夫婦
変り者のふたり。新しい生活の記念にと、大きな砂時計を模したイスを、一脚作った。旅行で訪れたサントリーニ島の砂浜で集めた白砂。エーゲ海の空気をそのまま閉じ込めた無色透明のガラスの中を、きらきらと輝いて落ち続ける。静かに。とめどなく。ふたりの時間が積み重なるように。
けれど、ある日突然、その白砂が動きを止めた。
何かが詰まったのだろうか、と最初はふたりとも気にも留めなかった。しかし、それは偶然ではなかった。
「最近、このイスの砂、動いてないよね」
妻がぽつりと呟く。
「そうだな。でもまあ、そんなこともあるだろう」
夫は目も合わせずに答える。
見えない冷たい空気が二人の間に広がる。前はどんな言葉も、どんな沈黙も心地よかった。それが今は、ただ重いだけだ。
砂時計の白砂は、まるでふたりの心を映しているかのように、びくともしない。時が止まったように、沈黙だけが流れていった。
砂時計に座ってテーブルに上半身を預けたまま、妻が気だるく口を開いた。
「これを作ってくれた職人さんに連絡してみようか」
「ああ、いいんじゃないか。きみに任せるよ」
「任せるって……。まあ、もういいわ。ひとりでやるから。名刺、あなたが持ってるんでしょ。貸して」
妻は夫の答えを待つ前に立ち上がり、夫の書斎の机を探り始めた。
「なんでこんなにごちゃごちゃしてるの?ちゃんと片付けたら?」
引き出しの中を漁りながら、妻が言った。
「いま、俺がやるから。余計に分からなくなるだろ」夫が渋々腰を上げた。
それから2、3度、小さな言い合いのあと、一番下の大きな引き出しを開けた。ここも何が何やら分からないほど煩雑していて、また小言を交えながらふたりで手を突っ込んだ。
「あ、これ」
妻がふと、声を上げる。
「覚えてる?」
手には1枚の写真。ギリシャ旅行、ミコノス島の風車が写っている。
「ああ、もちろん。綺麗だったな。予定よりも遅かったけど、かえって夕方のほうが綺麗で良かった」
「うん。あ、これも懐かしい。この料理も美味しかった」
「ああ、美味かった。確か、ギリシャ語で食堂はタベルナって言うんだよな。『食堂なのに食べるなって……』って話した覚えがある」
「あったね、確かに」
そう言いながら妻がもう一枚見つけた。サントリーニ島でふたりでとった写真。青い海をバックに笑顔を浮かべるふたり。その背後には、砂時計のデザインを描いたスケッチブックが写っている。
「あったな、こんなの」
夫が照れくさそうに言った。久々に聞いた夫のそんな声に、妻もつられてほほ笑んだ。
「良いデザインだよね、砂時計」
「そりゃ俺が描いたからな。当然だろ」
「そうかもね」
結局、名刺は見つからず、代わりに出てきた写真たちを手に、妻は砂時計のイスに戻った。チョンと腰掛け、一枚一枚丁寧に見返す。
後片付けを終えた夫は、冷蔵庫から缶ビールを開けてぐっと呑んだ。写真に夢中になっている妻を、少し離れたところで眺めていたが、やがて近づき、お尻を向けてグッと妻の体を押しやって砂時計に座った。
「ちょっと、なによ」
「このイス、半分は俺のものだ。だから半分座る」
「なによ、突然」
口をとがらせて妻は写真を手にしたまま向こうを向いた。
「狭いよ」
「ああ、でも座れるだろ?そう作ったんだから」
「……うん」
半分ずつ譲り合って座ったふたり。まだ背中を向けたままだが、砂時計の白砂はゆっくりと流れを再開させた。
「……砂時計、直るといいね」
「そうだな。直るといいな」
どうすればいいの?
