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3/9/2025, 8:36:45 AM

『秘密の場所』

このまま泥濘んだ道を歩き続けたら、せっかくおろした靴が駄目になってしまう。
何度か口を開きかけ、その度に閉ざしてきたが、もう限界だ。

そもそも、なぜデートでこんな山道を歩かされなくてはならないのか。
これまでに数え切れないくらい二人で出かけてきたが、こんなところに連れてこられたのは初めてだ。

恋人が何を考えているのかわからずにいると、ふと前を歩く足が止まった。

「着いた」

嬉しそうな顔で振り向かれても、絆されてはいけない。
一言文句を言ってやろうと、口を開いて――固まった。

なんと見事な。
見渡す限り一面の花。それも澄んだ青一色。
まるで空の上にでもいるような。

「ここは秘密の場所なんだ」とはにかんだかと思うと、突然手を取られた。

ああ、やられた。これはアレだ。
ロマンティックさの欠片もないと思っていた人に、真剣な眼差しで見つめられて。
こんな美しい場所で請われたら、うんと頷くしかないではないか。

3/8/2025, 9:37:15 AM

『ラララ』

風が運んできたその声は、小さく掠れていた。
それでも私の耳に届いたのは、ひとけのない裏通りだったからだろう。

見るとひとりの青年が、スマートフォンに向かって「ラララ」となにかのメロディーを吹き込んでいる。

気づかないふりをして通り過ぎた後、何の気なしにそれを口ずさんでみた。
なんの曲だろう?
どこかで聞いたことがある気がする。たぶん、日本の曲。
J-POP?
童謡?
音楽の教科書に載っていた曲?
わからない。思い出せない。
こういうのは後を引くやつだ。頭の中に居座って、正体を見破るまで離れない。

そうなる前にと、本当はもうそうなりかけているのだけれど、スマートフォンを取り出して音声検索をかける。
マイク形のアイコンに向かってラララと吹き込んだところで、ハッとした。

さっきの彼も、同じだったのでは?

振り返ろうとした私の横を知らない誰かが通り過ぎた。
私の声など気づいていませんよという風に。
でもきっと、あと数歩もしたら口ずさむはず。私たちと同じメロディーを。

3/6/2025, 9:34:03 AM

『question』

サクリ、とトーストを齧った。
バターの香りが鼻腔を満たす。
向かいの席で夫が蜂蜜に手を伸ばすのを見て、話しかけた。

「蜂蜜って、花によって香りや味が変わるんですって」
「ふうん」

夫が生返事しかしないことなんて、気にしない。
もう慣れっこだし、そのほうが余計な口を挟まれることなく、こちらも思いつくままに喋り続けることができるから。

「有名なのはレンゲだけど、桜や蜜柑の蜜も美味しそうよね」
「ああ」
「うちの八朔の木から採った蜂蜜とか食べてみたいわぁ」
「そうだな」

スマートフォンをしきりに弄っている夫をチラリと見て、カフェオレを飲む。
自家製の蜂蜜なんて無理だけど、庭に生る八朔の実なら、毎年もいで蜂蜜漬けにしている。

今年の実が採れたら、夫に質問してみよう。
「これ、なんの味がするか分かる?」と。

あなたの浮気相手を養分にして生った実なのだと知ったら、甘く感じるのかしら。

3/5/2025, 8:50:48 AM

『約束』

小さな頃から、言葉に色がついていた。
書かれた言葉にも、口から出る言葉にも。

文字そのものには色はない。
組み合わされ、意味を持って初めて色づくのだ。

本を読むときには苦労する。
紙面が色とりどりで、目がちかちかするから。
人と話をする時は、相手の口からさまざまな色が零れ落ちる。

そんなカラフルな世界にあって、ひとつだけ「約束」という言葉には色がない。というか、真っ白に見えるのだ。

前後の言葉には色があるのに、「約束」だけは白い。ほうっと吐き出された吐息のように。

似たような色合いの言葉に「誓い」や「祈り」がある。前者は僅かに金色を帯びた白、後者は青みを帯びた銀に近い白。

もしかしたら、人の根っこのところにあるのは、この世界との「約束」なのかもしれない。

3/4/2025, 8:40:47 AM

『ひらり』

君がそこに駆けつけたとき、血だらけの死体を前に茫然としているその人がいた。

唇を真一文字に引き結び、瞬きもせず、瞳孔が開いた目を君へ向けた。

「殺してしまった」

ぽつりと零された言葉に君の頭は回転を始め、すぐさまそこで何が起こったのかを理解した。

見つめ合っているのに、焦点が重なり合わない。
青ざめてはいるが、後悔の念は見受けられない。
動転も自失もしていない。

君は何度も忠告していた。
妻がありながら他の女に手を出すような男はろくな奴ではない、きっとそのうち大変なことになる、と。
それに返ってくるのは、曖昧な笑みだけだったが。

君は深く息を吐き、ぐるりと周囲を見回した。
この現場をよく記憶しておかなければ。

再び見つめ合うと、今度は確かに視線があった。
すると二人の間にひらり、と1枚の花弁が舞った。
まるでスローモーションのようにゆっくりと、ひらり、ひらり。

君には三つの選択肢があったが、その花弁が死体の頭に落ちたとき、他の二つの選択肢を捨てた。

この後の行動は、君の口から聞かせてほしい。

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