『刹那』
駅のホーム、閉まりかけたドアの隙間から、一瞬だけ視線が絡まった。
見知らぬ人。
けれど、その瞳の奥にある寂しさが、鏡のように自分を映した気がした。
心臓が跳ね、指先が微かに動く。
何かを言おうとしたのか、あるいは手を伸ばそうとしたのか。
自分でも分からない。
やがて、無情な電子音が響き、ステンレスの扉は閉まった。
ホームから何事もなかったように電車が滑り出す。
加速する風景の中に、その影は瞬く間に溶けて消えた。
「今の、は……」
呟きは騒音に掻き消された。
瞬きにも似た、刹那の邂逅。
それなのに、こんなにも喪失感が残る。
二度と交わることのないだろう軌跡を想い、いつものように手すりにもたれて息をついた。
『善悪』
空からキラキラと輝く〈善悪の秤〉が降ってきたのは、よく晴れた月曜日のことだった。
それは手のひらサイズの天秤で、左の皿に「自分の善行」、右の皿に「自分の悪行」が可視化されて載るという。
人々はこぞって自分の価値を確かめた。
ある慈善家が天秤を持つと、左皿には黄金の輝きが山をなしたが、右皿に載った「無自覚な傲慢」という一粒の重りに負け、天秤は無残に右へ傾いた。
一方で、嘘つきの詐欺師が持つと、天秤は水平を保った。
彼が吐いた数千の嘘と、たった一度だけ道端の飢えた犬にパンを分け与えた記憶が、なぜか等価値として釣り合ってしまったのだ。
「この秤はインチキだ!」と人々は憤り、天秤を海へ投げ捨てた。
数ヶ月後、遠く離れた海岸に流れ着いた天秤を、一人の子供が拾い上げた。
子供がそれを手に取った瞬間、両方の皿は跡形もなく消え去り、天秤はただの真っ直ぐな鉄の棒になった。
「ねえ、見て! カッコイイ棒みつけた!」
子供のはしゃいだ声に、天秤は初めて満足そうに鈍く光った。
『ルール』
その街の公園には、幾つかの注意事項が書かれた看板が立っていた。
「鳩や猫にに餌をやるな」等のありふれたものの後に、手書きでこう付け加えられた一文がある。
【午後の四時四分、ベンチで足を組んではならない】
通りがかった青年は鼻で笑い、あえてその時間にベンチに腰掛け、足を組んだ。
すると周囲の喧騒がふっと消え、噴水の音も、子供の笑い声も、風の音さえもしなくなった。
見上げた空には、それまで飛んでいた鳩が空中で静止している。まるで透明な樹脂に固められた標本のようだった。
焦った青年は足をもとに戻そうとしたが、体は石のように動かない。
少しすると、看板の脇に人影が現れた。公園の管理人らしき老人だ。
やれやれ、とでも言いたげな顔で看板の端を指さしているが、青年には他よりも小さく書かれたその文字が読み取れなかった。
【もし、このルールを破った者は】
そんな書き出しで始まる内容を知ったら、きっとこんなことはしなかっただろうに。
『今日の心模様』
どうにかこうにかやることやって、
ほっと小さくひと息ついて、
浮腫んだ足で買い物して、
野菜だの牛乳だの重たい荷物を持って、
ようやく辿り着いた家の、
玄関周りが散らかっているのに気づく。
この言葉にならない、虚しいような身体中の力が抜けるような感じ。
出来ていないことや、やらなきゃいけないことが見えていなかったことに気づく瞬間。
体がドロドロと溶けて、その場にでろーんと横たわりたくなるこの心模様を――あえて言うなら、どどめ色だろうか。
『たとえ間違いだったとしても』
古びたカセットテープには、手書きの震える文字で、今は亡き祖母の名が記されていた。
それは認知症を患った祖父が、最後に遺した録音だった。
再生ボタンを押すと、ノイズの向こうから若々しい、けれどどこか心細そうな男の声が流れてくる。
「もし、あのとき君を追いかけなかったら、僕たちはもっと幸せな別の誰かと出会えていたのかもしれない」
声の主である祖父は、一生を添い遂げた祖母の名前を呼んだ。
二人の生活は決して楽なものではなく、苦労の絶えない日々だったと聞いている。
「でも、たとえ間違いだったとしても。神様が別の正解を用意していたとしても。僕は何度でも、君と共に進む道を選びたい」
録音はそこで途切れている。
祖母が亡くなったとき、祖父はすでに彼女の顔も忘れていた。
けれど葬儀の最中に一度だけ、誰もいない空間に向かって「ごめん、待たせたね」と笑いかけた。
窓の外では、二人が植えた花水木がそよそよと風に吹かれて咲いている。