自転車に乗って
数十年ぶりに自転車に乗った。何の旅でもない。ホームセンターに猫のトイレの砂を買いに行くだけ。
自転車は高校生以来だ。乗れるかな、と不安だったが、実際に乗ってみると、なんの問題もなく走れた。風を切りながら進むこの感じ、懐かしい。
自転車の乗り方というのは、長期記憶というらしい。他には母国語や楽器の弾き方などが長期記憶に含まれる。長期記憶はなかなか忘れるものではないらしい。
ところで、私は車の免許はマニュアル車の免許だ。けど、実際にはほとんどオートマ車の運転のみだ。もし、いま、マニュアル車を運転しろと言われたら、正直、かなり不安だ。
私の半クラッチは、長期記憶ではないと思われる。まあ、ほとんどが教習所の時のみだ。記憶に残すほどではない、と脳が判断したのかもしれない。
──自転車のお使いに戻る。
昔とはまったく違う町を走っているのに、何故か懐かしい感覚がよみがえってくる。
ブレーキの感触、電柱の避け方、歩行者の避け方。車道と歩道を行ったり来たり。
坂道に差し掛かる。
そういえば。
先に下校した好きな子に追いつこうと、全力で坂を下って、1回転半の大転倒をしたことがあったっけ。
その時の記憶が浮かぶと、恋のドキドキと、宙に浮いた時の、これはマズイ、と意外に冷静に思った感覚、が体に蘇った。こんなにはっきり思い出せるとは……。
あの恋と、あの大転倒の恐怖も、忘れ去ることのない、私の長期記憶なのかもしれないなあ。
とにかく、もうさすがに転びたくない。2袋買おうと思ったけど、1袋の砂だけで帰ろう。
安全運転でね。
心の健康
さすらいの妖怪。風に紛れて、すれ違う人の心をひとつまみ、摘んでいく。
ある日、その妖怪が僕を訪ねて来て妙なことを言ってきた。
これ、欲しいか。返して欲しいか。 差し出された手の上には、ひとつまみ分の光があった。とても弱々しい、切れかけの豆電球
の様な光。
何だこれは。
昨日、お前さんから頂いたものだ。お前さんの心の1部。
これが僕の心?
すまんな。 妖怪は申し訳なさそうに、僕の胸にその光を押し込んで埋めた。
いつもなら、心の隅っこをほんの少し頂くんだが、手元がくるってど真ん中を摘んでしまった。許せよ。
そう言われても。なんの実感もなかった。
まあ1部だからな。無くてもさほど影響は無い。影響があるほど盗むのは、3流のやることさ。
1流は失敗しないんだろうけど……。
ぐっ。生意気な人の子。それにしてもお前さん、なぜそんなに心が腐っているね。
……何を言う。腐っている?
ああ。見ただろう、さっきの光。心の端っこならまだわかるが、ど真ん中があれなのは、腐っている証拠だ。
3流妖怪風情が、偉そうに。もう大丈夫だ。
もう?もうとは?
医者に診てもらった。心の専門の医者。もう問題ない。
愚かな……。
何がだよ。
人間に人間の心が見えるものか。見てみよ。 そう言って、妖怪はテレビのリモコンのスイッチを押した。
毎日毎日、戦争だ、殺人事件だと、こんなニュースで溢れているではないか。本当に心が治せるなら、こいつら全員、人間の心の医者に見せればいい。でもしないんだろ?無駄だから。できないから。
そんなこと僕に言われても……。
まあいいさ。それより、お前さんには借りがある。その気があれば、人間のヤブ医者じゃなくて、こちらの本物の心の医者を紹介しよう。
本物って?
本物は本物さ。人間はうわべだけ。妖怪にはうわべは無意味。お前さんの本当の心を見せてやれるぞ。
なんだか怖いな。怖いことを言う。
まあ妖怪だからな。
妖怪はニヤッと笑う。
君の奏でる音楽
新しいチャレンジをと言って、年上の彼女がギターを始めた。
初心者用のレッスン動画を見ながら、毎日欠かさず練習している。小柄なので、座って弾くと、ギターのほうが大きいんじゃないかという感じもする。
ポロン、ポロン。
なかなか上達しないなあ、と心の中だけで言いつつも、彼女の真剣な表情を見ると、茶化すのは万死に値する、と自分にしっかりと言い聞かせる。
ひとり、手持ち無沙汰に飽いて、隣部屋からキャンバスとイーゼルを引っ張り出した。
邪魔しないよう、静かにセットしビギナーギタリストを描きはじめた。
小一時間、たどたどしい弦の音を聞きながら鉛筆を走らせた。久々に描いたが、まずまずの出来だ。
彼女のほうも一段落したようで、こちらの絵を覗きに来た。
へえ。わたし、こんな感じなんだ。ちょっと美人すぎない?
サービスで。
あっそ。ねえ、色は塗らないの?
塗っていいの?
どういうこと?
色を入れちゃったら、この絵、もう完成しちゃうよ。
いいじゃん。駄目なの?
