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3/17/2026, 12:50:22 PM

書く習慣:本日のお題「泣かないよ」

子どもの頃、泣いているとよく「泣かないよ」とたしなめられた。「泣いててもわかんないよ」とも言われた。

友達と話していて、「笑いすぎて涙出てきた」と申告することがある。「笑いすぎて泣いちゃった」とはあまり言わない。しかし、「笑い泣き」という言葉はある。

楽しくて涙が出るのは「涙が出る」で、悲しかったり悔しかったりして涙が出るのは「泣く」と表現する。どっちにも使えるシチュエーションは嬉しい時だろう。「嬉し涙」も「嬉し泣き」も聞いたことがある言葉だ。

嬉しい時に「泣く」のと、楽しい時に「涙が出る」のは、似ているようで違う。

誰かが泣いていると人は困り、なんとかしなくてはいけないと反射的に思ってしまうのだろう。だから子どもが泣いていると、ひとまず「泣かないよ」と泣き止ませようとしたり、「泣いててもわかんないよ」と原因を突き止めようとする。

大人が「泣いちゃった」と申告すると、困りごと感が出て深刻な感じがする。でも、「涙出てきた」は、あくまでも起きた現象の報告だ。

「笑いすぎて涙出てきた」は、「泣いているわけではない。涙が出るほど面白いだけだから心配しないで」という、その場がどれほど自分にとって楽しいかを申告すると同時に、相手への気遣いを含んだ表現だと思う。
単なる「涙が出てきた」と現象を報告する言葉にも、それ以上の気持ちが載っている。

子どもの頃に戻れたら、「泣かないよ」とたしなめられた時に「悔しすぎて涙出てきた」と言ってみようか。

クソガキすぎるというか、オタク構文っぽくてかなり奇妙だ。

やっぱり黙って泣いているのが子どもらしいのかもしれない。

3/16/2026, 3:40:41 PM

書く習慣:本日のお題「怖がり」

私はかなり怖がりである。

こういう言い方をすると、親切な人は「慎重な性格なんですね」とか「リスク管理ができている」などと素敵な解釈をしてくれるが、そうではない。

怖がりが発揮されるのはホラー映画である。まず、文字だけの原作を読んで内容を理解してからでないと、ホラー映画を観られない。映画で痛そうな場面やジャンプスケアが来ると画面を見られず、ストーリーがわからなくなるからだ。たいていの場合、結末は「除霊完了!すっきり!」などということはなく、「主人公は辛くも逃れられたけれど、怪異は今もそこにある」的な終わり方が多くて後味が悪い。それがホラー映画のいいところでもある。

映画を観た後は、内容を頭から振り払うためにいろいろな努力をする。楽しい本を読んだり、スマホでお気に入りの動画を観たり、おしゃれなカフェでポットの紅茶とケーキのセットを頼んでのんびりしたり。

しかし、どこからか視線を感じることがある。

ベンチで本を読んでいて、ふと目を上げた時。通路の反対側に佇んだ人が、じっとこちらを見つめている。

電車でイヤホンをつけて動画を観ていて、ふと「そろそろ降りる駅かな」と電光掲示板に目をやった時。ななめ前に立っている人が、無表情で私を見下ろしている。

カフェで紅茶のおかわりを注ごうとポットを持ち上げると、少し離れたテーブルの人が私に視線を注いでいた。

そんなにおかしな出で立ちをしていただろうか。今日の服は紺色のワントーンコーデ、ブラウスとレースのロングスカートだ。ちょっと変かもしれないけれど、他人様にじろじろ見られるほど奇抜な格好ではないはずだ。

もしかして、さっきホラー映画に出てきた怨霊が私の肩に憑いているのだろうか。

たちまち脳裏におどろおどろしい幽霊の姿がよみがえる。上映中に目を閉じるのが一瞬遅くて、ちょっと見えてしまっていたのだ。

まずいことに、その日は「この話を知った人のところにも……」系の作品を観てしまった。
今まで観てきた数々の怪異が自分に集まってくる想像が止まらなくなる。怪異が怪異を呼んで怨霊デパートになるやつだ。

今までに観てきたいろいろなホラー映画の主役が頭の中を駆け抜けていく。井戸をよじ登ってテレビから出てくる彼女、奇妙な声をあげながら襲いかかってくる白い彼女、着信音とともに登場する彼女、13日の金曜日の彼、ホテルの管理人をやっていた彼、雨の日の排水溝に潜んでいた彼、炭鉱夫、話題にするとやってくる赤い女、etc.

