『一輪のコスモス』
このお題を見て、むかし国語の教科書に載っていた話を思い出した。
戦時中、まだ食べ盛り育ち盛りの幼い女の子が覚えた、数少ない言葉のうちのひとつ。
「ひとつだけちょうだい」
物が不足している中で、お腹いっぱい食べさせてあげられないお父さんとお母さんは、その言葉を言われるといつも自分たちのお皿から女の子に食べ物を分けてあげていた。
そんなある日、とうとうお父さんにも召集令状が届き、出征することになった。
見送りに来た列車のホームで、お母さんはなんとかかき集めた米で作ったおにぎりをお父さんに渡す。
するとそれを見た女の子は、いつものように「ひとつだけちょうだい」と言いだした。
ひとつもらって、美味しくてまだ食べたいと「ひとつだけ」「ひとつだけ」と女の子はぐずりだす。
お父さんは、自分の分はいいから全部おやりよとお母さんに言うけれど、実は見送りにくるまでの間に同じようにぐずるたびにおにぎりをあげていたので、もう残りはなかった。
泣き止まない女の子に、お父さんは道端に咲いていた一輪のコスモスを差し出した。
「ひとつだけあげよう。ひとつだけのお花、大事にするんだよ」と言って。
そしてそのままお父さんは出征していった。
そういうお話。それがやけに胸に残って、今でもコスモスを見かけると思い出す。
『秋恋』
秋に恋するものといえば、なんといっても栗!
子供の頃から栗が好きで、スーパーでネットに入った生栗が売り出されると、真っ先に買ってしまう。
茹でた栗を半分に切り、スプーンで食べるのが一番好き。
何も足さず、栗そのままを味わいたい。
それから栗味のスイーツ。
モンブランに、チョコに、ケーキに、この時期はいろんな栗味のお菓子が出るのでうれしい。
かと思うと、なぜか栗ご飯には食指が動かない。
自分でも不思議。
子供の頃、近所の鬱蒼とした場所に落ちていた栗を拾って歩いたことがある。
勝率三割くらいで、ほとんどが虫食いだったなぁ。
『燃える葉』
「山燃ゆる」という言葉がある。
真っ赤に色づいた紅葉を指して、まるで山が燃えているようだと比喩したものだ。
俳句では秋の季語にもなっている。
そう思ってモミジの葉を見てみると、形といい、色といい、まるで小さな炎のよう。
紅葉の最盛期に山に入ったら、ハラハラと落ちるモミジ葉が、無数の火の粉のように見えるのだろうか。
それはなんとも幻想的だなぁ。
『秋の訪れ』
《秋きぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる》
という短歌が好きだ。
暑い暑いと言い続け、早く秋になってほしい、早く涼しくなってくれ、と思い続けていた今年。
ここ数日の風の涼しさに、「ああ、ようやく」とほっとした心持ちになった。
吹く風に季節を感じてハッとするのは、千年昔も変わらぬらしい。
『moonlight』
ドビュッシーの『月の光』は、穏やかで静かに眠りを誘う。
ベートーヴェンの『月光』は、静かな重みをもって物思いに耽らせる。
月明かりで本を読めたら、素敵。
そう思って何度かチャレンジしたけれど、目にかかる負担が大きいのでやらなくなった。
なので専ら、雰囲気を楽しむための曲をかける。
月の光には、ピアノ曲がよく似合う。
ただ窓を開けて、月明かりを全身に浴びる月光浴は贅沢だ。
折しも、今宵は中秋の名月。
可愛らしい月見だんごを窓辺に置いて、のんびりしたいものである。
『cloudy』
空を見上げるのが好きだ。
雲の形を眺めるのも好き。
羊やら兎やら、時には竜やゴジラも。
いろんな形で見ていて飽きない。
夏なら雄々しく立ち上がるモクモクの入道雲。
秋なら刷毛ではいたような薄い筋雲。
空を横切る真っ直ぐな飛行機雲や、
雨を予感させる垂れ込めた乳房雲。
猛暑で疲弊した体には、暗く曇った空ですらありがたく感じる。
雨が続けは晴れを願い、
晴れが続けば雨を乞う。
実に勝手なものだが、一喜一憂してしまうのは、もうこれ、しょうがないよねぇ。