イオリ

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8/14/2024, 10:38:13 PM

自転車に乗って

 数十年ぶりに自転車に乗った。何の旅でもない。ホームセンターに猫のトイレの砂を買いに行くだけ。

 自転車は高校生以来だ。乗れるかな、と不安だったが、実際に乗ってみると、なんの問題もなく走れた。風を切りながら進むこの感じ、懐かしい。

 自転車の乗り方というのは、長期記憶というらしい。他には母国語や楽器の弾き方などが長期記憶に含まれる。長期記憶はなかなか忘れるものではないらしい。

 ところで、私は車の免許はマニュアル車の免許だ。けど、実際にはほとんどオートマ車の運転のみだ。もし、いま、マニュアル車を運転しろと言われたら、正直、かなり不安だ。

 私の半クラッチは、長期記憶ではないと思われる。まあ、ほとんどが教習所の時のみだ。記憶に残すほどではない、と脳が判断したのかもしれない。


 ──自転車のお使いに戻る。

 昔とはまったく違う町を走っているのに、何故か懐かしい感覚がよみがえってくる。
 
 ブレーキの感触、電柱の避け方、歩行者の避け方。車道と歩道を行ったり来たり。

 坂道に差し掛かる。

 そういえば。

 先に下校した好きな子に追いつこうと、全力で坂を下って、1回転半の大転倒をしたことがあったっけ。

 その時の記憶が浮かぶと、恋のドキドキと、宙に浮いた時の、これはマズイ、と意外に冷静に思った感覚、が体に蘇った。こんなにはっきり思い出せるとは……。

 あの恋と、あの大転倒の恐怖も、忘れ去ることのない、私の長期記憶なのかもしれないなあ。

 とにかく、もうさすがに転びたくない。2袋買おうと思ったけど、1袋の砂だけで帰ろう。

 安全運転でね。

8/14/2024, 2:40:43 AM

心の健康 

 さすらいの妖怪。風に紛れて、すれ違う人の心をひとつまみ、摘んでいく。

 ある日、その妖怪が僕を訪ねて来て妙なことを言ってきた。

 これ、欲しいか。返して欲しいか。  差し出された手の上には、ひとつまみ分の光があった。とても弱々しい、切れかけの豆電球
の様な光。 

 何だこれは。

 昨日、お前さんから頂いたものだ。お前さんの心の1部。

 これが僕の心?

 すまんな。 妖怪は申し訳なさそうに、僕の胸にその光を押し込んで埋めた。

 いつもなら、心の隅っこをほんの少し頂くんだが、手元がくるってど真ん中を摘んでしまった。許せよ。

 そう言われても。なんの実感もなかった。

 まあ1部だからな。無くてもさほど影響は無い。影響があるほど盗むのは、3流のやることさ。  

 1流は失敗しないんだろうけど……。

 ぐっ。生意気な人の子。それにしてもお前さん、なぜそんなに心が腐っているね。

 ……何を言う。腐っている?

 ああ。見ただろう、さっきの光。心の端っこならまだわかるが、ど真ん中があれなのは、腐っている証拠だ。

 3流妖怪風情が、偉そうに。もう大丈夫だ。

 もう?もうとは?

 医者に診てもらった。心の専門の医者。もう問題ない。

 愚かな……。

 何がだよ。

 人間に人間の心が見えるものか。見てみよ。  そう言って、妖怪はテレビのリモコンのスイッチを押した。

 毎日毎日、戦争だ、殺人事件だと、こんなニュースで溢れているではないか。本当に心が治せるなら、こいつら全員、人間の心の医者に見せればいい。でもしないんだろ?無駄だから。できないから。 

 そんなこと僕に言われても……。

 まあいいさ。それより、お前さんには借りがある。その気があれば、人間のヤブ医者じゃなくて、こちらの本物の心の医者を紹介しよう。

 本物って?

 本物は本物さ。人間はうわべだけ。妖怪にはうわべは無意味。お前さんの本当の心を見せてやれるぞ。
 
 なんだか怖いな。怖いことを言う。

 

 まあ妖怪だからな。 

 妖怪はニヤッと笑う。

8/13/2024, 4:26:00 AM

君の奏でる音楽

 新しいチャレンジをと言って、年上の彼女がギターを始めた。

 初心者用のレッスン動画を見ながら、毎日欠かさず練習している。小柄なので、座って弾くと、ギターのほうが大きいんじゃないかという感じもする。

 ポロン、ポロン。

 なかなか上達しないなあ、と心の中だけで言いつつも、彼女の真剣な表情を見ると、茶化すのは万死に値する、と自分にしっかりと言い聞かせる。

 ひとり、手持ち無沙汰に飽いて、隣部屋からキャンバスとイーゼルを引っ張り出した。

 邪魔しないよう、静かにセットしビギナーギタリストを描きはじめた。

 小一時間、たどたどしい弦の音を聞きながら鉛筆を走らせた。久々に描いたが、まずまずの出来だ。


 彼女のほうも一段落したようで、こちらの絵を覗きに来た。

 へえ。わたし、こんな感じなんだ。ちょっと美人すぎない?

 サービスで。

 あっそ。ねえ、色は塗らないの?

 塗っていいの?

 どういうこと?

 色を入れちゃったら、この絵、もう完成しちゃうよ。

 いいじゃん。駄目なの?

