『胸が高鳴る』
書店の平台でそれを見つけたとき、上手く言葉にはできないが、頭の中のセンサーが反応した。
所謂、「ピンときた」というやつだ。
今まで、この勘が外れたことはない。
――これは期待できる。
その瞬間から他の本には目もくれず、それをレジへと持っていった。
会計を済ませ、書店を後にする。
ああ、いったいどんな内容だろう。
裏表紙や折り返し部分の内容説明は、敢えて見ずに購入した。
面白いといいな。
私は高鳴る胸をおさえながら、家路を急いだ。
『不条理』
朝、目が覚めると右手が巨大な判子になっていた。
あまりのことに叫ぼうとしたが、口からは「承認」という音しか出ない。
慌てて病院へ向かうと、受付の看護師は私の右手を見て、慣れた手つきで書類を差し出した。
「こちらに押印をお願いします」
診察室で医者は言った。
「おめでとう。社会人の仲間入りだ」
私が「そんな馬鹿な」と抗議の声を上げると、口からは「至急・回覧」という言葉が飛び出した。
帰り道、空を見上げると、雲が巨大な書類の形をしていた。
道ゆく人々は皆、自分の体に誰かの判子が押されるのを待って列を作っている。
私はただ、自分の意志とは無関係に、目の前にある背中に「済」の赤い判を押し続けた。
『怖がり』
自分の怖がりな性格を、生存本能が強すぎるだけだと言い訳することにしている。
恐れ知らずは勇猛果敢に見えるけど、慎重さや思慮深さに欠けるのでは?と皮肉も言う。
だって、そうでもしないと不安に飲み込まれそうになるから。
深夜二時、寝室で「パチン」と乾いた音がした。
ただの家鳴りだ。木材が温度変化で反っただけ。頭ではわかっているのに、心臓はドキドキと胸を叩き始める。
私は布団を鼻先まで引き上げ、暗闇の中で目を凝らした。
もし泥棒なら?
もし幽霊なら?
想像力という名の怪物が、クローゼットの隙間を巨大な口に変えていく。
意を決して電気をつけた。そこには、床に落ちたクリップが一つ。
「……なんだ」
安堵して笑った瞬間、ふと気づく。
――職場ならともかく、うちにクリップなんてあったっけ?
途端に、背筋に氷を押し当てられたような感覚が走った。
本当の恐怖は、ほっと気を緩めた後にやってくる。
『星が溢れる』
夜空の栓が抜けたような夜だった――と、後に皆は語り合った。
気がつくと、銀色の粒が視界を埋め尽くしていた。
それは「降る」というより、器から「溢れ出した」という表現が正しく感じられた。
一際大きな流れ星が尾を引くと、カラン、と乾いた音がして足元に光の欠片が落ちた。
拾い上げると、掌にやさしい熱が灯る。
星はひとつ、またひとつと地上に溢れ、街灯の下やベンチの隅を淡い光で侵食していった。
人々は慌ててバケツを持ち出し、この稀有な輝きを掬い集めた。
溢れた星で満たされた街は、まるで逆さまになった星空のよう。
夜明けが近づき、星々が溶けるように消えていく。
人々の手の中に残ったのは、ほんの少しの温もりと、星屑が擦れ合ったような、銀色の微かな香りだけだった。
『安らかな瞳』
都会の喧騒を離れた丘の上、老いた彫刻家は最後の手仕事を終えようとしていた。
彼が彫っていたのは、名もなき聖女の石像だ。
しかし、どうしても瞳だけが完成しない。慈愛や悲しみ、どんな感情を込めても、石の目はどこか冷たく空虚に映った。
ある夕暮れ、一羽の傷ついた小鳥が工房の窓辺に舞い降りた。
彫刻家はそっと手を差し伸べ、その小さな命が静かに尽きるまで、ただ温もりを分け与えた。小鳥が最期に見せた、すべてを委ねるような、深く静かな眼差し。
「これだ」
彼は震える手でノミを振るった。
完成した石像の瞳には、喜びも悲しみも超越した、圧倒的なまでの安らぎが宿っていた。
翌朝、村人が工房を訪れると、そこには完成した石像と、その足元で眠るように息を引き取った彫刻家の姿があった。
石像の安らかな瞳は、まるで彼の魂を優しく見守っているかのようだった。