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12/2/2024, 4:53:23 AM

『距離』

この屋敷を出ていくのは、簡単なことではない。
冬の間道は塞がれ、春になるまで深い雪の中に閉じ込められるのだ。

味のしない朝食を口に運びながら考える。

正面に座った相手が話しかけていることに気づいて、スープ皿から視線を上げた。

「なんだ?」
声に硬さを加えて答えたが、思惑通りにはいかなかった。
「私、なにかした?」
「なにか、とは?」
「変よ、距離を感じる。まさか、私から離れたいないて思っているんじゃないでしょうね?」
「まさか」

心にもない確信を込めて小さく微笑むと、途端に相手の警戒心が緩むのを感じた。

「疲れているだけだ。少し休もうと思う」
「わかった。ひとりにしてあげる」

部屋に戻り、音を立てずに鍵をかけて、ほっと息をつく。

早くここから離れなければ。

ある日突然やってきて、抵抗する間もなく私の妻を手にかけた女。
奪われたのだ。ここにあった幸せを。大事な人を。

あの女が肌身離さず持っている銃を奪うことは難しい。
隙をついて逃げることしかできないが、それも成功するか不安がある。

それでも、離れなければ。
あの女の手が届かぬ場所へ。

12/1/2024, 3:54:48 AM

『泣かないで』

「アンタ、背中が煤けてるぜ」

そんな台詞を昔なにかの漫画で読んだ。
背中で語れとか、背中を見て育つとか、背中を丸めるだとか。
顔も見えない後ろ姿に、我々は勝手に相手の感情を読もうとする。

こんなことをつらつら考えるのは、今まさに目の前で、背中で泣いている人がいるからだ。

本当に泣いている。
それはもうぐっしょりと、スーツの色が変わるまでたっぷり水分が出ている。

これは……汗か?
いやでも涙は心の汗って言うし、と混乱していたら嗚咽が聞こえたので、涙で間違いないだろう。

え、でも涙なら涙でどこから出ているの?背中全体?涙腺の量ものすごくない?逆に汗が目から出るとか?塩気で目痛くならない?

OK、一旦落ち着こう。
何があったか知らないが、ここで会ったも何かの縁。
とりあえず、声をかけてみるか。
放って置くにはちょっとアレだし。
このままでは全身びしょ濡れになる。


−−−−
『冬のはじまり』

オオシダをくぐり抜けて、樫の切り株にエッチラホッチラよじ登る。

すぐにホオジロが遊びに来たので、鞄の中から取り出したクコの実をひとつ分けてやった。

私が両手で抱える真っ赤な実も、ホオジロにとっては一口で食べ終えてしまう。

大食いだなぁと笑えば、心外だとでも言うようにピッピチュピーチューと鳴き声を上げた。

今年は夏が長かった。
年々、暑さが厳しくなっている。
昔は冬の寒さが厳しいとよく言ったものだけど、こんなにも暑さに喘ぐようになるとは思わなかった。

それでも季節はめぐるのだなぁと、葉が色づいた木々を眺める。

もうすぐこれらの葉も落ちて、私の背よりも高い霜柱が立つのだろう。夜の冷え込みもつらくなってきたところだ。

今年もまた、仲良しのリスのねぐらで冬を越す。
手土産の木の実を少し多めに拾い集めるか、と立ち上がった。


−−−−
『終わらせないで』


『ポケットに石を詰めて重りにする方法』
『流し台でバルビツール鎮静剤を作るには』
『死体安置所(モルグ)と死体搬送車(ミートワゴン)』

毎回無言で差し出される本のタイトルが、次第に不穏になってきた。
少し前までは、ミステリーの本ばかりだったのに。

だが、そんなことはおくびにも出さずに貸し出しの手続きをする。
利用者がどんな本を借りようが、詮索してはいけない。
そもそもレファレンスにかけられるもの以外で、利用者の読書履歴に注目することはプライバシーの侵害である。

所蔵されている本は、国民の知的財産であり、行政サービスとしてその知識を得ることを阻害されるようなことがあってはならない。

――の、だが。

『すべてを終わりにする方法』
いつも複数冊借りていくのに、今日はこの一冊だけ。

勘違いの類ならいい。
口を挟むことで、プライバシーの侵害だと怒られるかもしれない。
緊張と不安で渇いた喉を鳴らし、初めてその人に声をかけるべく、口を開いた。

11/27/2024, 3:24:45 AM

『微熱』

あいつのことでやけ酒を飲む君を慰めるのは、何度目だろう。

始めのうちは居酒屋で、盛大に文句を言って潰れる君を、あいつに引き渡していたけれど。

回を重ねるごとに場所を変え、今ではこの静かなBARで、言葉もなく涙をこぼす君を、あいつに知らせることはしない。

もう、いいんじゃないかな。
君は、十分頑張った。
そして、その分傷ついた。

グラスを握りしめる君の手に、初めて触れる。

冷たい指先とは裏腹に、見返す君の瞳には、以前はなかった仄かな熱が籠められている。

このまま熱に浮かされてしまえばいい。
そして僕を選べばいい。

君の唇が微かに震え、僕の手を握り返してくれた、その時。

カランとドアベルが鳴って、誰かが近づいてくる気配がした。

11/25/2024, 2:33:06 PM

『太陽の下で』

疑問に感じたのは、彼はなぜ外に出たのだろうということだけだ。

そして、安全な家から外に出たこと以上に信じられなかったのは、彼の体がサラサラと灰となってしまったことでも、それと同時に自分の体もボロボロと崩れ始めていることでもなく、振り返った彼が幸せそうに微笑んでいたことだ。

あのままずっと、ふたりで悠久の時を超えていくのだと思っていた。
彼もそれを望んでいたのではなかったのか。

どうして……どうして……

最後に残った小指の爪が塵になる瞬間、遠い昔、まだふたりが普通の人間だった頃、こんなふうに太陽の下で彼がそっとそこに小さく口づけてくれたことを思い出した。



「チーフ、また失敗です。サンプルМが破滅的自傷行為により消滅、それを追いかけたサンプルWも消滅しました」
「またか。どうにもオスの個体は不安定になるな。あの恒星の光と熱に体を晒すようでは、我々の寄生先として危険極まりない」
「どうしましょう。新たなサンプルを用意しますか?」
「いや、もういいだろう。この星はあの恒星に近過ぎる。もう少し先の惑星でサンプルを探そう」

11/25/2024, 9:16:50 AM

『セーター』

この時期になると、セーターを編む。

一目一目針棒を動かして少しずつ編み上がる様は、まるで曼荼羅か魔法陣のようだ。

アンデルセンの物語では白鳥に変えられた兄王子たちを、末の妹姫が編んだイラクサの鎖帷子でもとに戻していたっけ。

もちろん、やさしい気持ちやあたたかい想いが籠められることも多いだろう。
むしろそちらが本来のものなのだ。

そういえば。
プレゼントされたセーターをよく見たら髪の毛が編み込まれていた、なんて都市伝説めいた話も聞いたことがある。

酷いなぁ。
アレは私の渾身の作だったのに。

白鳥の王子たちは本当に無事に地上に降り立ったのだろうか。
空中で鳥から人間に戻った者はいなかったのだろうか。

一目一目針棒を動かしながら夢想する。
空から落ちてくる美しい半鳥の王子。

あの人も早くこちらに落ちてくればいい。

そして私も――『落ちていく』

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