だって完成ってことはさ、いまの君の演奏が描かれるってことだよ。ポロン、ポロンの。
(ハッ。ま、まずい。茶化さないってきめたのに……)
言ってくれるねえ。 彼女はキッと睨んだ後、ペットボトルの水をゴクゴクと一気に飲み干した。
絶対に上手くなってやるから。覚悟しなさい。 彼女はまた練習に戻っていった。
あ~あ、また余計なこと言っちゃった。どうしよ。 このままだと、また手持ち無沙汰だな。ひとりでやることもないし……。
しょうがない。僕はまた隣部屋に行き、今度は絵の具を持ってきた。
もう完成させちゃおう。そして彼女の成長の記録としよう。上達したら、またその時に描こう。そう思いながら色を入れ始める。
途切れ途切れで、大きくなったり小さくなったり、不安定で頼りない弦の音。でも逆にこれは、ビギナーの時にしか出せない音。チャレンジの音だ。
ポロン、ポロン。
さてこの音を、何色で描こうか。頑張るって、何色がいいかな。
そんなことを考えながら、僕は彼女の音楽を描いていく。
麦わら帽子
無精者、怠け者、ズボラ、ものぐさ、横着者。もし僕のウィキペディアがあったら、こんな言葉が並ぶんだろう。
テーブルの上には、お菓子の袋と、コップが3つ、ペットボトルもある。まあとてもじゃないが美しい光景には見えないな。
朝。日が昇る前に畑に行く。草刈りの後、作物に水をやる。全てが終わる頃には、朝日がしっかり顔を出している。汗だくで、もうクタクタ。
野菜を収穫しようとしてハッとする。
まただ。またカゴを忘れた。ズボラ人間の日常。
仕方なく、麦わら帽子を取ってひっくり返し、そこに野菜を入れていく。
ヨロヨロした足取りで家に戻り、両手で抱えた麦わら帽子をそっと縁側に置く。
水をガブガブ飲んだ後シャワーを浴び、ようやく朝ご飯。鮭、納豆、味噌汁、梅干し。日本の朝だな。
デザートに自分で作ったスイカとメロンを食べる。毎日の贅沢。田舎の特権だ。
食事を終えて一休み。お茶を飲みながら新聞を広げて思い出す。
あっ、採った野菜そのままだったような……。縁側に向かう。
ああ、やっぱりだ。置きっぱなし。ズボラ人間の日常。
逆さの麦わら帽子の中に、なす、きゅうり、トマト、ミニトマトが山盛り。ズボラの結果のはずだけど、テーブルの上の光景とは違って、何故かこっちは美しく見えた。
そんな夏の朝。
終点
夕方。庭で黙々と素振りする。誰に言われたわけでもない。そうしたくてたまらなかった。
この暑いのに、精が出るね。 隣の幼馴染が茶化してくる。
うるさいよ、邪魔するな。
うるさいのはそっちよ。ブンブン、ブンブン、音がして勉強の邪魔なの。
そりゃ悪かったな。 僕は力を込めて竹刀を振った。
ちょっと待て。今、ブンブンって言ったか。
言ったけど、なに。
そうか。クソッ。
なによ。
お前に言ってもわかんねえよ。
言わなきゃ何にもわかんないでしょ。こっちに迷惑かけてんだから、説明ぐらいしなさい。気になって数学、進まないから。
僕は嫌な顔を隠さなかった。そして嫌な顔のまま口を開いた。
転校生がきたろ、あいつ剣道部に入ったんだ。
ああ、背の高いスラッとした?それが?
……凄かったよ。素振りだけでわかった。凄いって。
そうなの。どこが? 僕は一層嫌な顔をして、
さっき、ブンブンって言ったろ。でもあいつのは違うんだ。もっと高くて短くて、ヒュッて感じの音。
そっちのほうがいいの?
ああ。 僕は1度振ってみた。やっぱりあいつの音とは違う。
凄かったんだ。多分、先生よりも凄い。
へえ。そりゃ凄いね。
あいつの振り、頭に焼き付いてるんだ。迷いもなく一直線に振り降ろす。剣先の始点と終点が、正中線から全く外れない。凄いよ。
そう……。あんたは迷いがあるの?
ない。ない、はず。
──でも僕はあいつのようには振れない。
うーん。迷いが見えるねえ。 真面目になのか、からかっているのか、わからないような口調で彼女が言う。
あんたさ、私のこと好きでしょ。
な、なに言ってんだ。いまの話となんの関係もないだろ。
私は好きよ。あんたのこと。
え……。 どう反応して良いのか、体が固まってしまった。
ほら、気持ち、わかったんだから迷いも1個減ったでしょ。素振り、振ってみ?
おまえ……。
いいから早く。ホレ。 これはわかる。明らかにからかっている。
仕方なく、竹刀を振り上げる。そして振り降ろす。
ああ、駄目。全然、駄目。始点と終点、バラバラ。素人でもわかるよ。
わかってるよ。ちょっといま、頭が忙しくて……。
まったく、そんなんじゃ転校生に追いつけないぞ。
わかってるよ。
そのあとも、とりあえず素振りを繰り返した。けど結局その日は、成長のない素振りで終わってしまった。