地元に本店があるラーメン屋さん。あっさり醤油ラーメンが大人気。十年であっという間に全国に店舗を広げていった。
ところが去年、多角化経営で異業種に手を伸ばしたのが裏目に出て、瞬く間に赤字路線へ。メインバンクが経営に参画し、その結果、ラーメン以外の事業は売却。メニューも昔ながらのあっさり醤油ラーメンのみに戻った。原点回帰というやつだ。
「ヤダー」
「どうしたの」
「先月出たばかりの『チョコレートあんみつ生クリーム添え豚骨ラーメン』、無くなっちゃうんだって。気に入ってたのに……。これからわたし、どうすればいいの?」
「……そんなメニューあったの?あんた、いつもそんなの食べてるの?」
「うん。超美味しいよ」
「世界中がみんなあんたと同じ味覚の持ち主だったら、新事業も上手くいってたんだろうね……」
「ま、食べたことのないあんたにはわかんないわよ、あの素晴らしさが」
「はい、はい。いーよ別にわからなくても。それよりさ、お腹すいたよ。お昼何食べる?ラーメン屋さん以外で」
「じゃあ、駅前のお蕎麦屋さんは?」
「新しく出来たお店?もう行ったの?」
「うん。彼氏と。あそこのね、『ハチミツあんかけ エビ天ぷらそば プリンのせドーナツ添え』っていうのが最高でさ」
「……そういえば、今日は蕎麦の気分じゃなかった」
「じゃあ、ピザにする?向かいのピザ屋さん。あそこのね、『ナスとモッツァレラチーズ マカロン みたらし団子 クッキー クレープたっぷりのせ 抽選でハワイ旅行付き』っていうスペシャルメニューがおすすめでさ」
「……これからわたし、あんたとのランチ、どうすればいいのかわかんないよ……」
宝物
夜が深まる頃、町の屋根の上に一つの影。黒の外套で月の光を防ぎながら、屋根から屋根へと飛び立っていく。星が流れるように美しい軌跡で。
影は大きな布袋を背負っていた。時折立ち止まり、袋の中から何かを取り出し、空に向けてばらまいた。舞い上がった光の粒は冬風に流されること無く、町中の子どもたちの部屋へと消えていった。
翌朝。目を覚ました子どもたちはみんな、笑顔を浮かべていた。心の中に、温かい光の粒が宿っているのを感じていた。
「なにか良いことあったのかい?」
大人たちが尋ねると、
「秘密」と答えた。
「どうして秘密なの?」
「だって宝物だから。大事なものはちゃんとしまっておかなきゃ駄目だから」
子どもたちは一様にそう話した。大人たちは子どもが笑顔ならそれで良いかと、詳しくは聞くこともなかった。
年月が流れて。
子どもたちは少しずつ成長していった。友だちが出来て、恋人が出来て、目標が出来て……。少しずつ少しずつ、自分というものを築いていった。
と、同時に昔のような笑顔が消えていった。
ある少年が、心の中の光の粒を見つめてみた。光は薄れて今にも消えかかっていた。
なぜ?どうして?
そう思っても、誰にも聞けなかった。光の粒のことを大人たちは知らないし、友だちは光が翳っているなどと、思いもしていない様子だったから。
怖かった。何をどうしていいかわからず。
あるとき、少年は夜中に家を出た。両親と些細な喧嘩をして。
空気は切るように冷たい。でも戻る気にもならない。あてもなく歩いた。
うつむきながらしばらく歩くと、地面に影が走った。震えながら顔を上げると、屋根の上に人影があった。
影は軽やかな足取りで屋根伝いに進み、たびたび光の粒をばらまいた。
あれは……。あの光の粒は。
確信した少年は、町の外へ飛んでいった影を必死で追いかけた。 足がもつれそうになっても走り続けた。
だがしばらくして、立ち止まった。膝に手をついて肩で息をする。もう動けない。丘の上で白い息が悲しく消えた。
「なぜ追ってくる?」
背後からの声に驚き、少年は慌てて振り向いた。影は外套を纏って静かに立っていた。
「あなたは誰です?あの光の粒は?」
「ああ、見てたの?それでか」
影は被っていたフードを脱いだ。綺麗な輪郭の人だった。男?女?どちらだろうか?けどそんなことがたいした問題ではない、と思わせるような不思議な瞳をしていた。冷たいような、温かいような。そんな瞳。深い青の瞳。
「てっきり捕まえに来たのかと思った。焦ったよー」
「それで?」
「ああ、そうだね。じゃあ最初の質問の答えね。わたしは天使」
「天使?」
「もしくは悪魔」
「どっちなんだよ」
「どっちでもいいでしょ。君たちからすればたいして違いはないはず。それで?2つめの質問なんだっけ?」