自分の背後に、白や赤や黒の衣装をまとった怪異が佇んでいるのかもしれないと思うと、背すじがぞくりと粟立ってしまう。

敢えて平然とカップへ紅茶を注ぎ、なるべくおしとやかな所作でポットをテーブルに戻し、気を紛らわそうとスマホを手に取る。

熱い。

慌てて画面を見ると、いつからかわからないほどずっとライトが点いていた。

そうか、みんなこれを見ていたのか。

気づけば充電も残り少なくなっている。ライトがつけっぱなしだったから減りが早かった。

モバイルバッテリーを出そうと鞄に目を向けると、チャックが全開になった鞄からおどろおどろしい映画パンフレットの表紙がこんにちはしていた。ぱっと見、鞄から怨霊の顔が覗いている絵面だ。

そうか、みんなこれを見ていたのか。

スマホライトつけっぱなしで恥をかきつつ、バッグから怨霊の顔面を晒して歩いていた私こそ、この場で一番の怪異だった。

3/15/2026, 1:52:59 PM

書く習慣:本日のお題「星が溢れる」

今日のお題は創作向けだなと思う。

しかし一次創作ができないので、いつものスタイルでいこうと思う。

COSMOSという有名な合唱曲がある。歌い出しの「夏の草原に銀河は高く歌う」からして、空大好きな中学生女子の心を鷲掴みにしていた。青空や夜空の柄のレターセットを見ると、今でも友人の端正な手書き文字が脳裏によみがえる。

中学校の校内合唱コンクールで、クラスの違う友人がその曲を歌っていた。友人は高く澄んだいい声をしていて、もちろんCOSMOSでもソプラノパートだった。合唱曲でもネタ曲でもとにかく高音が余裕で出せるので、本当にすごいと思う。そして音感もあって、音楽のテストは吹奏楽部だった私より運動部の友人のほうが成績がよかった。

一方の私は、アルトパートでもちょっと高いなあと感じるくらい高い音程が苦手だ。小学校の合唱でソプラノに振り分けられてしまった時は、ほぼ全て裏声で歌っていた。
友人とカラオケに行った時は、高音パートを友人にお願いしてハモリを歌わせてもらっている。ボカロ曲の『magnet』や『サンドリヨン』などがそうだ。

前述のとおり、友人には音感があって高音まで幅広く歌える。学校からの帰り道、友人は私のクラスの担当曲のソプラノを歌ってくれた。カラオケ下校タイムがとても楽しかった。
今は私が地元を離れて友人と遊ぶ機会はほぼなくなってしまったが、もしまたカラオケに行くことがあったらCOSMOSのアルトパートを歌おうかなと思い、YouTubeで練習している。

くだんのCOSMOSで、「みんな生命を燃やすんだ 星のように蛍のように」という歌詞が出てくる。中学時代は「今までずっと星の話をしているのに急に虫のたとえを出すなよ!諦めるな!雷じゃダメ?光ってる時間が短すぎ?」などと思っていた。
しかし大人になった今、歌い出しで「夏の草原に」とはっきりシチュエーションが指定されていることにやっと気がついた。
この歌の語り手は、蛍が舞う草原で星が溢れる夜空を見上げているのだ。

20年近く経って、ようやくわかることもある。
星を見上げて何億年もの歴史に思いを馳せるのは難しいけれど、たまに自分の何十年かを振り返るのは再発見があって楽しい。黒歴史にのたうち回るはめになることもあるが、それもまた一興だ。

3/14/2026, 12:33:58 PM

書く習慣:本日のお題「安らかな瞳」

「安らかな瞳」というお題を見てまっさきに思い浮かんだのは、「眼精疲労」である。

私は常に目を使っている。

仕事はいわゆるデスクワーク、始業から終業までほぼ一日中パソコンと書類の文字を目で追い続けている。

趣味は読書、映画鑑賞、ゲーム、そしてSNS。全部目を使う。

起床直後、昼休み、就寝前まで、本を読んでいるかスマホを触るかしている。ジップロックにスマホを入れて入浴しながらも電子書籍を読み、行儀作法に反するが食事中も読んでいる。水や汚れに強く、どこまで読んだか同期されて便利なので、メインは電子書籍である。

