『夢と現実』
こんな夢を見た。
ある日、私が常より大分早く帰宅すると、いつもは駆け寄るようにして出迎えてくれる妻が出てこない。
夕飯の支度でもしているのかと、そのまま部屋へ上がると、ソファに横たわる人影が見えた。
珍しいこともあるものだ、きっと疲れているのだろう。
足音を立てずに近寄ると、すやすや眠る妻の頭頂部に、パックリと裂けたような大きな口があった。
普段は高く結い上げた髪で見えないそこに、真っ赤な舌を覗かせながら開いている口。
まるでサメかワニのような歯がびっしりと生えている。
驚きのあまりよろけてしまい、弾みで物音を立てた。
その途端妻は飛び起き、私の姿を見て取るとすっと目を細めて言った。
「これまで仲良うやって参りましたのに、残念でございます」
そうだ、私たちは仲の良い夫婦であった。
嫁いできたときからずっと、妻は飯も食わずによく働き、私はそんな妻を大事にしていた。
飯も、食わず……?
思い起こせば、妻が物を口にしているのを見たことがない。
そんな人間が現実にいるだろうか。
これではまるで、昔話に出てくる――
「旦那様、おさらばでございます」
妻の手が私にのびる。
腕に、首に、女のものとは思えない力で指が食い込んでくる。
これは夢だ。夢でなくては。
こんなことが現実であるはずがない。
そう念じるものの、一向に目覚める気配がないまま、私の意識は遠のいていった。
『さよならは言わないで』
「僕は退屈なんだ。孤独なわけじゃない。だから、わざわざ追いかけてこなくていい」
残った儚いワインが、グラスの中で揺れている。
私がここへ来たのは慰めるためではなく、諌めるためだったのだと彼も気づいているのだろう。
不意にバルコニーへと出てきた知らない誰かが、私たちの存在に気づいてそそくさと戻っていく。
後を追うべきか迷っていると、黒く塗った彼の爪が、ディナージャケットのウール越しに私の腕に食い込んだ。
「さよならは言わないでおく」
いつにない、子供じみた仕草で私を見る瞳に、胸を突かれる。
その一瞬の隙を彼は見逃さなかった。
強い力で引き寄せられ、唇に何かが押し付けられる。
そしてそのまま私を突き飛ばすように、彼は室内へと戻って行った。
バルコニーに独り残された私は口元を手で覆い、そこに残る熱を感じていた。
室内では主役の帰還に華やいだ歓声が上がっている。
今夜は、彼の婚約披露パーティーなのだ。
『光と闇の狭間で』
「生きているふりをするのは、草臥れるね」
喫茶店の隅の席で、その人は言っていた。
常連である私から見ても、いつ家に帰っているのかと疑わしくなるくらい、その人はいつもそこにいた。
そこはレトロなどという言葉では表せないくらい、長く生き残っている風な古色蒼然とした店で、アールヌーヴォー様式のステンドグラスが嵌め込まれた窓から射す一筋の陽光だけが、朝でも昼でも薄暗いその店の唯一の光源であった。
「おかしなことを言いますね」
そう私が言うと、
「だって君、影のない僕らが真実生きていると言えないだろう」
と、薄く笑ってカップに口をつける。
その人は、珈琲にうるさい人だった。
「影が、ない?」
それに、“僕ら”と言ったか。
「なんだい、気づいていないのかい。君だって、もう随分と薄くなっているじゃないか」
その人が指差す先は、私の足元だ。
言われて見れば、大分薄く感じる。
いやしかし、この店内の薄暗さのせいであろうと、頭を振って顔を上げた。
「この店に入ってきたのはいつだい?
この店に来る前の記憶はあるかい?
