『光と闇の狭間で』
「生きているふりをするのは、草臥れるね」
喫茶店の隅の席で、その人は言っていた。
常連である私から見ても、いつ家に帰っているのかと疑わしくなるくらい、その人はいつもそこにいた。
そこはレトロなどという言葉では表せないくらい、長く生き残っている風な古色蒼然とした店で、アールヌーヴォー様式のステンドグラスが嵌め込まれた窓から射す一筋の陽光だけが、朝でも昼でも薄暗いその店の唯一の光源であった。
「おかしなことを言いますね」
そう私が言うと、
「だって君、影のない僕らが真実生きていると言えないだろう」
と、薄く笑ってカップに口をつける。
その人は、珈琲にうるさい人だった。
「影が、ない?」
それに、“僕ら”と言ったか。
「なんだい、気づいていないのかい。君だって、もう随分と薄くなっているじゃないか」
その人が指差す先は、私の足元だ。
言われて見れば、大分薄く感じる。
いやしかし、この店内の薄暗さのせいであろうと、頭を振って顔を上げた。
「この店に入ってきたのはいつだい?
この店に来る前の記憶はあるかい?
この店から出た覚えはあるかい?」
薄く笑うその人の足元に影があるのかないのかは、わからない。
何故ならその人はいつも光の射さない隅の席にいた。
薄闇の中で手招く人と私の間には、弱くなり始めた陽の光。
そのあわいも、時間と共に闇に呑まれるのが想像できた。
12/3/2024, 6:12:48 AM