『秘密の場所』
このまま泥濘んだ道を歩き続けたら、せっかくおろした靴が駄目になってしまう。
何度か口を開きかけ、その度に閉ざしてきたが、もう限界だ。
そもそも、なぜデートでこんな山道を歩かされなくてはならないのか。
これまでに数え切れないくらい二人で出かけてきたが、こんなところに連れてこられたのは初めてだ。
恋人が何を考えているのかわからずにいると、ふと前を歩く足が止まった。
「着いた」
嬉しそうな顔で振り向かれても、絆されてはいけない。
一言文句を言ってやろうと、口を開いて――固まった。
なんと見事な。
見渡す限り一面の花。それも澄んだ青一色。
まるで空の上にでもいるような。
「ここは秘密の場所なんだ」とはにかんだかと思うと、突然手を取られた。
ああ、やられた。これはアレだ。
ロマンティックさの欠片もないと思っていた人に、真剣な眼差しで見つめられて。
こんな美しい場所で請われたら、うんと頷くしかないではないか。
『ラララ』
風が運んできたその声は、小さく掠れていた。
それでも私の耳に届いたのは、ひとけのない裏通りだったからだろう。
見るとひとりの青年が、スマートフォンに向かって「ラララ」となにかのメロディーを吹き込んでいる。
気づかないふりをして通り過ぎた後、何の気なしにそれを口ずさんでみた。
なんの曲だろう?
どこかで聞いたことがある気がする。たぶん、日本の曲。
J-POP?
童謡?
音楽の教科書に載っていた曲?
わからない。思い出せない。
こういうのは後を引くやつだ。頭の中に居座って、正体を見破るまで離れない。
そうなる前にと、本当はもうそうなりかけているのだけれど、スマートフォンを取り出して音声検索をかける。
マイク形のアイコンに向かってラララと吹き込んだところで、ハッとした。
さっきの彼も、同じだったのでは?
振り返ろうとした私の横を知らない誰かが通り過ぎた。
私の声など気づいていませんよという風に。
でもきっと、あと数歩もしたら口ずさむはず。私たちと同じメロディーを。
『question』
サクリ、とトーストを齧った。
バターの香りが鼻腔を満たす。
向かいの席で夫が蜂蜜に手を伸ばすのを見て、話しかけた。
「蜂蜜って、花によって香りや味が変わるんですって」
「ふうん」
夫が生返事しかしないことなんて、気にしない。
もう慣れっこだし、そのほうが余計な口を挟まれることなく、こちらも思いつくままに喋り続けることができるから。
「有名なのはレンゲだけど、桜や蜜柑の蜜も美味しそうよね」
「ああ」
「うちの八朔の木から採った蜂蜜とか食べてみたいわぁ」
「そうだな」
スマートフォンをしきりに弄っている夫をチラリと見て、カフェオレを飲む。
自家製の蜂蜜なんて無理だけど、庭に生る八朔の実なら、毎年もいで蜂蜜漬けにしている。
今年の実が採れたら、夫に質問してみよう。
「これ、なんの味がするか分かる?」と。
あなたの浮気相手を養分にして生った実なのだと知ったら、甘く感じるのかしら。
『約束』
小さな頃から、言葉に色がついていた。
書かれた言葉にも、口から出る言葉にも。
文字そのものには色はない。
組み合わされ、意味を持って初めて色づくのだ。
本を読むときには苦労する。
紙面が色とりどりで、目がちかちかするから。
人と話をする時は、相手の口からさまざまな色が零れ落ちる。
そんなカラフルな世界にあって、ひとつだけ「約束」という言葉には色がない。というか、真っ白に見えるのだ。
前後の言葉には色があるのに、「約束」だけは白い。ほうっと吐き出された吐息のように。
似たような色合いの言葉に「誓い」や「祈り」がある。前者は僅かに金色を帯びた白、後者は青みを帯びた銀に近い白。
もしかしたら、人の根っこのところにあるのは、この世界との「約束」なのかもしれない。
『ひらり』
君がそこに駆けつけたとき、血だらけの死体を前に茫然としているその人がいた。
唇を真一文字に引き結び、瞬きもせず、瞳孔が開いた目を君へ向けた。
「殺してしまった」
ぽつりと零された言葉に君の頭は回転を始め、すぐさまそこで何が起こったのかを理解した。
見つめ合っているのに、焦点が重なり合わない。
青ざめてはいるが、後悔の念は見受けられない。
動転も自失もしていない。
君は何度も忠告していた。
妻がありながら他の女に手を出すような男はろくな奴ではない、きっとそのうち大変なことになる、と。
それに返ってくるのは、曖昧な笑みだけだったが。
君は深く息を吐き、ぐるりと周囲を見回した。
この現場をよく記憶しておかなければ。
再び見つめ合うと、今度は確かに視線があった。
すると二人の間にひらり、と1枚の花弁が舞った。
まるでスローモーションのようにゆっくりと、ひらり、ひらり。
君には三つの選択肢があったが、その花弁が死体の頭に落ちたとき、他の二つの選択肢を捨てた。
この後の行動は、君の口から聞かせてほしい。