「あの光。光の粒」
「そうだった、そうだった。あれは単純だよ。宝物。幸せを感じる宝物をみんなに配っているのさ。ん?」
そういったあと、少年をじっと見てぐっと近づいてきた。
「きみの宝物、だいぶ光が弱くなってるね。もしかして、また欲しいのかい?もう必要ないはずだけど」
心の中を一気に鷲掴みされたようで、少年は言葉に詰まってしまった。
「そうか、そうか。余程気に入ってもらえたようだね」
影は抱えていた袋から粒をひと粒摘んで出した。
「さあ、手を出してごらん。きみが望むなら、これからもずっと宝物をあげよう。ずっと、ずうっと……」
夜さえも翳るような眩しい光。少年は心臓が早鐘のように打つのを感じながら震える手を差し出した。
「そのかわり、これを受け取ったら、もう自分の力で宝物を作ることは出来ないよ。それでもいいかい?」
影の言葉にハッとした。暫し固まったあと少年は手を引っ込めて、震える声で、
「やっぱりいい。いらない」
「あれ?そう?きみがそうするならそれでいいけどさ」
影は粒を袋に戻し、肩に抱え直した。
「じゃあわたしはもういくよ。次の町の子どもたちにも配らなきゃならないからね。きみもおうちに帰りなさい。……あれ?そもそもなんできみはこんな夜中に外にいるのさ?」
少年は黙ってうつ向いた。
「もしかして、親とケンカでもしたかい?そうか、そうか。そうりゃあいいね」
「なんでいいのさ」
「人間、人生で一度くらいは家出をしなきゃな。自分で自分の人生を作ろうとしたんだろ?それで喧嘩した」
「そんな大層なことじゃないよ」
「いいよ、いいよ。隠すな、隠すな。立派なことさ。じゃあ今日の家出が、きみの最初の宝物だな」
影はそう言った。そして次の瞬間、風に吹かれた砂のように、影は光の粒になって夜空に溶けていった。
キャンドル
断りもなく冬がやってきた。家に入ると僕は真っ先にエアコンのスイッチを押し、彼女はコートを着たままヤカンに火を入れた。
着替えをする間に湯が沸いた。部屋はまだ寒い。淹れたてのコーヒーが白い湯気を上げた。
テーブルの上には、買ってきたショートケーキが皿に盛られていた。赤いイチゴが燭台のキャンドルに照らされて、艶やかに輝いている。
「この曲、好きなんだよね」彼女が小さな声で言った。彼女が選んだ宇多田ヒカルの『Prisoner Of Love』がスピーカーから静かに流れる。宇多田の声を追いかけるように、彼女は指先でコーヒーカップの縁をなぞった。
「わかる。この曲、なんとなく囚われているような感覚がある。Prisonerだし」
囚われている?口に出した言葉に心が引っ掛かった。何に?僕は、心の底では何かに囚われている、と思っているのだろうか。
彼女を見た。静かな表情。彼女も何かに囚われているのだろうか。
次に、僕が選んだ曲、ユーミンの『埠頭を渡る風』が流れると、彼女が少し笑った。
「なんだか、少し遠くに行っちゃうような曲だね」
「そうかも。でも、風に乗っていくような自由な感じもある」
「そうかもね。ねえ、知ってる?宇多田ヒカルもユーミンも1/fゆらぎの声なんだよ」
「1/fって?」
「簡単に言うとね、癒しのリズム。波の音とか木漏れ日の揺れとかあるでしょ。自然のリズム。ちなみにこのキャンドルの炎も1/fゆらぎ」
「へえ。そうなんだ」
彼女が炎を見つめた。力があるような、そうではないような。心は映さない瞳だった。
もしかしたら、彼女も僕に、同じように思ったかもしれない。
ショートケーキの苺を先に食べるか、最後に食べるかみたいに、僕たちの答えも時々ずれる。でもそのずれが、キャンドルの光のように揺らぎながら、僕たちを繋ぎ止めているようにも思えた。
たくさんの思い出
私の頭の中には、小さな郵便局がある。
錆びた看板に書かれた「記憶郵便局」の文字。窓口の奥では、小さな職員たちが忙しく動き回り、思い出を封筒に収めて、時には手紙に綴り、それらを棚に並べていく。
「幸せ」の棚には、日の光を浴びたような暖かな封筒が並び、「悲しみ」の棚には、しっとりとした湿気を帯びた封筒がある。すべての手紙が、きちんと分類され、私の中で静かに息をしている。
その日もいつも通り、郵便局は仕分け作業が順調に進んでいた。職員たちは慣れた手つきで封筒を開いて、記憶を読み取り、棚の中に整然と振り分けていった。
「今日はこれで最後だな」
ルーキーの職員が、運ばれた本日最後の郵便袋を逆さまにして、封筒の束を出した。勢いよく飛び出したせいで、ひとつの封筒がテーブルから落ちてしまった。
