つまらないことでも
人生とは、人間とはなんぞや。
答えを探るために、偉人、そして身近な尊敬できる人たちの名言に耳を傾けて過ごしてみた。
ふむふむ。なるほど。たしかに。そのとおりだ。素晴らしい。
心のなかのポッカリと空いていたエリアを、輪郭の整った、名言のピースが埋めていく。
そうかあ、人生ってこういうことなんだなあ。
と、満足感に浸ったのもせいぜい1週間ぐらいのことで……。なんとなくしっくりこなくなったというか、モヤモヤを感じ始めたというか。
気になって胸の小窓を開いて覗いてみると、ピースで埋まったと思っていた所に、わずかに隙間が出来ていた。
あらら、これか、モヤモヤの原因は。
どうしようか。名言のピースは大きすぎて入らなそうだし。うーむ。
そうか、よし。だったらダメもとで、全く別のことに耳を傾けてみよう。
名言ではなく、愚言。愚者の愚言。
X、YouTube、インスタグラム、3流週刊誌。身近な愚か者。次の日から、ありとあらゆる愚言を探し聞き耳を立てた。
うーむ、まさに愚言だ。幼稚で、下品で、粗暴で。なんの面白みもないつまらない言葉たち。こんなものはなんの役にも立たないな。もう集めるのはやめよう。
と、決意したはずなのに。無意識にそんな愚言を探し、あまつさえ、時折、心から笑ってしまうこともあった。
あれ?そういえば、あの隙間どうなったかな。
再び胸の小窓を開いて覗いてみた。すると……。
なんと、あったはずの隙間が埋まっていた。
きれいな輪郭の名言ピースとは違い、ドロドロとしたヘドロのような愚言スライムが、あった隙間に入り込んで見事に埋めていた。
そうか。人生って、人間って、そういうものなんだなあ。と思った。
という話を、年上の彼女にした。
それで?その話のオチは?
ええっとですね。 僕はゆっくりと皿を差し出した。
きれいな目玉焼きだけではなく、焦げてしまった目玉焼きもある。それもまた人生……。
それは……。愚言ね。 彼女は焦げた目玉焼きを受け取って黙々と食べ始めた。
ごめんね、ちょっと友だちにライン返してて、目を離しちゃって……。
彼女はそれには答えず、コホン、と喉を整えた。そして、
焦げた目玉焼きでも許せるのは、本当に好きな人だから。
え、な、なに。どうしたの、突然。
どっち?
どっちとは?
名言?愚言?
もちろん、名言です。偉人の名言。
うむ、よろしい。 彼女が笑顔を見せた。
でも料理中は料理に集中してね。危ないから。
はい。それも名言です。
目が覚めるまでに
帰ってきてソファに直行した。電気もつけず、座り込む。
夜闇の壁をじっと睨む。ここ半年、同じことの繰り返し。闇しか見えない。が、そこにある全ては記憶に焼き付いている。
壁には無造作にキャンバスが立て掛けてある。下絵のままのキャンバス。
コンポジションはマティスのダンスを模していた。手をつなぎ円を作る。ダンサーたちの躍動感あるポーズからは、原始的な生命力
が溢れ出ている。
マティスとの違いは、不特定のダンサーではなく、知っている顔であるということだ。
私と彼女、そして私と彼女の門出を祝ってくれた友人たち。鉛筆の線だけだが、仲間内では誰が誰なのか一目でわかる顔だった。
1ヶ月もあれば完成ね。 彼女は言っていた。
突然の事故。なんの言葉も残さず、彼女は消えてしまった。
一日の疲労が静かに眠りを誘ってきた。ソファに座ったまま目を閉じると、いつも通り、キャンバスに向き合う彼女が浮かんできた。
あのときと同じように、私は新聞を読みながら、時折、筆を走らせる彼女の後ろ姿を見る。
筆先の絵の具は何色だろうか。よく見えない。
私や友人たちは何色で染めるのだろうか。マティスと同じように赤なのか、それとも別の色なのか。
なあ、君はどんなふうに描きたかったんだい?
