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3/14/2026, 3:42:00 AM

『ずっと隣で』

​「おや、また少し透けましたね」

​バス停のベンチに座る顔馴染みの老紳士が、僕の右側を見て穏やかに笑った。
僕の右隣には、十年前からずっと何かがいる。

​それは形のない影のような、あるいは陽炎のような存在だ。
僕が歩けばついてくるし、寝る時も枕元にいる。
たまに肩に幽かな重みを感じることもあるが、言葉を交わしたことは一度もない。

​不思議なことに、この影は僕の人生の「予兆」を教えてくれる。
誰かと出会う直前には温かくなり、不吉なことが起きる前には、氷のように冷たくなるのだ。

​「次は、何色になるんでしょうな」

​老紳士の言葉に視線を戻すと、影はいつの間にか、淡い桃色の光を放っていた。

その直後、風に舞った帽子が僕の足元に転がってくる。拾い上げようと顔を上げると、そこには見知らぬ女性が立っていた。

​影が、かつてないほど心地よく脈打つ。

仄かに優しい温かさを感じながら、僕は影を連れたまま、彼女に向かって一歩踏み出した。

3/12/2026, 11:08:41 AM

『もっと知りたい』

​「ねえ、私のどこが好き?」

​隣で本を読んでいた彼は、栞を挟んで視線を上げた。

「全部だよ」
「嘘。全部なんてありえない。もっと具体的に、私の知らない私を教えて」

​彼女の瞳は好奇心というより、底なしの渇望に揺れていた。彼は少し困ったように笑い、彼女の指先に触れた。

「君が夢の中で、僕の名を呼ぶとき。自分では気づかないだろうけど、少しだけ鼻に皺が寄るんだ。その瞬間の、無防備な姿が愛おしい」

​彼女は満足そうに目を細めた。しかし、数秒後にはまた別の問いが生まれていた。彼の思考の深淵、昨日見た夢の色彩、幼い頃に忘れたはずの痛み。

​「もっと、もっと知りたいの」

​彼女の手が彼の胸元に伸びる。知ることは、所有することだ。彼のすべてを解体して、情報の破片に変え、自分の血肉にしたい。

​「……じゃあ、次は僕の番だ」

​彼が囁き、彼女の耳元に唇を寄せた。

「君がそうやって僕を暴こうとするたびに、僕の中で何が壊れていくか。君はまだ、知らないだろう?」

​彼女の背筋に、甘美な戦慄が走った。
知らなければならないことが、まだ山ほどあった。

3/11/2026, 10:19:57 AM

『平穏な日常』

毎朝、決まった時間にアラームが鳴る。
カーテンを開けると、昨日と変わらない陽光が部屋に差し込んだ。
トーストの焼ける香ばしい匂いと、沸騰するケトルの音。

​テレビのニュースは、どこかの国で起きた些細な騒動を伝えているが、この部屋の静寂を破るほどではない。

私はコーヒーを一口啜り、完璧に整えられた日常を味わう。

​ふと、窓の外に目を向けると、街路樹の影が、少しだけ不自然に静止していた。
風が吹いているはずなのに、葉の一枚も揺れていない。

​「……またバグか」

​私は溜息をつき手を振ると、空間に浮かんだ〈再起動〉の表示を指でタップする。

数秒後、世界は再び心地よい風に包まれた。
この完璧な平穏を維持するのも、案外骨が折れるのだ。

3/10/2026, 12:07:51 PM

『愛と平和』

​かつて「Love&Peace」は、我が国の国旗に書かれたスローガンだった。

しかし、百年目の建国記念祭を翌日に控えた現在、それはもっと具体的で、少しだけ面倒なものとして存在している。

​路地裏の古道具屋の店主は、棚から落ちそうになった古い地球儀を片手で受け止めた。
それが彼にとっての「平和」の維持だ。

一方、隣のカフェでは、一人の青年が冷めきったコーヒーを前に、恋人への謝罪の言葉を必死に探している。
彼にとっての「愛」は、プライドを捨てて頭を下げる勇気の別名だった。

​「愛も平和も、壊さないようにするのは一苦労だ」

​店主は独り言をこぼし、地球儀の埃を丁寧に拭った。
窓の外では、ようやく仲直りした二人が、手を繋いで歩いていく。

そんなありふれた光景を​、夕暮れがオレンジ色に包んでいた。

3/4/2026, 6:15:30 AM

『ひなまつり』

子供の頃は、七段飾りの雛人形を出していた。

骨組みを組み立て、
緋毛氈を敷き、段ごとに、
親王である内裏雛(男雛女雛)、
三人官女、
五人囃子、
随身(左大臣右大臣)、
仕丁(三人の衛士)、
箪笥や長持、鏡台などの嫁入り道具、
左近の桜と右近の橘、
雪洞(ぼんぼり)などを飾る。

一室にドンと構えられたそれは、とても存在感があって美しかった。

お内裏様やお雛様が着ている着物の生地も、おすべらかしの髪に飾られた金の釵子(さいし)も、飽かずに眺めていたものだ。

出したり仕舞ったりは大変だったけれど、あの華やかな空間は好きだったな。

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