大好きなゲームの新作が発売されると、読書タイムがほとんどゲームに取って代わる。そして読む本が公式ガイドブックや設定資料集、アートワークス、出ていれば考察本になる。

当然、視力も控えめである。

近視プラス乱視だ。裸眼で夜空を見上げると、無数の細い三日月であっても少しずつズレて重なり、毎晩満月に見える。なお、星は見えない。

コンタクトレンズを着けた視界があまりに完璧すぎて、眼鏡はほとんど使わない。たまにメガネをかけると、フレームが視界の端にずっと見えているのとレンズの外側がぼんやりしているのが気になって仕方がない。私のダメなところだが、ズボラで大雑把なくせに妙なところで完璧主義なのだ。

更に悪いことに、まったく目を労わる習慣がついていない。

蒸気でほっとアイマスクを箱買いしているくせに、「暑い」「蒸れる」といって冬しか使わない。目元のマッサージをするのは、いよいよ限界を迎えて目や頭が痛み始めてからだ。コンタクト屋さんに勧められた目によいグミは、おいしすぎて一袋を週末のうちに食べ終わってしまった。

平日は仕事と趣味で目を使うスタンスが違うのでメリハリをつけて目を酷使しているが、休日は集中力が続く限り目で画面や文字を追い続けてしまう。せっかくのオフの日に限って、涙袋メイクも裸足で逃げ出す黒紫のクマが目の下にどっしり居座っている。

そんなどうしようもない眼球ヘビーユーザーの私だが、ひとつだけ続けていることを思い出した。

「20-20-20ルール」である。

これは、「20分目を使ったら20フィート先を20秒見る」という目を休ませる習慣だ。20フィートはおよそ6mらしい。仕事の手を休めるのにちょうどいい口実だから、ひっそりとアラームをかけ、席を立って窓の外に目をやっている。6mといわず、100m以上離れた川だの桜並木だのを眺めることが多い。桜の季節が近づいた今、目を労わるのが楽しみだ。

とりあえず今日はコンタクトレンズを外して、早めに寝ようと思う。

3/14/2026, 1:32:01 AM

書く習慣:本日のお題「ずっと隣で」

ずっと隣で生きていきたい、と思った人がいた。

10代の頃である。

とにかく彼の顔と声が好きだった。好みの顔が楽しそうにしているのを見ると満たされた。私の知らない小説やゲームについて話す声は何時間でも聴いていられた。当時もし彼がネットで配信をやっていたら、何をおいてでもずっと視聴していたと思う。

よく少女漫画で人気者の男の子と地味系ヒロインがくっついているが、今になって思えば当然だ。ヒロインは人気者を「クラスの人気者」とコンテンツ扱いしない。「○○くん」と、一人の人間として扱っている。中には「そりゃ人気なわけだよ😭」みたいなモノローグが挟まるパターンもあるが、彼女たちは○○くんに対して推し活的な言動をしない。

10代の頃からインターネットに入り浸っていると感覚が麻痺しがちになるが、芸能人でもない他人を推すのはあまりよくない。好意を抱いた相手はついつい推したくなってしまうけれど、相手は仕事で人気者をやっているわけではないのだから、こちらも対等な人間として接していくのが筋である。

当時の私は、好みど真ん中を射抜いてきた相手とせっかくお付き合いできたのに、相変わらず彼に対して推し活的な思考をやめられなかった。というか、恋愛感情と推し活と執着がごちゃごちゃになった結果を「好き!」と処理していた。シンプルにやばいやつである。

当然のことながら、彼とはうまくいかなかった。彼の方がどういう理由で私を振るに至ったのかはわからないが、心当たりがありすぎるので残念ながら当然だと受け止めている。

それでも、私の人生において「お向かいの家に松坂桃李が引っ越してきた」レベルの顔の良い人との接点だったし、10年以上経っても当時のときめきは昨日のことみたいに鮮やかに思い出せる。思い出せるというより、心の冷蔵庫のチルド室にしまってあっていつでも新鮮な状態で取り出して眺めるみたいな感覚に近い。

そんなわけで、ある意味で彼は今もずっと隣にいる。

もはや怪談である。

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