上手くいかなくたっていい
暑中、いかがお過ごしですか。
こちらもまだまだ暑い日が続いております。
体調を崩さないようご自愛下さい。
よし。こんなもんかな。
どう?これで。 彼がパソコンの下書きを見せてきた。
うん。いいんじゃない。
よし。ん、あれ?でもさ、もう立秋超えたから、暑中じゃなくて残暑のほうがいいよね。
さあ、そうなの?
そのはず。じゃあ、残暑、いかがお過ごしですか、っと。ん?いかがお過ごしですか、じゃなくて、残暑御見舞申し上げます、のほうがいいかな?
そんなの、どっちでもいいよ。
いやいや、こういうのはちゃんとしないと。となると、ご自愛下さい、よりも、今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします、のほうがいいよね。
まってまって。堅い、堅苦し過ぎるよ。
いや、でもさ、僕はね、君の両親とも上手くやっていきたいと思ってるから。こういうのもちゃんとしないと。
気にし過ぎ。暑中見舞いか残暑見舞いか分かんないけど、そんなの上手くいかなくたってうちの親、全然気にしないから。
そう?
うん。
いや、でもなあ。 そう言って夫は再びスクリーンとにらめっこを始めた。
電話で、体調どうですか、ぐらいで十分なんだけど。
でもその心配りがとても嬉しい。
えぇっと、
残暑の候、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
平素は格別のご高配を賜りまして、厚く御礼申し上げます。
例年になく暑い日々が続いておりますが、お父様、お母様におかれましては、お変わりなくお過ごしでしょうか。
秋が待ち遠しく感じる今日このごろ、またお会いできる日を心より楽しみにしております。
今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。
よし、どう?
まってまって、ホントにまって。こんな仰々しいの届いたらうちの親、びっくりしちゃうから。なにかあったのって、心配するから。逆に上手くいかなくなるから。ホントにやめてね。
そう?残暑見舞いって難しいなぁ。
蝶よ花よ
書道教室、バレエ教室。どこへ行くにも親が車で送り迎え。
近所の幼馴染の子。蝶よ花よと大事に育てられてる──はずだけど。いつも暗い表情に見える。
給食の時間。隣の席になったあの子が、小さい声で聞いてきた。
体育のあと使ってたタオル、あれってもしかして新日のタオル?
えっ、そうだけど。
ごめん、たまたま見えたから。ロスインゴの内藤哲也だよね。
知ってんのか。意外だな。プロレス好きなのか。
うん。スマホで見てる。こっそり。
こっそり、か。まぁそうなんだろうな、と思ったが、口には出さなかった。
今度さ、録画しておくからうちのテレビで見るか?
え、いいの? 突然声を上げた彼女に視線が集まった。はっと気づいた彼女は慌てて下を向いた。
急にでかい声出すなよ。
ごめん。
ったく。ちなみにさ、お前はだれが好きなの?
……鈴木みのる。
マジで? 今度はこっちが声を上げた。
ちょっと、静かにしてよ。
悪い、悪い。意外すぎて。
周りの注目が早く消えるようにと、できるだけ普通の表情を心がけた。だが、抑えきれず笑いが漏れてしまう。
お前が、鈴木みのるって……。
ちょっと、笑わないでよ。 そう言った彼女の顔は、いつもより明るく見えた。
最初から決まっていた
暑い。
暑さ寒さも彼岸まで。ばあちゃんが毎年言ってる。
本当か?もうお彼岸だけど、依然として殺人的暑さ継続中だぞ。
気分だけでも涼しくなろうと、夏休みの絵の宿題は、アサガオを描くことにした。
庭には数種類の色のアサガオが咲いている。その中で1番、目に止まったのは、紫色で、周りが白で淡く縁取られているアサガオだ。他のもいいけど、この色合いが1番涼しさを感じさせる。
よし、これを描こう。
──のはずだったけど。
だって暑いからさー、どうしてもダラダラしちゃうよね。夜、ようやく涼しくなるから、そこからいろいろ活動を始めたりして。オリンピックも見たりして。
結果、朝起きられない。起きたときには、しぼみ始めている。
アサガオは朝。最初から決まっている。わかってるんだけど。
だって暑いからさー。しょうがないじゃん。
……ひまわり、にしようか。 チラッと隣のひまわりに目を向けた。
ああ、やっぱりだめ。ひまわり、お前は元気過ぎだ。暑すぎる。
……頑張って早起きしよ。
太陽
絵が下手だった。子どもの頃は、写生の時間が本当に苦痛だった。何を書いても、自分が見ているものと、描いた絵が違いすぎてうんざり。
でも、唯一自信を持って描いたのは、太陽だ。赤々とまん丸に。まさに日の丸。気分が乗っていたら、その周りに放射状の光を足したりもした。
そもそも、太陽を赤で描くのは日本ぐらいらしい。アメリカなどはオレンジ、北欧あたりだと白っぽく描かれるらしいが、その理由が面白い。
簡単に言えば、緯度の違いらしい。低い緯度の場合、太陽との距離が近いので、赤い光が多く、逆に緯度が高いと、距離が遠くなるので青い光が多くなる。高ければ高い程、白っぽく見えるのはそのためだ。
太陽はその圧倒的存在感ゆえ、誰もが根元的な生命力を感じるもの。しかしながら、
太陽は誰にとっても同じ太陽、というわけではなさそうだ。
──てなことを考えながら、ひまわりに水をやる。
なぁ、ひまわり。お前は赤々の太陽と白っぽい太陽、どっちがいい?やっぱり赤だよな。
ひまわりは僕には答えず、ただひたすら太陽を見ていた。
鐘の音
苦しい、もうだめだ、と全身が悲鳴を上げている。
自分は1流ではない。意図せずたまたま、この位置にいるだけ。どうせこれが終わったら、退部届を出すつもりだ。そんな自分が、トップクラスの連中によくここまでついてこれた。もう十分だ。
力を抜こう。限界。よくやったよ。
ラスト1周。
激しく鐘の音が響く。それに呼応して競技場の声援が何倍にも膨れ上がる。トラックの温度も一気に上がった。
ちょっと待ってくれ。何だよこれ。こんなふうにされたら。
まだ諦めるわけにはいかないじゃないか。
腕を大きく振る。ストライドも大きくなる。つま先に向かって再び血流が流れ出すのを感じた。
勝てるとは思わない。でも……。
まだ走れる。
そう思った最後の1周。自分の知らない自分の走りに出会えた。
その日の夜。
湯船に浸かりながら、今日のレースを思い出す。
順位はたいしたことない。予想通り。でもそんなことはどうでも良かった。
鐘が鳴ってからのあの感覚。あんなのを味わったら……。
やめられないなあ、もう。
部屋に戻る。
髪も乾かさずにカバンを開け、退部届をちぎって捨てた。