この店から出た覚えはあるかい?」
薄く笑うその人の足元に影があるのかないのかは、わからない。
何故ならその人はいつも光の射さない隅の席にいた。
薄闇の中で手招く人と私の間には、弱くなり始めた陽の光。
そのあわいも、時間と共に闇に呑まれるのが想像できた。
『距離』
この屋敷を出ていくのは、簡単なことではない。
冬の間道は塞がれ、春になるまで深い雪の中に閉じ込められるのだ。
味のしない朝食を口に運びながら考える。
正面に座った相手が話しかけていることに気づいて、スープ皿から視線を上げた。
「なんだ?」
声に硬さを加えて答えたが、思惑通りにはいかなかった。
「私、なにかした?」
「なにか、とは?」
「変よ、距離を感じる。まさか、私から離れたいないて思っているんじゃないでしょうね?」
「まさか」
心にもない確信を込めて小さく微笑むと、途端に相手の警戒心が緩むのを感じた。
「疲れているだけだ。少し休もうと思う」
「わかった。ひとりにしてあげる」
部屋に戻り、音を立てずに鍵をかけて、ほっと息をつく。
早くここから離れなければ。
ある日突然やってきて、抵抗する間もなく私の妻を手にかけた女。
奪われたのだ。ここにあった幸せを。大事な人を。
あの女が肌身離さず持っている銃を奪うことは難しい。
隙をついて逃げることしかできないが、それも成功するか不安がある。
それでも、離れなければ。
あの女の手が届かぬ場所へ。
『泣かないで』
「アンタ、背中が煤けてるぜ」
そんな台詞を昔なにかの漫画で読んだ。
背中で語れとか、背中を見て育つとか、背中を丸めるだとか。
顔も見えない後ろ姿に、我々は勝手に相手の感情を読もうとする。
こんなことをつらつら考えるのは、今まさに目の前で、背中で泣いている人がいるからだ。
本当に泣いている。
それはもうぐっしょりと、スーツの色が変わるまでたっぷり水分が出ている。
これは……汗か?
いやでも涙は心の汗って言うし、と混乱していたら嗚咽が聞こえたので、涙で間違いないだろう。
え、でも涙なら涙でどこから出ているの?背中全体?涙腺の量ものすごくない?逆に汗が目から出るとか?塩気で目痛くならない?
OK、一旦落ち着こう。
何があったか知らないが、ここで会ったも何かの縁。
とりあえず、声をかけてみるか。
放って置くにはちょっとアレだし。
このままでは全身びしょ濡れになる。
−−−−
『冬のはじまり』
オオシダをくぐり抜けて、樫の切り株にエッチラホッチラよじ登る。
すぐにホオジロが遊びに来たので、鞄の中から取り出したクコの実をひとつ分けてやった。
私が両手で抱える真っ赤な実も、ホオジロにとっては一口で食べ終えてしまう。
大食いだなぁと笑えば、心外だとでも言うようにピッピチュピーチューと鳴き声を上げた。
今年は夏が長かった。
年々、暑さが厳しくなっている。
昔は冬の寒さが厳しいとよく言ったものだけど、こんなにも暑さに喘ぐようになるとは思わなかった。
それでも季節はめぐるのだなぁと、葉が色づいた木々を眺める。
もうすぐこれらの葉も落ちて、私の背よりも高い霜柱が立つのだろう。夜の冷え込みもつらくなってきたところだ。
今年もまた、仲良しのリスのねぐらで冬を越す。
手土産の木の実を少し多めに拾い集めるか、と立ち上がった。
−−−−
『終わらせないで』
『ポケットに石を詰めて重りにする方法』
『流し台でバルビツール鎮静剤を作るには』
『死体安置所(モルグ)と死体搬送車(ミートワゴン)』
毎回無言で差し出される本のタイトルが、次第に不穏になってきた。
少し前までは、ミステリーの本ばかりだったのに。
だが、そんなことはおくびにも出さずに貸し出しの手続きをする。
利用者がどんな本を借りようが、詮索してはいけない。
そもそもレファレンスにかけられるもの以外で、利用者の読書履歴に注目することはプライバシーの侵害である。
所蔵されている本は、国民の知的財産であり、行政サービスとしてその知識を得ることを阻害されるようなことがあってはならない。
――の、だが。
『すべてを終わりにする方法』
いつも複数冊借りていくのに、今日はこの一冊だけ。
勘違いの類ならいい。
口を挟むことで、プライバシーの侵害だと怒られるかもしれない。
緊張と不安で渇いた喉を鳴らし、初めてその人に声をかけるべく、口を開いた。