『花束』
その花屋の店主は、客の顔を見ない。代わりに客の胸の音を聴く。
「なるほど。少し寂しさが混じっていますね」
店主は慣れた手つきで、見たこともない形の青い花を束ね始めた。
この店で売っているのは、本当の植物ではない。誰かの感情を花の形にしたものなのだ。
手渡された花束は、触れると微かに体温のような温かみがあった。
病室で眠る父の傍らに、そっとその花を置く。
するとどうだろう。
花びらが一枚、また一枚と透き通るように消え始めた。
それと同時に、父の頬にほんのりと赤みが差してゆく。
「……来ていたのか」
父がうっすらと目を開け、私の手を握った。
花束はもう、跡形もない。
あの店主は言っていた。
「形がなくなる時、一番大切なものが残りますよ」
『スマイル』
スマイル0円。
そんな言葉も幾星霜。
少子化が進み、人件費を上げても働き手が集まらない今となっては、生身の人間を雇っているところなど極わずか。
工業などのオートメーション化された業務はそれで十分だったが、数十年が経つうちに、対人業務ではそれ以外のことに付加価値を求める声が上がり始めた。
会計処理やおすすめ商品の表示の際に、にこやかに笑いかけてほしい――そういう要望だ。
「ありがとうございました」
「よくお似合いですよ」
そういった言葉と共に、笑顔を。
人でなくても構わない。
ロボットでも、バーチャルキャラクターでもいい。
そのためには対価を払う、と。
そこから先は、いかに魅力的な笑顔を提供できるかが企業の課題となった。
笑顔を生み出すための研究費、開発費、設備費、その他諸々。
現在、もっとも価格の高い商品はスマイルである。
『どこにも書けないこと』
個人的に、誰にも知られたくないことは、たとえ日記にでも書いてはいけない、と思っている。
自分の頭の中から出た途端、それは必ず誰かに知られるものだ。
SNSなんて以ての外だし、スマホ内のメモ帳だろうが、鍵付きだろうが意味はない。
どうしても文字にして吐き出したかったら、紙に書いて即座に燃やすくらいはしないと。
じゃないと、恐ろしいことになるからね。
え?都市伝説だろうって?
何を言ってるんだい、キミ。
僕の目がこうなった理由を知らないのか?
それに今日は、あの日じゃないか。
元は国民の権利であった、今となっては粛清対象を見つけるための……
『時計の針』
午前零時の少し前、部屋の隅でカチリと重い音が響いた。
中古屋で安く買った柱時計だ。
秒針の動きが妙にぎこちない。
普通、針は円を描いて進むものだが、この時計の針は何かを必死に押し退けているように見える。
一秒ごとに、針が震える。
まるで目に見えない何かに食い込んでいるかのような抵抗感。
盤面を覗き込むと、短針と長針が重なる瞬間、かすかに何かが潰れるような湿った音が聞こえた。
よく見ると、文字盤の隙間から赤黒い細い糸のようなものが滲み出している。
それは針に絡みつき、進みを止めようと抗っていた。
針は、時を刻んでいるのではなかった。
文字盤の裏側に閉じ込められた何かを、鋭利な刃先で切り刻み続けているのだ。
静寂の中、私は魅入られたようにじっとソレを凝視していた。
『ブランコ』
フランスの画家ジャン・オノレ・フラゴナールの代表作に、「ブランコ」というものがある。
ピンクのドレスを着た若く美しい貴婦人が、庭園でブランコに乗り、脱げたミュールが宙を舞う瞬間を描いたものだ。
一見、とても美しく麗らかな情景に思えるが、よくよく注意してみると意味が変わる。
中央の女性の足元には、茂みから彼女をのぞき見る愛人の貴族が描かれている。彼の目線は彼女のドレスの中。足の間だ。
また、左端のキューピッド像は秘密を隠すように人差し指を口に当てている。
ここまでなら、秘密の恋。
だが、それだけでは終わらない。
女性の背後には、ブランコを揺らすロープを掴む初老の男性。彼は彼女の夫だ。
彼の傍らに描かれた天使像の表情は驚き?それとも困惑だろうか。
夫の周辺は薄暗く光が差していない。光を浴びているのは自分の妻と、その若い愛人。
なのに、夫の口元は笑みを浮かべている。
夫は何を思ってブランコを揺らしているのだろう。
美しいのに、どこかゾワリとさせられる一枚だ。