いつも同じ夢。いつも同じ問いかけ。
1度も返ってこない問いかけ。
いつか。いや、
今度こそ、目が覚めるまでに答えを見つけたい。
今度こそ。
病室
6人部屋の病室だった。
お見舞いに行ったら、ベッドの祖父が財布から五千円を取り出し僕に渡した。
なに、これ。何か買ってくるの?
靴買ってきなさい。
爺ちゃんの?サイズいくつ?
違う。お前の。
なんで?
足音がうるさい。
足音? 僕は自分の靴を見た。新品の五万円の革靴。
カッカッカッて、遠くからでも聞こえる。他の人に迷惑だから。
爺ちゃんは仏頂面でそう言った。
病室を出てエレベーターまで歩く間、自分の足音に注意を向けてみた。確かにうるさいかも。爺ちゃんも同室の人に気まずかったのかな。悪いことしちゃったな。
翌週。
スーツには合わないと思ったが、ほんの三十分程度だ。駐車場でスニーカーに履き替えて病室へ。
りんごをテーブルに置くと、祖父は財布から今度は一万円を取り出して、
ネクタイ買え。ちゃんとしたやつ。
え、これだめかな。イギリスのメーカーのなんだけど。
いいから。もっと良いの買え。みっともない。
うん。 僕はそんなにだめかなと思いつつ、一万円を受け取った。
祖父の死後。祖母と母から教えてもらったが、足音を聞いて、来たな、と祖父はすぐに気づいたそうだ。全く、音がおっきいんだよ、といいながらも笑っていたらしい。
靴もネクタイも、最後に孫に何かしたいという気持ちの表れだったんだろう。ああいう性格の人だから。素直になれず。最後までああいう人だったから。
スニーカーはさすがにボロボロになったので捨ててしまったが、ネクタイはクリーニングを欠かさない。
ここぞというときの勝負ネクタイだ。
明日、もし晴れたら
数日前スマホを買い替えた。以前のものとは違うタイプのものを買ってみた。機能を覚えるのもまだまだこれからだ。
もし明日晴れたら、窓を全開にして、空の写真を撮ってみよう。新しいスマホで。
きっと雲も、今までよりもきれいな白に撮れるんだろうな。
空の青ももっと青く、もっと遠くまで写してくれるかも。そんなことはないか。
どんなふうに撮れるにしろ、最初の撮影はスマホに主導権を預けよう。慣れない手つきで僕があれこれやってしまったら、スマホがへそ曲げて、きれいに撮ってくれなくなるかもしれない。
もしそうなったら、そこで撮影は中止かな。そのあとは、アイス食べながら、説明書とにらめっこだな。
などと、思っていると。
にゃあ。
ん、どうした。
にゃあ(撮っていいぞ)。
ちょっと待って。確か、ここでズームで明るさがここで……。
にゃあ(はやくしろよ)。
もうちょっと待って。説明書どこだっけ。
にゃあ(もういい、寝る)。
ああ、そっか。ここ押すんだな。よし、撮るよ。
パシャ。
うん、まずまず。次はちゃんと起きてるときに撮ってやるぞ。
ゴロゴロ(早く使い方おぼえろよー)。
だから、一人でいたい
ギターもピアノも誰かに習ったことはない。我流で弾き始めた。
わたしがピアノを弾くというのをどこから聞いたのかわからないが、文化祭の合唱コンクールで弾いてほしいと頼まれた。
はじめは断ったが、何度も頼まれて仕方なく引き受けた。
結果、それなりにはできたと思う。合唱はなんと言っても合唱が主役、ということもあって、みんなの邪魔をしないように、わたしなりにできるだけ慎ましく弾いた。
終わってから、ありがとうと数人から言われた。
うん、と返したが、少し居心地が悪かった。
考えてみれば、わたしは誰かのために弾いたことは一度もなかった。だから、みんなに合わせて弾いた音が、自分の音じゃない気がして。
やっぱりひとりで弾こう。わたしのピアノは、わたしだけの為の音だから。