 だって完成ってことはさ、いまの君の演奏が描かれるってことだよ。ポロン、ポロンの。

 (ハッ。ま、まずい。茶化さないってきめたのに……)

 言ってくれるねえ。 彼女はキッと睨んだ後、ペットボトルの水をゴクゴクと一気に飲み干した。

 絶対に上手くなってやるから。覚悟しなさい。  彼女はまた練習に戻っていった。

 あ~あ、また余計なこと言っちゃった。どうしよ。  このままだと、また手持ち無沙汰だな。ひとりでやることもないし……。

 しょうがない。僕はまた隣部屋に行き、今度は絵の具を持ってきた。

 もう完成させちゃおう。そして彼女の成長の記録としよう。上達したら、またその時に描こう。そう思いながら色を入れ始める。

 
 途切れ途切れで、大きくなったり小さくなったり、不安定で頼りない弦の音。でも逆にこれは、ビギナーの時にしか出せない音。チャレンジの音だ。

 ポロン、ポロン。

 さてこの音を、何色で描こうか。頑張るって、何色がいいかな。

 そんなことを考えながら、僕は彼女の音楽を描いていく。

 
 
 

8/12/2024, 12:41:56 AM

麦わら帽子

 無精者、怠け者、ズボラ、ものぐさ、横着者。もし僕のウィキペディアがあったら、こんな言葉が並ぶんだろう。

 テーブルの上には、お菓子の袋と、コップが3つ、ペットボトルもある。まあとてもじゃないが美しい光景には見えないな。

 
 朝。日が昇る前に畑に行く。草刈りの後、作物に水をやる。全てが終わる頃には、朝日がしっかり顔を出している。汗だくで、もうクタクタ。

 野菜を収穫しようとしてハッとする。

 まただ。またカゴを忘れた。ズボラ人間の日常。

 仕方なく、麦わら帽子を取ってひっくり返し、そこに野菜を入れていく。

 ヨロヨロした足取りで家に戻り、両手で抱えた麦わら帽子をそっと縁側に置く。

 水をガブガブ飲んだ後シャワーを浴び、ようやく朝ご飯。鮭、納豆、味噌汁、梅干し。日本の朝だな。

 デザートに自分で作ったスイカとメロンを食べる。毎日の贅沢。田舎の特権だ。

 食事を終えて一休み。お茶を飲みながら新聞を広げて思い出す。

 あっ、採った野菜そのままだったような……。縁側に向かう。

 ああ、やっぱりだ。置きっぱなし。ズボラ人間の日常。

 逆さの麦わら帽子の中に、なす、きゅうり、トマト、ミニトマトが山盛り。ズボラの結果のはずだけど、テーブルの上の光景とは違って、何故かこっちは美しく見えた。

 そんな夏の朝。

 

8/11/2024, 2:50:10 AM

終点

 夕方。庭で黙々と素振りする。誰に言われたわけでもない。そうしたくてたまらなかった。

 この暑いのに、精が出るね。 隣の幼馴染が茶化してくる。

 うるさいよ、邪魔するな。

 うるさいのはそっちよ。ブンブン、ブンブン、音がして勉強の邪魔なの。

 そりゃ悪かったな。 僕は力を込めて竹刀を振った。

 ちょっと待て。今、ブンブンって言ったか。

 言ったけど、なに。

 そうか。クソッ。

 なによ。

 お前に言ってもわかんねえよ。

 言わなきゃ何にもわかんないでしょ。こっちに迷惑かけてんだから、説明ぐらいしなさい。気になって数学、進まないから。

 僕は嫌な顔を隠さなかった。そして嫌な顔のまま口を開いた。

 転校生がきたろ、あいつ剣道部に入ったんだ。

 ああ、背の高いスラッとした?それが?

 ……凄かったよ。素振りだけでわかった。凄いって。

 そうなの。どこが?  僕は一層嫌な顔をして、

 さっき、ブンブンって言ったろ。でもあいつのは違うんだ。もっと高くて短くて、ヒュッて感じの音。

 そっちのほうがいいの?

 ああ。 僕は1度振ってみた。やっぱりあいつの音とは違う。

 凄かったんだ。多分、先生よりも凄い。

 へえ。そりゃ凄いね。

 あいつの振り、頭に焼き付いてるんだ。迷いもなく一直線に振り降ろす。剣先の始点と終点が、正中線から全く外れない。凄いよ。

 そう……。あんたは迷いがあるの?

 ない。ない、はず。   

 
 ──でも僕はあいつのようには振れない。

 うーん。迷いが見えるねえ。  真面目になのか、からかっているのか、わからないような口調で彼女が言う。

 
 あんたさ、私のこと好きでしょ。

 な、なに言ってんだ。いまの話となんの関係もないだろ。

 私は好きよ。あんたのこと。

 え……。 どう反応して良いのか、体が固まってしまった。

 ほら、気持ち、わかったんだから迷いも1個減ったでしょ。素振り、振ってみ?

 おまえ……。

 いいから早く。ホレ。  これはわかる。明らかにからかっている。 

 仕方なく、竹刀を振り上げる。そして振り降ろす。

 ああ、駄目。全然、駄目。始点と終点、バラバラ。素人でもわかるよ。

 わかってるよ。ちょっといま、頭が忙しくて……。

 まったく、そんなんじゃ転校生に追いつけないぞ。

 わかってるよ。  

 そのあとも、とりあえず素振りを繰り返した。けど結局その日は、成長のない素振りで終わってしまった。
 

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