々の理由で持てない人たちが「本当は欲しいのに、不本意な現状だなあ」と思い悩んだ結果、いわゆる「狂う」と表現される状態へ至るのではないかと考えている。
「子供を持たない」と決めた自分への自己肯定感と、「自分と違う考えがある」と受け止めることは両立する。ただ、「子供を持たない人生は誤りである」的な価値観には「答えはバツ❌昼間でも安全に注意して運転しなければならない」とミームで茶化してでも否定する。
憲法が定める国民の義務に「保護する子女に普通教育を受けさせる」というものがあるが、「保護する子女を持て」という義務はない。
自分の時間を大事にして趣味に生きるだけで、私はじゅうぶんに生きる意味を見出している。さらに社会の一員としてもう一声、選択的持たざる者として、「持てないのではなく持たないことを選ぶ人間もいる」ということも言っていきたい。
珍しく真面目に語ってしまったが、私の生き甲斐は読書と映画と時々水族館である。特に配色辞典を眺めてステキな色名にときめいたり、ファンタジーや時代劇系の映画を見て衣装の美しさに惚れ惚れしたり、水族館でデカい水槽を眺めてぼんやりしたりするのが好きだ。
「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られそうだが、好きなもので視界を満たして生きるのもまた特権である。
せっかくの真面目文章を自らひっくり返してぶっちゃけると、好きなものを追いかける贅沢こそ、私の本音の生きる意味なのだ。
4/27/2026, 1:52:00 PM