「おっと、いけね。ん、なんだ?これは」
床に落ちた封筒。それは明らかに他のものとは違っていた。端っこが焦げたように煤けて変色している。差出人も書いてない。何より、鼓動のようにわずかな脈動をしている。まるで生き物のようだった。
どうした、どうしたと職員が入れ代わり立ち代わり見にくるが、誰も拾おうとしない。
「おい、ルーキー。お前の担当だろ。お前が処理しろよ」
誰かが声を上げると、そうだ、そうだと職員たちが続いた。
「わ、わかりましたよ。もう」
ルーキーが怯えながら封筒を拾い上げる。手のひらの中でも、封筒の脈動は続いている。
「じゃ、じゃあ開けますよ」
一堂が息をのむ中、一気に封を切った。
「なにも、ない?いや、待て」
耳を澄ますと静かな波の音が聞こえた。封筒の中から流れていた。
繰り返す穏やかな波の音。次第に大きくなる。これだけか?と、職員たちが思った次の瞬間、波が分厚い轟音に変わった。何かがぶつかって崩壊する音。と同時に郵便局全体が鮮明な映像に包まれた。
落ちる看板、崩れ落ちた街。亀裂の入った道路。怪しい黒煙を上げる発電所。それらを見つめる人々。泣きながら、歯を食いしばりながら、瓦礫の中に手を伸ばす人々。
そしてその全てをいつも通り照らす朝日。手を繋ぐ人々の足元に芽吹く、小さな緑の葉。
職員のひとりが口を開いた。
「これは、悲しみの棚に入れるべき、だよな?」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「なんだよ、ルーキー」
「全体的に悲しいけど、それだけじゃないじゃないですか。なんていうかこう、胸を打つ温かさ、っていうのもありますし」
「じゃあ幸せの棚か?」
いやいや、待てと、そこから局内で白熱の議論が始まった。
1日、2日、3日。1週間。まだ議論は終わらない。通常業務をこなしながら、同時にあの封筒をどこに振り分けるか、時間を見つけては話し合っていた。
結局ひと月、こんな日々が続いた。議論に疲れ果てた職員たちは、あす、最終的に多数決で決めようということになった。
「あした、か」
営業時間が過ぎた静かな郵便局で、ルーキーがひとり、例の封筒の映像を見返していた。
最初に届いた日からほぼ毎日、こんなふうに居残って、言葉もなく見返していた。
「それで?君の結論はでたのかね?」
声に驚いたルーキーが振り返ると、そこには白髪の局長が立っていた。
「あ、おつかれ様です」
「はい、お疲れ様」
局長がコーヒーを手渡した。
「ども、頂きます。いやぁ、実はまだ悩んでます。局長はもう決めましたか?」
「うん。悲しみの棚」
「そうですか。理由は?」
「当時、悲しかったからね。すごく。あの頃の振り分けは、ほとんどが悲しみの棚だった。だからあの封筒を見た時、直感的にわたしの中の振り分けはもう決まっていたよ」
「そうですか……」
「だからって君も同じ考え方をしなければならないってことはないんだよ。君は若いんだから。君は君の考えでいいんだ」
年老いた局長は、やわらかな優しい笑顔でそう言った。
「そう、ですよね。俺は俺のやり方でいいんですよね」
「うん」
「よし、決めました。俺、あしたは俺らしくやります」
ルーキーは力強く答え、コーヒーを一気に飲み干した。
翌日。
慌ただしく集合する職員たち。全員が集まったのを確認し、ベテラン職員が口を開いた。
「えー、では問題の封筒についてですが、さっそく多数決で……」
「はい、はい、ちょっと待ったぁ」
威勢のいい大声が飛び出た。みんなの視線の先に手を挙げたルーキーがいた。
「先輩方にいろいろ気を使わせちゃって、すいませんでした。でもこの封筒、元々は俺の担当なんで、俺が決めます」
そう言うと、ルーキーは周囲のざわめきを無視して歩き出した。
たどり着いた先には、先週、新調したばかりの棚があった。まだ未使用で封筒はひとつもない。
ルーキーはカバンからプレートを取り出し、棚の一番上に釘で打ち付けた。
「新しく棚を作ります。この棚の種類は希望。希望の棚にします」
そう言ったあと、例の封筒を金色のプレートが輝く希望の棚に入れた。
「っていうことなんで、みなさん、よろしくお願いします」
大声で、元気よくお辞儀するルーキー。
束の間の沈黙のあと、郵便局に割れるような拍手が鳴り響いた。
新しい棚に置かれた最初の封筒。くすんでいた部分が、ひっそりと光を帯びた。